溺れるように愛したい ~没落令嬢と元許嫁御曹司のやんごとなき婚活事情~

宇月朋花

第1話 春月(しゅんげつ)

それは春の夜だった。


この日の為に庭師が丁寧に剪定した木斛やモチノキの上には、風に吹かれた山桜の花びらが柔らかく降って、篝火が揺らめくたびに集まった人々は魅入るようにその幻想的な景色を眺めた。


周囲の期待通りの才能を開花させて、西苑寺さいおんじへの養子入りが決定した長男と、繰り上げ嫡男となった次男のお披露目を兼ねた花見の宴は、現当主の隠居先となる山間の別荘で行われた為、テレビゲームも玩具も無いその場所は子供にとってはただの肌寒い退屈な場所に過ぎない。


伯祖父おおおじに倣って立派な跡取りを目指します”


とお手本通りの挨拶を口にした元兄の隣で同じように頭を下げて、大人たちの支度が整うまで取り掛かっていた塾の課題の残りをどうしようかと、この場に全く関係の無い事を考えながら愛想笑いを貼り付ける。


表門と裏門のセキュリティは強固だが、とにかく最新の電子端末が嫌いな伯祖父に従い、電波が届くのは広大な敷地内のごく一部の部屋のみ、というアナログ空間において小中学生の子供が時間を潰せるアイテムは限られていた。


最寄り駅から車で一時間。


バスもろくに通らない山道の奥に住まいを移すことに決めた伯祖父の心境なんて理解出来るわけもない。


別荘が完成してから何度か両親に連れられて来たものの、全くもって長居は無用の場所だった。


当時は、まだ後継者の指名がなされておらず、兄弟のどちらか、どちらも才能が見いだせなかった場合は外部の誰かが西苑寺さいおんじを名乗る、という漠然とした事実のみがあり、親族は勿論のこと、三代前の遠縁を名乗る者まで足繫く別荘に姿を見せていたので、いつ行っても敷地内は賑やかだった。


度々大座敷で宴会が催され、上座に陣取るほろ酔いの伯祖父を取り囲んでは、顔を売りたい大人たちがこびへつらう。


実際のところ後継者の指名において重要なのは、才能一択だったが、誰にもその兆しが見られなかったため、立場は綺麗に横並び。


うっかり蹴落とした相手が、後継者に指名される可能性もある為、大人たちは腹の探り合いに余念がない。


幼い頃は子供用の食事が提供された後は、皆揃ってボードゲームに興じる事もあったが、それも数年で終わった。


一通りの挨拶の後、宴会を抜け出した子供たちは、各家庭毎に用意された支度部屋に戻って親の迎えを待つことが常になっていた。


無駄に広い敷地には、来客が宿泊出来るようにいくつもの離れが用意されており、そこに入ってしまえば、別室の動きは分からない。


だから、こうして庭園で来訪者たちと正式に対面するのは、別荘に通い始めてから始めてのことだった。


四月も終わりに差し掛かっているにも拘らず、陽が落ちると一気に冷え込む山の空気は都会のそれよりもずっと冴えていた。


吸い込むたびに肺がキリキリ痛むのは、寒さからではない。


子供心に、自分と兄が厄介な立場に立たされたことをひしひしと感じていたのだ。


不安になって隣に立つ兄を見上げれば、平素通りの静かな面が見えて、ああ彼のなかにはとっくに諦めがあるのかと、何だか自分が情けなくなった。


誇らしげに息子達を見つめる両親の瞳は、すでに保護者のそれではなく、崇拝者のものになっていた。


ついさっきまで確かに手元にあったはずの穏やかな日常が、今日を境に一気に変貌を遂げるのだろう。


そして、自分はそれに抗うすべを持たないだろう。


俯くことは赦されないと、離れを出た瞬間から理解していた。


必死に見上げた宵闇には、悔しいくらい綺麗な天満月あまみつつきが見えた。


やり場のない憤りと悔しさをぶつけるように月を睨み続けること数分。


すでに後継者の顔で伯祖父の隣に並んで、弥栄の言葉を受けていた兄から名前を呼ばれた。


視線で応えれば、こっちに来いと手招きされる。


形だけの了承を両親から貰って側に行くと、伯祖父が盃を片手に庭園に集まる人々を顎で示した。


「随分と退屈そうだな」


「・・・別に」


愛想笑いに飽きていたことを見抜かれて、慌てて視線を泳がせれば。


「・・・・・・」


小さな溜息と共に窘めるような視線を兄から向けられた。


伯祖父が隣にいなかったら、脇腹を小突かれるくらいはしたかもしれない。


「お前にも負担をかける」


御大と呼ばれて傅かれることに慣れているはずの伯祖父の口から飛び出した殊勝な言葉に、思わず目を丸くした。


西苑寺に連なる家に生まれた以上、背負って然るべき責務である、と誰もが口を揃えて話していたし、事実、伯祖父はそれら全てを一身に背負って今日まで責務を全うして来た。


近寄りがたい酒豪の豪傑としか見ていなかった彼の口から、そんな台詞が出て来るなんて。


”負担”の二文字を彼が口にするということは、そういうことだ。


「が、頼むよりほかにない」


「・・・・・・はい」


ほかに返事のしようがなかった。


今更ここで、嫌です無理ですと暴れたところでどうにもならないことは分かっていたし、自分よりはるかに大きな重荷を背負うことになる兄の隣で、自分が先に戦線離脱するなんて許されるわけがない。


「だから、タダとは言わん」


「・・・・・・はい?」


「欲しいもんないのか?」


息子二人を御大に預けた後で両親はまるでこの場の主役のように人々から祝福と賛辞を受けている。


その誇らしげな表情は、運動会で一等を取った時よりも、テストで満点を取った時よりも、全国模試で上位に入った時よりも数倍輝いて見えた。


ここぞとばかりに胸を張る彼らを羨望の眼差しで見つめながら、今後もどうぞよろしく、とグラスを交わし合う大人たち。


少し離れた縁側にほど近いテーブルには、子供向けの洋食メニューが用意されており、それらを囲んでいる自分よりずっと幼い少年少女の姿が見えた。


祝いの席に合わせてワンピースやベストを着せ付けられて窮屈そうな彼らの向こうに、その子は居た。


花車と牡丹が鮮やかな振袖に山桜のピンクが舞うように寄り添って、小さな手のひらが降って来た花びらをそっと摘まんだ。


はしゃぐ子供たちから離れるように、踏み出した少女がほんのわずかに顔を上げて、その瞬間目が合った。


技術を誇る職人によって丁寧に作られた日本人形を思わせるぬばたまの黒髪に、抜けるような真っ白な肌。


作り物のように赤く塗られた唇は少しも笑みを結ばない。


月光を浴びて青白く見える濡羽色の瞳が一瞬だけこちらを認識して、すいと逸らされた。


どくんと鳴った鼓動。


去年の秋の発表会で披露した竹取物語を急に思い出した。


「あの子」


さっきまで睨みつけていた月を手元に掴み取った錯覚に陥った。


指さした先を確かめた伯祖父がひょいと眉を持ち上げて愉快そうに笑い声を上げた。


「深見のところの孫娘か・・・ふうん、まあいい」


この夜は、表向きは花見の宴としていたため、普段は出入りしない外部の人間も多く招かれていた。


深見、と呼ばれた少女も恐らく伯祖父が懇意にしている知人、もしくは会社関係者の親族なのだろう。


これまで見たことの無い顔だったが、そんなことはどうでも良かった。


伯祖父の視線に気づいた壮年の男が、柔和な笑みを浮かべながらビールグラス片手に歩み寄って来て、伯祖父の友人の深見だと挨拶を受けた。


兄は興味深そうに無言のまま事の成り行きを見守っていて、弟が適当に口にした言葉がどんな波紋を呼ぶのか、期待しているようでもあった。


伯祖父は振り袖姿の少女を示して、視線をこちらに戻したあとで、尋ねた。


「コレの相手にどうだ?」


「それはそれは・・・なんとも恐れ多いことで」


「お前さんのほうで使い道が決まってないなら、候補の一つに入れてやってくれ」


明日の朝食を選ぶくらいの気安さでそう言った伯祖父に、深見は苦笑を返した。


「何年先の話になりますやら」


子供の将来は親の敷いたレールによって定められることは、もう当たり前のことになっていた。


「構わんよ。まあ、その頃にはお前の人生ももうちょっと面白いことになってるだろう」


勝ち誇ったように微笑んだ伯祖父が皺まみれの節ばった手のひらを伸ばして、遠慮なしに頭を撫でられる。


「あの子の名前は?」


「瑠璃。深見瑠璃だよ」


初めて耳に届いた彼女の名前を胸に吸い込む。


肺の痛みはいつの間にか治まっていた。


瑠璃。


なんて輝夜姫に相応しい名前だろうと、そんなことを思った。


睨んだ月をこの手に掴み取った気がしていた。


輝夜姫を捕まえた。


胸のわだかまりが一瞬だけ綺麗に消えた。


誰かを人生に巻き込むことも、誰かの人生に巻き込まれることも、この時はまだ知らなかった。


興味と好奇心の行く先に、なにが待ち受けているのかも。


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