第38話 Mahogany-2

身勝手な二律背反に囚われたまま、頬にキスをして離れる。


「会社では塗らないの?」


口元に戻した煙草を挟んで、咥え煙草のままで尋ねれば、翠がえ?と首を傾げた。


「土曜のピンクも可愛かったけど」


とんと自分の唇を指さして片目を瞑れば、ぶわりと翠が頬を赤くした。


「仕事だから」


「じゃああの日のピンクは俺のため?」


「自分です」


「ねえ、翠さん、いま俺何色?」


言葉遊びのついでのように言ったのは、さらりと答えが聞けるかと思ったからだ。


たびたび翠が口にする色には何かの意味があって、恐らくそれは人に対して視えているものなんだろうと勝手に推測を立てたのは、初めて彼女を抱いた夜。


汗ばむ背中を優しく撫でて、出来ればもう一度と耳たぶにキスを贈った後、振り向いた翠が

余韻の残る蕩けた表情を険しくして嘆いたのだ。





『なんでまだピンクなの・・・?』


最初は意味が分からなかった。


ベッドシーツはブラウンで、枕元に放り出したスマホはブラック、開封済みのパッケージは銀色で、視界のどこにもピンクなんて存在しない。


また彼女の独特な感覚の話かな、と思って別の問いかけを投げた。


『翠さんの好きな色は?』


『・・・・・・緑と・・・藍色と青』


胸元に額を擦りつけた彼女が、静かにそう言って目を閉じた。


その時、あれ、これ確か始めて会議室で会った時にも言ってたな、と思い出したのだ。


あの日具合を悪くした翠を支えるべく腕に抱き込んで、目を開けた彼女はこちらを見て同じことを言ったのだ。





声もなく瞬きを繰り返す彼女からは表情が抜け落ちている。


次の言葉次第で、彼女が遠くに逃げて行く可能性もあるのだと、悟った。


それでもほかの答えは、持ち合わせていなかった。


「ただの質問だから。知りたい、と思っただけ。俺もそっちから見えてる自分を分かっておきたい」


芹沢の言葉に、ゆっくりと息を吐いた翠が、顎のラインで切り揃えられた長い前髪をかき上げる。


それから静かに呟いた。


「・・・・・・緑と藍色と青・・・と、ピンク」


「それって翠さんが好きな色だよな?・・・ピンクも?」


「・・・まあ・・・そうね」


伏し目がちに答えた翠の頬を包み込む。


怯えや戸惑いがその両の目に映っていないことを確かめながら言葉を紡いだ。


「俺がこうしたい時に、それって強くなる?」


親指でそろりと頬の高い場所を撫でれば、小さく震えた翠が瞼を下ろした。


無言の肯定に、ああなるほどと腑に落ちた。


閉じた瞼に唇を触れさせる。


恐らく翠がバランスが良いと言ったのは、芹沢が持っている色合いのことだ。


そして、ピンクは恋愛感情や興奮状態を示すのだろう。


好きな相手を前にした時に感情が高ぶるのは当然のことだし、色に変化があれば翠はすぐに気づく。


以前、翠が本人無自覚の芹沢の体調不良を見抜いたのも、恐らくそれが原因だ。


「俺から言ったほうがいい?」


こちらの感情が一方的に筒抜けになってそのせいで距離を置かれるのは避けたい。


彼女を最初に家に招いた時、下心が期待値を含めても低かったのは幸いだった。


「・・・なにを?」


「こっちの愛情は疑われる心配なさそうだけど、翠さんが俺の色を察してあれこれ気に病むのは困るから・・・ちょうどいい距離を測りたいな、と思って。そこを負担にさせたくない」


これが最適解のはずはないが、今差し出せる最大のベターだ。


芹沢の言葉に、翠は瞬きの後、笑み崩れた。


「別に何もしていらないわ」


「え、そうなの?」


「うん。普通にしてて。後、私の愛情も疑わないでよ」


彼女の好きな色は、緑と藍色と青。


調和の取れたバランスの良い芹沢のこと。


「見ない振り・・・も、出来る、し・・・」


ごにょごにょと言い淀んだ彼女の手を捕まえて、指を絡ませる。


軽く吸って口から離した煙草の先から灰が落ちた。


「見ない振りしなくていいよ。俺の愛情はちゃんと見ててよ」


「・・・それにしたって限度があんのよ」


げんなりと言った翠の唇に短くなった煙草を差し出せば、しかめ面の彼女がそれをそっと咥えた。

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