第37話 Mahogany-1 

「あああ・・・煙草忘れた」


いつものひと気のない喫煙スペースで立ち止まった翠ががっくりと肩を落とした。


手ぶらでここまでやって来たということは、他所事に夢中になっていたということだ。


「俺の吸えば?なんか考え事してた?」


メンソールがお気に召せば、とポケットから煙草を取り出そうとすれば。


「ん、一口でいい」


そう言って隣にやって来た彼女が芹沢の口元に手を伸ばした。


遠ざかっていく馴染みの一本がすぐに彼女の指の隙間に収まって、今日は何も塗られていない唇に挟み込まれる。


迷うこと無い滑らかな動きを食い入るように眺めて、思わず生唾を飲み込んだ。


すでに禁欲生活は終わりを告げて、彼女の肌を知ったあとだったにもかかわらず、ばつが悪くなって視線を逸らした自分の反応にげんなりした。


思春期の男子高校生みたいだと思ったからだ。


いや、逆にあのストイックな黒のワンピースの中身を知ってしまったから余計、堪らなくなったのだ。


こんな所でガキのように恋人の仕草ひとつでドギマギしていると思われたくなくて、視線を前に逃がした。


「お味は?」


「んー・・・目ぇ覚めそう」


「メンソール吸ったこと無い?」


「あるけど、すぐにいまのに変えた」


「メンソールは嫌い?」


「自分じゃ吸わないだけ。なんで?」


「キスする時嫌かなと思って」


平良のように妻が好むバニラを纏って帰るほど溺れてはいないつもりだが、メンソールが嫌いと言われたらちょっと考えようかな、とは思った。


「・・・・・・別に」


煙草の先から上がっていく細い煙をぼんやりと眺めていた彼女が、分かりやすく視線を地面に戻した。


おや、と思って一歩近づく。


先に翠の手から煙草を取り返してから、反対の手のひらで後ろ頭を掬った。


「いま何思い出した?」


「・・・な、にも」


「嘘下手くそ」


吐息で笑って唇の表面を優しく擽る。


日曜の午後に行くと言った彼女を、土曜の午後からおいでよと誘ったのは芹沢で、たっぷり30分悩んだ翠が分かったと返事をくれたその日のうちに、週末に向けての買い出しを行った。


荷物が増えるから、落ち着かないから、と様々な理由で朝を待たずに自宅に帰っていく彼女を車で送り届けるのも飽きて来た頃だったし、翠も芹沢のベッドに慣れた頃合いだろうと踏んだのだが、タイミング的には良かったようだ。


ブラウンのベッドシーツを翠の好みに合わせてネイビーに買い替えて、二度目の夜はそれなりにお洒落な雰囲気に整えてみたが、彼女には逆効果だったようで、なんで全部合わせてくんの!?と半ば本気で詰られた。


とはいえ、彼女が言った好きな色、緑と藍色と青は嘘ではないようで、来客用のオフホワイトのマグカップをミントグリーンのリーフ柄の翠専用でよういしたそれに変えたらかなり喜んでくれたので、まあ結果オーライということにしておく。


一度目のような慎重さが無くなったのは、彼女の身体を知ったせいだ。


慎ましい黒のワンピースがどれくらい彼女の防護壁になっていたのか、ベッドの上で綺麗に剝いた身体を見下ろして初めて気づいた。


富樫にも引けを取らないくらい魅力的な肢体がそこにはあった。


そして同時に、ほんの少しだけこの先彼女が黒以外を纏うようになったらそれはそれで楽しいだろうなと思っていた自分の考えを即座に打ち消した。


色の与える印象はかなり大きい。


柔らかな胸のふくらみと滑らかな腰の括れを別の華やかな色が包み込むところを想像して絶対駄目だと脳が指令を下す。


もしそういう事が起こったらそれはもう会社以外の場所でお願いしよう。


ファッションショーならいくらでも付き合うから。


恋愛が彼女にどんな作用を与えるのかは分からない。


良い変化だったら嬉しいなと思う反面、いまの彼女を大きく変貌させるなにかだと嫌だなと思う狭量な自分もいるから悩ましいところだ。


十分過ぎるくらい熟れて綻んだ身体は、芹沢の躊躇いをあっさりと凌駕して包み込んだ。


恐る恐る触れた手のひらは、吸い付くような触り心地の肌にすんなりと馴染んで、翠の身体は一度も芹沢を拒まなかった。


しどけなく蕩けて、甘くほどけて、芹沢の移り香を吸い込んだ肌はどこまでも扇情的に乱れた。


あれを日付が変わる前に手放せた自分はやっぱり理性的なのだろう。


二度目はちゃんと遠慮した。


だから、三度目はどうしても帰したくなかった。


思惑通り翠は夜を飛び越えて、朝まで芹沢の腕の中に居てくれた。


そのおかげで日曜も盛大に朝寝坊する羽目になったけれど、芹沢は上機嫌だったし翠も怒らなかった。


ダラダラと半日を過ごして、ベッドから起き出した翠が遅すぎるブランチの後、スケッチブックを持って書斎に向かって、芹沢も彼女を追いかけていつものようにオンラインゲームを始めてそこからは思い思いに過ごした。


翠が確かにこの部屋と自分に馴染んだと確信が持てた。


実際、その日の帰りに彼女に差し出した合鍵は返却されることはなかった。


恐らく、翠の中で芹沢に対しての合格サインが出たのだ。


唇の隙間をぺろりと舐めれば拒むように引き結ばれて、しょうがないなと引き下がる。


メンソールが馴染むくらい吸ってくれれば嬉しいけれど、彼女から桃の香りがしなくなるのも何だか寂しい。


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