第3話 朧月(おぼろづき)

「お嬢様ぁ、お客様ですよぉ」


「あ、すぐにお暇するんでお気遣いなく。ミツさん玉雲堂好きでしょ?大福よかったら」


「あらあらまあまあ!いつもすみません。離れにお茶お持ち・・・」


「瑠璃にはこっちがあるから。お茶はまた今度ゆっくり」


開け放ったままの縁側に慣れた様子で回り込んで来る西園寺を一瞥して、瑠璃はスケッチブックを伏せた。


画廊にも、アートギャラリーにも顔を出さない日の瑠璃のスケジュールは大抵決まっている。


入母屋造りの母屋にある亡くなった祖母の洋室から昔の少女小説や日記を借りて来て、夜更けまで読書に明け暮れて、昼過ぎに起きて気が向けば画材の整理をしたり、庭の草花をスケッチする。


時には野良猫が通りかかる事もあって、敷地内にいても飽きる事がない。


母方の実家である瑞嶋家で暮らし始めてから、出戻りである事を忘れたかのように自由気ままに振舞う母親と、目の上のたんこぶの帰還を快く思っていない叔父と従兄のギスギスした関係に息が詰まりそうだった瑠璃の気持ちの捌け口となったのは、絵を描くことだった。


学生時代も美術の授業でしか絵筆を握ったことの無かった瑠璃が、祖父が生前愛用していたという日本画の画材に出会ったのは、母屋での生活に嫌気がさした母親が離れに住まいを移して間もなくのこと。


最愛の祖母が亡くなった後、思い出の残った母屋での生活から離れる為、敷地内に小さな離れを作って隠居生活を送っていたという祖父の唯一の趣味が日本画だったらしい。


食事の時以外は母屋に顔を出さない生活が始まり、母親は居場所を奪われたと終始憤っていたが、瑠璃はむしろその方が気が楽になった。


地元に残る古い友人たちとの交友を深めに母親が出掛けた後は、大学の授業以外はずっと離れに籠って見よう見まねで絵ばかり描いて過ごした。


使い方の分からない日本画の画材に四苦八苦しながらも、煩わしいばかりの現実から自分を切り離せる時間は何よりも大切で尊いひと時だ。


時々画廊を尋ねて来る地元の老人に、日本画の基礎を少しだけ教えて貰い、どうにか一枚の絵を完成させられるようになった頃、母親は末期ガンであっけなく逝ってしまった。


母親の見栄とプライドの為だけに通い続けていた大学に通う意味がなくなり、これを機にここを離れて一人暮らしを始めようと決めた瑠璃を引き留めたのは、母親と折り合いの悪かった叔父と従兄で、これまでの不仲が嘘のように瑠璃を家族として迎え入れてくれた。


”姉さんの分も、せめて瑠璃ちゃんがお嫁に行くまでは家族として見守らせてほしい”


真摯に頭を下げる叔父と従兄に甘える形で居候を続けさせてもらうことなり、結果、離れは瑠璃のお城になった。


通いの家政婦は、母親の事を多貴子お嬢様、瑠璃の事を瑠璃お嬢様と呼び続けており、それは今も変わらない。


お嬢様とは程遠い生活をしているはずなのだが、生活能力の低さを思えば確かにその呼び方はあながち間違いではないのかもしれなかった。


産まれてこのかた一度も実家を出た事が無くて、会社員経験もない。


もしも母親の葬儀の後、勢い任せに家を飛び出したとしても、未成年で保護者も居ない瑠璃が賃貸マンションを契約できるわけも無かった。


結局は考えなしのお子様だったのだ。


その考えなしの瑠璃のせいでとんだとばっちりに合ったはずの男が、未だにこうして瑠璃の前にしょっちゅう顔を見せることが、一番不可解でならない。


結ばれていたのかも分からないような縁は、あの日確かに途切れたはずだ。


瑠璃の明確な意思によって。


「お邪魔してもええ?」


今日も今日て人好きのする笑みを浮かべながら、縁側に遠慮なしに腰を下ろした西園寺が手にしていた紙袋を差し出した。


「もうお邪魔してるでしょ。なに?」


和室に手を伸ばして、引き寄せた座布団を勧めながら紙袋を覗き込む。


「京都行ったからお土産」


「・・・忙しいわね」


「売れっ子の御曹司やからしゃあないわ。早よ買わな売れてまうで」


「高すぎて買えない。ありがとう」


ミツとの会話から察するに和菓子だろうと推測していたが、入っていたのは小さな小箱に入った落雁だった。


離れで絵を描いている間は、不精して指先が汚れるものを避ける瑠璃なので、彼がここに持ち込むものは大抵個包装の片手で食べられるお菓子、もしくはちょこちょこと摘まめるものだ。


砂糖なしのカフェオレと優しい甘さの落雁は、瑠璃の定番のおやつだった。


見た目も華やかな可愛らしいそれは、玉手箱に見立ててある。


小さな手毬を摘まんで早速口に運んで、西園寺にも勧めた。


「えええ、瑠璃専用で激安特価にしとくのに」


「なにそれ」


御曹司の激安特価なんて聞いた事が無い。


もうすでに購入権は手放してしまったし、彼に手を伸ばせるだけの何かもない。


それなのにこの御曹司は、暇さえあればこうして自分を売り込んで来るのだ。


「瑠璃の好きな味やな」


和三盆のまろやかな風味は、舌に乗せた途端じゅわりと溶けてすぐに消えてしまう。


胸に浮かんだ後悔や罪悪感を飲み下すように、二つ目に手を伸ばした。


「やっと京都も涼しくなってたわ。大田神社は人もそんな多くないし、杜若の季節は過ぎとるからのんびりするにはちょうどええで。静かやし。瑠璃も絵描き放題や。今度連れてくな」


一緒に行こう?と彼が誘いかけなくなったのはいつからだろう。


行けない、と同じ返事を繰り返しているうちに、西園寺は誘いかけるのをやめた。


一抹の寂しさのやり場を探し始めた途端、連れてくな、と言われて堪え切れず笑ってしまったことを昨日のことのように覚えている。


「お見合い相手の女性を誘ってあげたら?」


「あれ、その話したっけ?」


「・・・白井さんと所長が教えてくれた」


「ふうん。聞いたんや」


一瞬目を見張った西園寺が、にやりと口角を持ち上げる。


こんな事で彼を喜ばせられるなんて思っていないのに。


「訊いてない。お昼食べに行った時に館長の話題になっただけ。だってほかに共通の話題がないんだもん。子供や旦那さんの話は私相手だとイマイチ盛り上がらないし・・・白井さんも、私も、所長も知ってる人ってなったら、どうしても限られてくるでしょう」


24歳の瑠璃と、32歳の白井では世代が違うし、片や彼氏なしの独身、片や旦那も子供も姑もいる兼業主婦。


子供の保育所での様子や、旦那の愚痴は、相槌を打つことは出来ても、同じような話題を返すことは出来ない。


瑠璃があの頃のまま、深見を名乗ったままで居たら、白井と同じような立場になっていたかもしれないが、それはあくまでたらればの話だ。


「こないだのお見合いは、どうしても断られんとこから回って来たから」


「別に聞いてない」


「うちのおひぃさんが手ぇ挙げてくれたら、すぐに面倒事から解放されるねんけど」


それに関しては一切ノーコメントだ。


手を挙げるなんてとんでもない。


万一挙げたところで笑い者になるだけだ。


無表情のまま桜の落雁に手を伸ばす。


これ以上は無理だと諦めたのか、西園寺が話題を変えてくれた。


「白井さんの旦那さん、会うたことある?」


「会ったことは無い。駐車場まで車で迎えに来られてるところは見たことあるけど。あ、息子さんは挨拶したことあるわ」


お喋り好きな白井は、瑠璃が迷う前に次々と話題を振ってくれる。


働き始めた初日のランチで、スマホの待ち受け画面の愛息子とご対面を果たした後、夫の職業から二人の出会い、現在の住まいまでペラペラと話して聞かせてくれた。


自分のことを話したくなかった瑠璃にとっては、それはまさに好都合で、以来話し役の白井、聞き役の瑠璃という役割が定着している。


「旦那さんな、俺の高校の先輩やねん。白井さん姉さん女房なんよ」


「え、そうなの?」


「あ。それは知らんかったんか」


「地元のファミレスでナンパされたっていう話は聞いたけど・・・へえ・・・あ、でも何となく納得は出来る気がする」


「ちなみに出会いがナンパっていうんは奥さんの誤解な。ほんまは、奥さんが落としたイヤリングを旦那さんが拾ったんがきっかけ。わざわざ拾ってファミレスまで追いかけて来てくれた旦那さんに感動した奥さんが、連絡先聞いたんが交際の始まり」


「へえ・・・ロマンチック」


それだけ聞くと、なんだか童謡の森のくまさんのようだ。


落とした後すぐ誰かに踏まれてしまったらしく、使えなくなってしまったそれを今もまだ大事に持っている事、最初のデートで彼が新しいイヤリングをプレゼントしてくれて、一気に恋心が加速したと熱心に語る白井の表情は幸せそのものだった。


どんなに忙しくても毎日スーパーに行って食材を買い込んで手料理を振る舞う兼業主婦の誇らしげな姿は、瑠璃が逆立ちしたって手に入れられないものだ。


「俺と瑠璃かって誰かが聞いたら羨むような出会い方してるやん」


「・・・・・・」


嘘でも覚えてない、と突っぱねられない自分が憎い。


唇を引き結んで俯いた瑠璃を横目に、西園寺が落雁に手を伸ばした。


摘まんだそれを青空に翳して、ふわりと目を細める。


「俺は桜見るたびあの日を思い出すけどな」


ズキンと胸が痛むのは、恋しいからじゃない。


ただ、何もかも眩しかったあの日々が、鮮やか過ぎて切ないからだ。

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