第4話 繊月(せんげつ)
西園寺と深見の関係は、遡るまでもない。
伯祖父と瑠璃の祖父の代から始まっている。
都心から離れた片田舎の町を住民の為に開拓し始めた頃に、不動産取引で知り合ったことがきっかけで交流が始まり、老舗として有名な宝飾品会社の志堂の分家筋に当たることが分かってからはより親密な付き合いに発展したようだ。
あまり表舞台に顔を出さない伯祖父が、若い頃懇意にしていた公家華族の女性を最初の妻に娶った人物が深見であり、僅か二年の蜜月の後子供を設ける事無く儚くなった彼女の事を、月日が流れたいまも偲んでいる事が、より一層伯祖父と深見の絆を強くしたらしい。
瑠璃の幼少期の面影が、深見の前妻にどことなく似ている、と伯祖父から聞いた事があるので、恐らくそのこともあって、瑠璃の祖父は相当彼女を溺愛していたのだろう。
伯祖父と祖父の間であの花見の宴の夜に軽い口約束として交わされた許嫁の約束は、正式なものでは無かったが、次の春の花見の宴にも深見は瑠璃を伴って顔を見せ、その年の冬にも伯祖父の別荘を訪れた。
年に一、二回ほど顔を合わせる瑠璃は、いつも祖父の傍らにくっついて言葉少なで、まともに視線を合わせる事もしない。
それが極度の緊張のせいだと気づいたのは、出会ってから三度目の春の事だった。
9歳になった瑠璃は、もう祖父の背中に隠れたりはせずにワンピースの裾を丁寧に直して座敷の隅に正座をした後で、真剣な表情で尋ねて来た。
『私は緒巳・・・さんのお嫁さんになれますか?』
気まぐれに指名した輝夜姫が、未だに自分を許嫁だと認識していた事実に驚いて、自分の発言がいかに無責任だったのかを思い知らされた。
15歳になる西園寺は、当然同世代の女子に惹かれていたし、顔を合わせても挨拶しかしない6歳も年下の知人の孫に興味なんて無かった。
それでも緊張に震えながら自分の未来を問うて来る小さな輝夜姫を前にすると、そんなつもりはないと無下に切り捨てる事も出来ない。
考えあぐねた末に、どうにか紡いだ逃げ文句は及第点にも届かなかったはずだ。
『緒巳でええよ。それは・・・瑠璃ちゃんがもっと大人になって、色んな人と知り合うて、その時まだ気持ちが変わらへんかったら、そん時もっぺん話し合おうか』
言い含めるように告げた言葉に、瑠璃はこくんと一つ頷いてみせた。
数年もしないうちに彼女は別の誰かに惹かれるだろう。
もっと身近で、もっと平凡で、もっと優しい誰かに。
お世辞にもお勧めとは言い難い西園寺との縁を、あんな口約束を真に受けて本物にする必要は無い。
彼女の未来はどこまでも開かれていて、これからいくらだって選べるのだから。
西苑寺を背負う兄を支えて、西園寺の責務を全うする自分には、まだまだ足りない物ばかりだ。
そして、西園寺の婚姻には、それらを補う役割が必要になる。
伯祖父のお目に適っている以上、深見は枠内なのだろうが、もっと適任者が出てくればあっという間に鞍替えされることは分かっていた。
子供が一時の気休めで、選んでよい許嫁ではない。
どうか幼い彼女の心に傷が残りませんように、とそれだけを祈って別れた。
それからも、深見と瑠璃の来訪は途絶えず、伯祖父との親交は彼らが亡くなる直前まで続いた。
瑠璃の祖父が亡くなった翌年、伯祖父も永眠して、深見との縁は一端そこで途切れた。
両親に連れられて伯祖父の葬儀に参列した瑠璃と挨拶を交わした二年後に、最初のひずみは生じた。
長らく空席のままだった志堂の後継者の伴侶が、突然浮上して来たのだ。
婚約者を選定中だという当主の言葉を鵜呑みにしていた分家は大いに焦り、それぞれの保身を図ったり、連携を強固にしたりと動きを見せた。
これに乗じて次期当主ではなく、分家筆頭の浅海家に揺さぶりをかけたのが、瑠璃の実兄である深見家の嫡男だった。
結果は火を見るよりも明らかで、志堂次期当主、並びに志堂本家からも不興を買った深見家の分家内での地位は失墜。
志堂の主要分家としての深見家に魅力を感じて嫁いだ深見の妻は、実家の瑞嶋家に戻り事実上の別居生活を始めてしまう。
当時まだ瑞嶋家当主は健在で、長女、多貴子を溺愛していた父親は、深見の失墜に激怒し深見の事業への数々の支援を停止し、経営から手を引いてしまった。
これが決定打となり、深見の事業は縮小の一途をたどることになる。
嫡男の婚家である佐伯家からの融資で残った事業の立て直しを図ったものの、全盛期のような利益は得られず、一度は深見に戻った瑠璃の母親は、その後まもなく弁護士を通じて離婚を申し立て、瑠璃を伴って完全に生活基盤を瑞嶋家に移してしまった。
その頃には、西園寺一族のなかで深見について言及する者は存在せず、すでに関係の切れた間柄として認識されていた。
長引く離婚調停の最中、瑠璃が西園寺の暮らすマンションを一人で尋ねて来たのは、夏の終わりの夕暮れ時だった。
急な通り雨で街の景色がけぶって見えたことをよく覚えている。
伯祖父の法要に顔を出してくれた彼女と三年ぶりに再会して以降、瑞嶋の家で暮らす瑠璃の元を時折訪れては、塞ぎ込む彼女を食事に連れだして気分転換を図ったのは、罪悪感からだ。
未だ西園寺を許嫁と信じて一心に気持ちを向けてくれる彼女に応えられない自分が、瑠璃に差し出せる唯一のものは、ひと時の安らぎのみ。
将来に目を向けた時点で終わってしまう二人の綱渡りの関係は、ただただ穏やかで緩やかだった。
瑠璃の大学の話を聞いたり、自分が関わっている西園寺の事業についてかいつまんで話したり、そしていつだって最後は未来ではなく、昔話で会話が終わる。
瑠璃が祖父に連れられて顔を出していた頃の花見の宴での出来事や、今は兄が住まいとして使っている広い別荘の話。
人里離れた山間の土地は、静かで空気も澄んではいるが、その分野生動物がそこらじゅうで暮らしており、街から移り住んだ住み込みの使用人が、納屋の前でイノシシと遭遇して腰を抜かした話は、何度も瑠璃を笑わせた。
この頃まだ西園寺の基盤は盤石とは言い難く、伸ばそうとした手を躊躇ってはいつも次の機会に、と逃げてばかりいた。
瑠璃が、両親の離婚に怯えるのは、西園寺との縁が切れてしまう事を恐れているせいだ。
既に夫婦間で子供に関する話し合いは済んでおり、彼女の母親は是が非でも瑠璃を手放すつもりはなかった。
娘の離婚を見届ける事無く亡くなった瑞嶋家の前当主は、愛娘と孫娘にかなりの遺産を残しており、それと娘を彼女がどんなふうに利用するつもりだったのかは、今となっては分からない。
が、瑞嶋瑠璃に平凡な人生を送らせるつもりが無かった事だけは、分かっていた。
そして、それを瑠璃も感じていたから、あの日、無防備なまま腕の中に飛び込んできたのだ。
びしょ濡れの瑠璃を落ち着かせて、あの頃より難しい言葉で上手く言いくるめて、自分たちの間にある境界線を明確にして、終わらせる方法もあった。
瑠璃は傷つくだろうが、結果的にそれは新しい彼女の幸福に繋がって、いつかは過去になる。
自分の今持ち得る力でどこまで瑞嶋瑠璃の人生を守れるのか測れずに居たが、不可能では無かったはずだ。
けれど、一度腕の中に閉じ込めた身体を永遠に手放すのだと自覚した瞬間に、その選択肢は掻き消えた。
目の前の彼女は、父親でも母親でもなく、自分一人だけを求めて縋ってくれている。
西園寺緒巳という人間だけをずっとよすがに生きて来た彼女の一途な恋心は、燻り続けていた迷いを一瞬にして粉々に打ち砕いてしまった。
伸ばされた手を拒む理由なんて、どこにもなかった。
抱きしめた身体は8月とは思えない程冷え切っていて、嗚咽を零す瑠璃は、年齢よりもずっと幼く見えた。
背中に回された腕が、もしも一時の心細さから来るものであっても構わないと思った。
彼女にこの瞬間選ばれた自分を、それまでの人生で一番誇らしく思えたからだ。
緒巳、と名前を呼ぶ声が震えていた。
頬に落としたキスはちっとも彼女の白い肌を染めてはくれなくて、焦れるように掻き抱いた。
慰めているのか宥めているのか分からないくらい抱きしめて、やがて耳元で名前を呼ぶ彼女の声が熱を宿して柔らかくなった。
初めて触れた彼女の肌はどこまで無垢で清らかだった。
時折込み上げて来る後悔と迷いを熱情でねじ伏せて、ドロドロになるまで抱き合った。
細腰を引き寄せて熱を沈める頃には、雨は止んで夕陽は沈んで、ただただ静かな夜が訪れていた。
たしかに彼女を手に入れた安堵と、選び取った未来を自覚して、この先の現実をきちんと自分の意志で選んだ。
寸分の迷いも無かった。
あの日、たしかに西園寺は、瑠璃と瑠璃の未来をこの手に掴んだのだ。
いわゆる古代の預言書のようなものはどうやらこの国にはないらしく、その代わり残された暦と星の動きから、起こる事態のおおよそは予測が立てられるらしい。
ただ、時代の流れと文明の進化で、それが過去とどのように類似し相違するのかは実際に起こらないと分からない。
西苑寺を継いだ兄は言った。
緒巳が、人生を共にできる人間は、今のところ、
そして、選ばなかった者の為に、取るべき道を選ぶことになると。
絡ませて眠ったはずの指先はいつしか解かれ、抱き込んで目を閉じたはずの瑠璃の姿は、腕の中から消えていた。
約束も、決別の言葉もなく。
だから、あの日決めたのだ。
誰が違うと言ったって、運命に変えに行く。
自分の手で、途切れた恋を。
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