第42話 Pink-2
”あなた、あの子どうにかなさい”と女王様から押し付けられた後輩にいよいよ匙を投げそうになっていたある日、富樫が室長のお伴で出かけることになり、代わりに古参の上顧客のデザイン打ち合わせを彼女に任せたことがきっかけで、周囲の翠を見る目が一気に変わった。
富樫が何度デザインを再提出しても首を縦に振ってくれない難しい上顧客が、翠のデザインを見るなり一発OKを出したのだ。
まぐれの一回とか奇跡の一回とデザイン室は大騒ぎになったが、その後同じ顧客からデザイン依頼があった際も同じことが起こり、その伝手で別の上顧客のジュエリーリフォームも任されたことで、無冠の魔女はデザインの居場所を確立した。
その頃からぽつぽつと日常会話が増えて行き、煙草に誘っても渋々だが付き合ってくれるようになった。
翠自身も、首の皮が一枚繋がったという自覚があったらしく、これでデザイン室のお荷物にならずに済むと安堵して、翠を任されていた富樫も同じように胸を撫で下ろしていた。
コンペに提出するデザインは相変わらずパッとしないものばかりだが、特注商品になると自信のなさが嘘のように顧客の心を射止めるデザインばかり描き上げる彼女に興味を持ったのはその年の冬の終わり。
寿退社をする先輩デザイナーの送別会の後、無理やり付き合わせた2軒目のバーで彼女をじっくり確かめて、これはいけるな、と思った。
学生時代から男女どちらとも恋愛を楽しめた富樫は、相手をじっくり見れば誘えるかどうか判断することが出来る。
全くその気がない素振りの普通の女の子も、富樫の話術と雰囲気で押せばころりとこちら側にやって来た。
翠のなかには、元から男女の性差が無いように見えたのだ。
人は自分とそれ以外で綺麗に線引きして、触れ合わないように慎重に距離を取る彼女の価値観をグズグズにして、内側に踏み込んだらこの子はどんなデザインを描くようになるんだろうとワクワクした。
入社当時からこの業界で最後まで生き残るつもりでいた富樫にとって、翠の存在は物凄く貴重で稀有で、この先もずっと手元に残しておきたい人間の一人だった。
だから、時間を掛けて距離を詰めようと思っていたのだが。
なによ、愛も欲もありません、いりません、って空とぼけた顔して、しっかり掴んでるんじゃないの。
頬ずりなんかじゃなく、いっそ豪快に噛みついてやれば良かった。
自分の知らないメンズ香水の香りに焚きつけられた芹沢は、きっと3段飛ばしで攻めたのだろう。
じっくり吟味して手ぐすねを引いてやろうと思っていたのに。
黒のニットから覗く日焼けを知らない白い肌を指の腹が撫でて離れていく。
その慣れた仕草に思わず舌打ちが零れた。
軽く首を竦めた翠が咎めるような視線を芹沢に向けている。
そこにある執着と親愛の情は、揺るがないものだった。
購入を決めたらしい二人に声を掛けた後、店員がカウンターから出て来る。
レジに向かう彼女が立ち止まったままのこちらに気づいてあれ、と足を止めた。
いつも接客してくれる知り合いの店員だったのだ。
今日は用事は無い、という素振りで軽く会釈をして歩き出した富樫に、店員が同じように笑顔で頭を下げる。
ちょうどこちらを振り向いた芹沢が、富樫に気づいて、途端視線を冷たくした。
なんども分かりやすい男だ。
ああそう思ってみれば、これまでの相手にシステムエンジニアは居なかったな、と思い出す。
全体的な好みで言うのなら、PMの宗方だが、彼にもほんの少しだけ興味があった。
平良は飲み仲間としては良いかもしれないが、本音を見せない男との化かし合いは疲れるだけで満たされない。
雑賀はやめて、芹沢くんにするわ、と言ったらあの子はどうするだろうか。
ふいに浮かんだアイデアを視線に織り交ぜて見つめ合う事2秒。
興味なさげに顔を逸らした芹沢が、カウンターに並べられた瓶を手に取って照明の明かりに透かしている翠の肩を抱き寄せて頬にキスを落とした。
分かりやすい牽制に、今度は笑みが零れる。
大袈裟に肩を跳ねさせた翠が、剣呑な眼差しで芹沢に詰め寄った。
そこにはゼロ距離で愛情を確かめ合った二人にしかない、特別な空気があった。
ウォームコットン。
清潔感のある石鹸の香りと、ラストノートのセクシーなムスクが印象的な香水だ。
自分のやり方が間違っているだなんて、微塵も思わないけれど、彼女にはああいう香りの男が合うのかもしれない。
それでもこの先の期待を込めて、いまは、まだ、と言っておく。
富樫はそのまま振り返ることなく人の少ない百貨店を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます