第43話 Tan-1 

「え、なんでもう来てるの?今日夕方出勤って言ってなかった?」


薄暗い資料庫で、しゃがみ込んだまま段ボールを漁っていた翠が、我が物顔で中に入って来た芹沢を見て驚いたように目を丸くした。


その情報は間違っていないし、実際芹沢のスケジュールは17時出勤になっている。


時刻はただいま16時過ぎなので、予定よりも1時間ほど早い出勤だ。


「仮眠取ろうとしたんだけど、寝付けないからそれなら会社行こうかと思って」


「真面目ね」


寝付けないからといって出社すれば、宗方は遠慮なしにタスクを振って来る。


だから会社に来てもカフェテリアかほぼ無人の食堂で時間を潰すのが常だった。


が、今では早めに会社に来る大きな理由がある。


全く温度感を感じさせない瞳がこちらを一瞥して、でも寝不足じゃないみたい、と安心したように付け加えた。


おそらくこちらの色を見てそう判断したんだろう。


「今日ウチ来る?」


「家主が居ないのに?」


「日付変わったら帰れるから」


作業予定は22時から23時なので、まあまず0時過ぎには退勤できるずだ。


宵っ張りの彼女はベッドに入るのが0時過ぎで1時半ごろまでは稼働時間内なので、それを踏まえた上で誘いかけた。


芹沢の変化に気づいたらしい翠が、ぱっと視線を段ボールの中に戻した。


ガサゴソといささか乱暴に古いパンフレットを漁り始める。


「・・・明日も平日なんだけど」


「うん。だから、無理にとは言わない」


「・・・」


「でもほら、俺の家のほうが近いし。どうせ帰っても一人だろ?」


「それはそっちも同じでしょ」


「同じだから、二人の方がいいなって思って誘ってる」


「・・・下心が見えてる」


「別に隠してないから。俺が帰ったとき翠さんがまだ起きててその気になってくれたら、っていう話」


適当に言い訳したところで視れば分かってしまうのだから、それならもう開き直ったもんの勝ちだ。


一緒に眠ってくれるだけでも十分だけれど、欲張れるところは遠慮なしに欲張っておきたい。


最初の夜以降、彼女が誘いかけてくれることは一度も無くて、ほんの少し期待していたこちらとしては、肩透かしを食らったような、妙に安心したような、なんとも言えない気分だ。


ちゃんと女性として目醒めていた彼女の身体は、言葉を択ばずに言うのなら物凄く美味しかった。


元カノとの別れから当分はいいか、と思っていたこちらの考えを払拭して、より貪欲にさせてしまうくらい魅力的な甘いご褒美だった。


一度覚えた甘い蜜の味はなかなか忘れられるものではない。


むしろ忘れないうちにと、本棚の餌でおびき寄せて2回に1回は仕掛けるようにしていたのに、サーバーメンテとPCのアップデートが重なって翠とシフトがずれてしまってから彼女の足は遠のいていた。


そのうち彼女のほうから焦れてくれるかと淡い期待を抱いたりもしたものの、案の定翠からは音沙汰なし。


恋愛は人生の副産物で、あってもなくても構わない、という、いわゆる橘美青と同じタイプの彼女は、芹沢に焦がれてくれることも、縋ってくれることもなかった。


相性は決して悪くないはずなので、あとは経験と時間か、なんて下世話なことを考えている芹沢の前で、お目当てのパンフレットの束を取り出した翠が、むうっと顔をしかめる。


「あのさ・・・」


「ん?なに」


「私、あの部屋行くの結構ハードル高いんだけど・・・」


「その割には居心地良さそうに過ごしてくれてるけど?」


そうなって欲しいと仕向けて、彼女の好みの色でインテリアを揃え直したのだ。


緑と藍色と青、彼女の好きな色。


これは芹沢が持っている色で、それは翠の安心につながる色でもある。


直接好きだと言われるよりも、芹沢にとってはそれは嬉しい告白だった。


きっとこの先一生リネン類の色を暖色にすることはない。


「居心地はいいよ。だって面白いものしかないし、あの部屋」


「じゃあ、何処のハードルが高いのよ」


「だから、その・・・私を呼ぶたび・・・・・・色々と期待されるのが・・・」


「付き合ってる彼女を部屋に呼びたいっていう願望も駄目なの?」


期待くらいさせてくれよと声を大にして言いたい。


何も宗方のように四六時中フロアで熱視線を向けさせろというわけでなし、平良のように逐一連絡を入れて暇さえあれば声を聞かせろというわけでなし。


すでに濃密な部署内恋愛を目の当たりにして来た芹沢の感覚がすでにちょっと毒されてずれていたのだが、当然そんなことを本人が気づくわけもなかった。


色々と敏感すぎる翠を慮って譲歩に譲歩を重ねているつもりの芹沢である。


彼女が部屋に来ても終始側に張り付いていられるわけでは無いし、スケッチブックを開いた後の時間は大人しくすべて譲っている。


ちょっと待って、元彼とどんなふうに過ごして来たの?


喉元までせり上がって来た問いかけをぐっと飲み込んだ。


ここでその質問をするのは死ぬほど情けないし悔しい。


翠と同じくクリエイターだったという元彼は、ほのかいわく草食系男子そのもので、家に来ても二人で黙々と絵を描いて過ごすことのほうが多かったらしい。


その割には翠の抱き心地や反応はかなりの、と考えて慌てて思考を振り払う。


見た目草食系男子が中身もそうとは言い切れない。


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