第2話 朔月(さくづき)

幼少期以降、深見、という苗字に良い記憶はない。


残念ながら人生の半分以上を深見で過ごして来た瑠璃にとって、この苗字は足かせ以外の何ものでも無かった。


そして、瑠璃が二番目に嫌いな苗字は志堂である。



★★★



「瑠璃ちゃーん、午後からの団体来る前に早昼行っちゃってー」


事務所から顔を出した事務員の呼びかけに、受付カウンターでパンフレットを準備していた瑠璃は振り返って返事をした。


時計を見ると11時半を回ったところだ。


「はーい!でも白井さん後でいいんですか?」


「どうせ今日も残り物のお弁当だからいいわよう!早く行かないとカサブランカ、いっぱいになるでしょう?」


「いつもすみません・・・」


恐縮して頭を下げる瑠璃に、いいのいいの!と気の良い返事を返した白井が、どうせ誰も来ないから不在カード立てといてね!と手を振って事務所に引っ込む。


数年前まで、瑞嶋画廊みずしまがろうの持ち物だった負の遺産である大型ギャラリーを地元の名士である西園寺家が買い取り、市民アートギャラリーとして官民の文化交流の為に活用するようになってから学生団体の受け入れも増え、来場者数は各段に上がったが、それでも片田舎の町なので、平日の昼間はいつも閑古鳥が鳴いている。


あってないような受付仕事にありつくが出来たのは、瑞嶋の縁者だったからだ。


施設管理を任されている中年の事務所長と、経理担当のパート事務員の白井、そして瑠璃、三人という少人数構成の事務所は、社会人経験のない瑠璃にとっては有り難いことだらけの職場だ。


彼らは瑠璃を、地元に昔からある瑞嶋画廊の姪御さんとして見てくれるので、見栄を張る必要も無い。


深見を捨てた瑠璃にとっては、何よりそれが助かった。


週4回の勤務は、自宅と画廊を行き来するだけの瑠璃にとってはいい気分転換になる。


バスで二区間の道のりも、散歩として歩くにはちょうど良い距離なのだ。


唯一不満があるといえば、ランチ時に入れる店が、道路を挟んだ向かい側にある喫茶店カサブランカ、もしくは、徒歩10分の区役所の食堂しかないことくらい。


子供の頃から家政婦が常駐している家で生活して来た瑠璃に自炊能力は皆無。


大学入学を期に一念発起して挑戦してみるも指を切って台所を汚しただけで終わってしまい、家族総出で止められて以降一度も包丁を握っていない。


顔馴染みの家政婦に頼めば喜んでお弁当を持たせてくれるだろうが、居候の身でそこまでお願いするのは申し訳なさすぎるので、コンビニ飯を一周した後は、一番近いお店でお世話になっている。


区役所の食堂は安くて美味しいと評判だが、白井や事務所長と一緒の時にしか利用することは無い。


まずないとは思うが、深見の頃の知り合いに会うと面倒だからだ。


そのため、瑞嶋を名乗るようになってからの瑠璃の行動範囲は極端に狭い。


事務所をノックして、お昼行ってきますと声を掛けた後で、まだ夏の気配の残る日差しに顔を顰めながら足早に道路を横断する。


日傘は事務所に置きっぱなしだ。


アートギャラリー前の道路が混みあう事はまずないので、片道2分程の移動の時は財布だけを持って出かける。


アートギャラリーの北側にあるJRの駅前に出る時には日傘は必須だが、今日はコンビニに寄り道する予定も無かった。


一階が駐車場になっているカサブランカの、二階に続く螺旋階段を駆け上って日陰に飛び込む。


ほうっと息を吐いてからそっとドアを開けると、軽やかにカウベルが鳴った。


「やあ、今日もいらっしゃい」


黒縁眼鏡と口ひげがチャームポイントの店主がいつものように柔らかな笑みで迎えてくれる。


その奥からひらひら手を振ってくれるのは店主の妻でこの店の料理長だ。


「こんにちは。日替わりをお願いできますか?」


お昼時にやって来る瑠璃が頼むのは決まって日替わりランチだ。


「エビフライだけどおまけするわねー」


「あ、嬉しい!」


弾んだ声を上げた瑠璃に穏やかな笑みを向けた店主の妻が、次の瞬間気づかわしげな視線を店の奥へと向けた。


なにかあったのだろうかと、店の奥に足を進めようとして、止まった。


混雑時以外は、いつも決まって道路に面した窓際の角席に座る瑠璃なのだが、定位置の向かいの席に見知った後ろ姿を見つけてげんなりする。


日替わりランチを注文する前に気づけばよかった。


やっぱり今日は、と尻込みしそうになる瑠璃に向かって、背中を向けていた人物が振り返って相好を崩す。


「瑠璃ぃ。はよおいで」


こっちやと手招きする男の柔らかな口調と、同じくらい柔らかな垂れ気味の目。


女性受けの良い容貌をフル活用するべく今日も着こんだスーツの上着は椅子の背に掛けてある。


くすんだ海松茶みるちゃのベストと、柘榴の細縦縞のネクタイの組み合わせが憎らしいほどよく似合っている。


自分の見せ方も使い方もよく知っている男だと、一目で分かる。


「来るって聞いてないけど・・・?」


「今日もスマホはお留守番やろ?」


「はーい、お待ちどおさま。西園寺さんはエビフライ二本おまけね」


「いつもありがとうございます」


「瑠璃が玄関出たんが見えたから、用意しといてもろてん。気ぃ利くやろ」


小さなテーブルは、二人分の日替わりランチでいっぱいになった。


腰かけた瑠璃に、割り箸を割ってから差し出すと、西園寺は自分のぶんも同じようにして、頂きますと行儀よく手を合わせるとすぐに具だくさんの味噌汁を啜った。


大口でパクパク付け合わせのキャベツとエビフライを頬張って行くのに、少しも粗野に見えないのは育ちの良さと所作の美しさのせいだ。


「エビフライ、熱いで。気ぃつけや」


綺麗に割って貰った割り箸を握りしめて、行儀よく彷徨わせていた箸先をエビフライへと向かわせる。


瑠璃の本日の持ち物は、ポケットの中のハンカチと、手にした三つ折り財布のみ。


指摘の通り、スマホは事務所のカバンの中だ。


「あの・・・館長」


現在の市民アートギャラリーの責任者兼館長である西園寺は、いわば瑠璃にとっては直属の上司である。


受付事務員の仕事も、彼から、瑠璃の叔父である瑞嶋画廊の店主に依頼があって始められた。


「いま昼休みやろ」


嫌というほど顔を見て来た昔馴染みが上司になったのはやっぱり複雑だけれど、公私の区別はきちんとしなくてはならないし、瑠璃としては必要以上に彼と接したくはない。


が、手首のごついオーヴァーシーズを一瞥した彼がバッサリと切って捨ててきた。


仕方なくエビフライを冷ますために息を吹きかけながら彼の名前を口にする。


「・・・あの、緒巳おみ


「んー?なん?」


「用事・・・あったんだよね?」


どうかそうだと言って欲しい。


何の用事も無くカサブランカの定位置でただ瑠璃を待っていたのだとは、絶対に言って欲しくない。


祈るような気持ちでサクサクのエビフライの端を齧る。


丁寧にした処理された海老のぷりぷりの食感に頬が緩んだ。


カサブランカのランチはどれも美味しいが、フライはとくに格別なのだ。


猫舌の瑠璃は、冷めたカキフライしか知らないがそれでも十分すぎる程に柔らかくてジューシーな牡蠣を味わう事が出来た。


昨夜なかなか寝付けなくて朝寝坊したせいで、折角用意して貰った朝食を食べる事が出来なかったので空腹には余計に美味しさが染み渡る。


エビフライを咀嚼してごくんと飲み込むと、待ちかねていたように目の前にプチトマトが差し出された。


付け合わせのサラダにプチトマトがあると、瑠璃に毎回譲ってくれるのは彼の癖になっている。


「んー・・・午後から役所で会議。ほら、食べ」


唇に押し付けられたプチトマトを招き入れると、西園寺が軽く指を引いてヘタだけを取ってくれた。


望んでいた答えが聞けてホッとする。


齧ったトマトから触れた果汁の甘みに思わずうっとりしてしまう。


「有機栽培のトマトってなんでこんな甘いんだろう・・・」


契約農家からメインの野菜を仕入れつつ、夫婦が自分たちで栽培している菜園で採れたての果物や野菜を付け合わせにトッピングしてくれるのだ。


おかげで此処に来るたび瑠璃は野菜を好きになった。


「今度はどこの不動産を買われるんですか?」


この辺りの土地一体の所有者である西園寺家の財力を地元で知らないものは居ない。


土地代だけで充分潤っている西園寺は、昔から地域貢献活動に注力しており、先々代の頃から数えると彼らのおかげで設立された医療機関や図書館などの公共施設が山ほどある。


「買わへんよ。駅北のビルのリノベーション工事の相談や。子育て世代が増えて保育所が手狭になっとうやろ?あのビルちょうどええかなと思って」


やんちゃ盛りの男の子を育てているパート事務員の白井が聞いたら泣いて喜びそうな話である。


「・・・あんた政界進出でも狙ってんの・・・?」


十分すぎる資産があって住民たちからの人望を欲しいままにする彼がひとたび選挙カーに乗ればあっという間に雌雄は決するだろう。


「狙ってへんよ。うちのおひぃさんがファーストレディーになりたいんなら、話は別やけど、どないなん?」


首を傾げて見つめられて、三秒のちに真顔になった。


「だだだだれが・・・」


この手のやり取りはもう飽きる程繰り返されてきたはずなのに、毎回どもってしまうのが本当に悔しい。


いつになったら平気で笑って躱せるようになるだろう。


いつか、新しい恋に目覚めたら?決定的な失恋を目の当たりにしたら?


考えるだけで胸が苦しくなってくる。


「そら俺かって瑠璃にお願いされたら全力で勝ちに行くけどさぁ」


「望んでないわ!」


「そやろ?やからせえへん」


あっさり引いた西園寺が、二つ目のプチトマトを差し出す。


いや、その前にもっと訂正するべきことがあったはずだと、必死に言い返そうとするけれど、唇に押し付けられたプチトマトのせいで結局それは言葉にはならなかった。




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