第39話 Peach-1
館時間間際の貸し切り状態の美術館を選んだのはわざとだ。
あれからぽつぽつと彼女が零した言葉を拾い上げて理解を深めたところによれば、人が多ければ多いほど色の刺激が大きくなって疲れるし、酷ければ色に酔って体調不良に陥るらしい。
ほのかの緊急搬送もそれが原因で、病院は基本的に体調が悪い人間しか集まらないので、澱んだ色や暗い色に溢れているらしく、だから尚更病院には近づきたくないし、ほのかも近寄らせたくないと言われて物凄く納得出来た。
あれ以来、芹沢はより一層翠を連れ出す先を選ぶようになった。
彼女自身活動的ではないし、インドア派なので休日デートは芹沢の自宅がほとんどだ。
元カノの時のように人気のデートスポット探しに頭を悩ませる必要はないが、たまに翠が行きたいと言った場所の周辺をチェックしてあまり混んでいなさそうなそこそこの人気店を探すのは結構骨が折れる。が、苦ではない。
芹沢が車で連れ出すことで一気に彼女の移動範囲は増えて、楽になって、それは芹沢にとっても嬉しいことだった。
翠が自分の体質を打ち明けてくれたことで、芹沢は動きやすくもなったし、同時により理性的にもなった。
翠への愛情が筒抜けなのはまだいいが、つまり裏を返せばそういう気分の時はすぐにバレるということだ。
魅力的な彼女の身体を知った後での節度あるお付き合いは忍耐を伴ったけれど、その分彼女が泊まりに来る週末が恋しくもなった。
今のところは紳士的な彼氏を印象付けられているはずだ。
今日の美術館デートは、たまたま美人画で有名な日本人画家の作品展のチケットを譲って貰ったので、急遽滑り込んだものだった。
美術作品には詳しくないしさっぱり興味もない芹沢だが、翠があっさり食いついたので、仕事を早々に終わらせて、先日愛妻が風邪を引いて、その看病で丸二日リモートワークで不在にしていた平良の仕事を巻き取った代わりに、今日のミーティングは丸投げにして来た。
これまでこちらが新婚の平良を気遣って仕事を巻き取る事が多かったので、今日の依頼も平良は快く引き受けてくれたし、芹沢と翠が纏まったことを喜んで、宗方と一緒に盛大に祝ってくれた。
ばしばし背中を叩きながら、宗方より先に籍を入れろと揶揄されて、いやさすがにそれはと苦笑いを返したけれど、美青と翠のどちらのほうが手強いだろうと一瞬本気で悩みそうになった。
自分の仕事に誇りを持っていて自立していて一人でも生きていけるタイプという点では、二人は物凄くよく似ている。
が、美青は本当の虚弱体質で、翠は特異体質。
どちらも他者のサポートがあるほうが良いに決まっているが、翠は自分の体質に加えて妹の面倒を見て来た筋金入りの独身主義者なので、恐らく彼女の方が色々と難儀する。
それも踏まえた上でも、かなり幸せな現状を送っているのだけれど。
着物姿の女性が薔薇を手にしている美人画をまじまじと眺める翠をぼんやりと視界に収めながら、今の自分の立ち位置はどこだろう、と詮無いことを考える。
渡した合鍵はちゃんと彼女の家の鍵と一緒にキーケースに収まっていて、まだ一度も使われていないけれど、持ち歩いてはくれている。
芹沢が自宅に招かずとも、家に行っていい?と言われるのはしょっちゅうだし、翠にとって芹沢の部屋は決して居心地は悪くないはずだ。
あの本棚の威力がどれくらいかはさておき。
しいて言えば、翠の部屋に入れて貰っていないことが気掛かりではあるが、ひたすら他者と距離を取って生きて来た彼女なので、そう簡単に本当のプライベートスペースに入れては貰えないだろうとも思っている。
隣の日本画の前に移動した彼女が、一歩近づいて絵の一部を凝視した後、数歩後ろに下がって俯瞰するように全体を把握して、ふむふむと満足げに頷いた。
それから首を傾げて別の角度で何かを確かめて、また頷く。
他の誰かが同じことをしていても、まったく気にも留めないし、何とも思わないのに、彼女の表情が変わるだけで、そうさせた絵も含めて気になるのだから、多分相当参っているのだ。
休む暇なく色んな欠片を落としていく翠から、一瞬たりとも目が離せない。
彼女と同じ目を持つことが出来ればいいのに。
そうしたら、翠の持つ色を見分けて彼女が言葉にしない感情までも綺麗に見抜いてちゃんと大事に出来るのに。
じりじりと再び後ろに下がり始めた彼女の足元がどうにも気になって、邪魔にならないように離れていた距離を一気に詰める。
絵画鑑賞の邪魔はしたくないが、側に居るのに転んで怪我をさせるわけにはいかない。
宗方が、同じフロアにいる美青をしょっちゅう視線で追っている気持ちが分かるような気がした。
彼の場合は余計なことを言って機嫌を損ねることが分かっているので、視線だけを鬱陶しいぐらい向けて、それに気づかれて叱られるのが常だ。
ちなみに平良の場合はもっとあからさまで用事も無いのにべったりと祥香の隣に居座って手取り足取りパソコン周りのことを教えて面倒を見て、困り顔でクレームを零した彼女に満面の笑みを返して、ごめんね、でも気になっちゃって、と宣う。
好きだから、可愛いから、という理由で自分を正当化できる図太さには呆れるが、たまには乗っかってみるのもいいかもしれない。
どうせこの場には二人きりなのだから。
さらに二歩下がった翠の腕を軽く捕まえると、弾かれたように彼女がこちらを振り仰いだ。
本気で驚いた表情なので、完全にここに他者がいることを忘れていたのだろう。
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