第40話 Peach-2

これしきのことで傷ついて居たら雑賀翠の隣には居られない。


彼女と付き合うということは、彼女の感覚を狭めず、壊さず、認めて守ることでもあるのだ。


異なるものを互いに譲り合って共存する方法を探していくことが、恋愛を継続させるコツである。


そしてこれまでの経験で芹沢はその大変さも喜びもちゃんと知っている。


「ごめん」


躊躇いなく謝罪を口にした彼女もこれまた通常営業。


忘れてて、と、危なっかしい動きで、の二つの意味が含まれた謝罪を鷹揚に受け流して、足元を指さす。


「カーペット、隙間あるから」


頭の片隅に残ってくれればいいな、と思いながらまあ無理だろうなと諦めておく。


「うん」


言った側から隣の美人画に向き直る彼女に、恐らく芹沢の声はまともに届いていない。


そっと腕を離して、やっぱり側についておこうと手を伸ばせる距離を保ちながら移動する。


大正時代に人気を博した短命の画家の話は耳にしたことがあったが、作品をじっくり見たことは無かった。


いま見た絵がどんなふうに彼女のデザインに影響を及ぼすのだろうと気になって来る。


スケッチブックは日記と言われてしまったので、未だにそれに手を伸ばしたことはないけれど、こっそり工芸部を覗きに行って、翠がデザインした特注商品を見せて貰ったがどれも個性的で華やかなものばかりだった。


”あの見た目からは想像もつかないようなとんでもないデザインを起こして来るから、デザイン室の魔女なのよ”


と肩をすくめたのは、工程管理の女帝である山下亜季だ。


彼女が受け取った色のイメージは脳と指先に直結しているから、その身に纏うのは黒なのだ。


あの黒の下を知っているのがこの会社で自分一人だということが物凄く誇らしい。


恐るべきことに、間宮はあの黒ずくめの上からでも翠の大体の体型を把握していて、芹沢が上機嫌で出社した朝にさっそくにやけ顔でどうでした?と尋ねて来た。


どうもこうもあるか最高だった、と本心から零しそうになって、後輩の女子相手になんでそんな下世話な暴露話をせにゃならんのかと自分を戒めて口を閉ざしたが、その週のうちには宗方と平良と飲みに行って散々自慢してやった。


可愛い恋人を育てている最中の宗方は心底羨ましそうな溜息を吐いて、新婚真っ最中の平良はニヤニヤ笑ってこの先も楽しみが盛りだくさんだと冷やかして来た。


カニ歩きで隣の美人画を覗いて、またすぐ一つ前の絵に戻って、なんとも独特な鑑賞方法をする翠は、この時間だからこそ自由に歩き回ることができる。


これが休日の混雑する時間帯だったらば、彼女は早々に色に酔って具合を悪くしていただろう。


その場合の対処方法も聞いてはいるが、安静にする以外の術がないことがもどかしい。


大抵20分ほどで回復するらしいが、芹沢が側に居る限り色酔いはさせたくないなと妙な使命感を覚えてしまった。


交際を始めたことを、翠よりも先にほのかに報告したら、手放しで喜んでくれぐれもよろしくお願いしますね、と言われたので猶更勝手に責任を感じている。


どの距離なら彼女に手が届いて、どれくらいの人の中なら、彼女が普段通り暮らせるのか、いまだに分からないことだらけだ。


今は、出来ることを一つ一つ確かめて、積み上げていくよりほかにない。


信頼と実績とはよく言ったものである。


「よし」


何がよし、なのかはさっぱり分からないが一つ頷いた緑がぐるんとこちらを振り返った。


あれほどカーペットと注意したにもかかわらず、遠慮なしのターンをして見せた彼女の身体が一瞬にしてつんのめる。


数秒前の予想が見事的中して、大急ぎで腕を伸ばして倒れ込んできた身体を支えた。


芹沢の胸に手を突いた翠が、ホッと息を吐く。


「ごめん」


「もう手、繋いでおく?」


どうせ誰もいない事だし、と背中を撫でれば、ぎょっとなった翠が慌てて身を捩った。


どうせなら真っ赤になって俯くほうを希望したかった。


悔し紛れに強張った頬にキスを一つ。


「!?」


唖然とした翠の指を絡め取って軽く引けば、彼女が零れ落ちそうに目を見開いてこちらを凝視して来た。


「これも駄目?」


「いや、だ、って」


「誰もいないでしょ」


ぐるりと視線を巡らせて無人を示せば、翠が今度こそ耳まで真っ赤になって俯いた。

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