第41話 Pink-1 

チーフデザイナーという肩書を与えられてから、平日の半分は室長のお守り(同行)に追われている富樫にとって、純粋なアフター5は貴重な息抜きの時間だ。


現在進行中の良い相手の中から予定が空いている誰かを見繕って誘う日もあれば、こんな風に一人でウィンドウショッピングを楽しむ日もある。


才能とセンスそして情熱が全てと飲むたび暑苦しく語る意外と体育会系の室長の言葉に当てはめるのならば、こうして世に出回っている流行を追いかけるのもまたそれらを磨くために必要な行為なのだ。


お気に入りのセレクトショップを覗いて顔馴染みの店員と情報交換の後、化粧品フロアの片隅に向かったのは、それがいつものルートだったから。


視覚や聴覚に感性を刺激されて素晴らしい作品を生み出すクリエイターも多いが、富樫にとって一番インスピレーションを掻き立てられるのは、素敵な香りに出会った瞬間だ。


仕事用とプライベート用、お気に入りの二種類の香水を使い分けて公私の切り替えを行っている富樫は、季節ごとにパフュームサロンを訪れては次の季節の運命の香りを選んでいる。


今回室長から降りて来た指示は、留め金の新デザイン。


志堂の定番商品でもあるパールのネックレスの留め金はここ数年変わっていない。


留め金でブランドが分かるような、新鮮で鮮烈なインパクトのあるものを、という女王様の言いつけは絶対で、適当なアイデアを差し出せば蹴り飛ばされて終わる。


誰もが親しみと愛着を覚えられる、そして一目見たら忘れられないデザイン。


ぐるぐると出口のない迷路にはまり込んでしまっている今、必要なのは新緑のような爽やかな香りだ。


愛用のトムフォードが重たく感じるということ、気分も沈んでいるということ。


軽やかに風を受けるような香りを求めて売り場に足を向けると、見知った二人の後ろ姿を見つけた。


平日の閉店間際の百貨店は、かなり閑散としている。


人込みが苦手な彼女のことを思えば、この時間を選ばざるを得ないのだろう。


二人揃ってここまでやって来た理由まで一瞬で悟ってしまって、富樫はパフュームサロンの手前で足を止めた。


こちらに気づくことなくカウンターに並べられた瓶を神妙な面持ちで見つめる翠の横顔は、珍しく穏やかに凪いでいた。


あら、やるじゃないの。


上手く行くかどうかはある意味賭けだったし、駄目なら駄目で、また機会を見て自分が脱皮させてやろうと思っていたのだが、それは余計なお世話で終わったようだ。


あの雑賀翠が、誰かと自分の匂いを共有するようになるなんて。


「バーベナとミントの香り・・・」


「こちらはグリーンティーのやわらかさもあって軽やかな香りが人気の商品になります」


「んー・・・」


「ハーバフレスカはイメージと違う?」


「もうちょっとこう・・・自然というか・・・」


「じゃあやっぱりこっちかなぁ・・・」


「あ、そちらでしたら、カップルでお使いになる方も多くいらっしゃいますね!」


「これはどう?ウォームコットン。王道の洗濯物のいい匂い」


芹沢が老若男女問わず人気のある香水の瓶を手に取った。


たしかにあれなら翠も抵抗なく香水をつけそうではある。


シンプルな瓶に興味を惹かれたらしい翠が、テスター用の紙を受け取った芹沢のほうに無防備に身を寄せた。


「どれ?」


「ほら、どう?好きじゃない?」


俯いた彼女の耳から零れた髪を片手で掬って後ろに流してやりながら芹沢がテスター用の紙を優しく揺らした。


すんすんと鼻をきかせた翠が、ぱっと芹沢の顔を仰ぎ見る。


それを目の当たりにした瞬間、ああ、そうなのか、と色々と悟った。


今の一瞬で、二人の関係がどこまで進んでいるのか見て取れた。


ほんの少しだけ、惜しいことをしたかな、と悔しくなる。


が、それも一瞬のことだった。





雑賀翠は、面接時の質疑応答は及第点以下で初っ端の1分弱で面接官全員に不採用枠に放り込まれた女子大生だったらしい。


それが逆転したのは、室長の投げた”あたくしのイメージで何かデザインを描いて、5分で”という依頼に、3分で女王様の眼鏡に適うデザインを起こしたせいだ。


これといった受賞歴も無く、デザイナーには不向きとしか思えない個性の無さに、役員たちは揃って不採用の回答を出したが、室長が最後までごねて取った異例の新人だった。


にもかかわらず、入社から2年経っても芽は出ず、黒ずくめの容姿と少ない言葉数もそのまま。


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