第32話 Jade Green-2

「どっち・・・ええっと人の少ない方・・・さっきファミマは見えたんだけど・・えっと、もう見えない・・・今は、茶色いマンション?とグレーのマンションの間にいる。ねえ、これって私どっちに行けばいい?」


現在地すら分からないのでもう完全にお手上げだ。


芹沢は翠の報告を受けて少し考えるように黙り込んだ後、ガチャガチャとドアの施錠をかけながら尋ねて来た。


『えーっと、マンションに背中向けて右手に何が見える?』


「ちょっと先の角にポストと、あ、なんか公園ぽいのが見えるわ」


『じゃあ左手には?』


「結構先に車の走ってる道路?・・・が見える」


『たぶん大丈夫そう。ポストの前に居てくれる?この時間公園人多いから』


普通なら、人が多くて分かりやすい公園に居てくれというはずだ。


けれど、芹沢は公園ではなくてポストの前で待っているように依頼して来た。


翠が人込みだけでなく、不特定多数の人が集う場所が苦手なことも何となく理解してくれているのだ。


だから、最初のデートの時も、女子に人気のおしゃれなカフェではなくて、裏通りの静かな純喫茶を選んだ。


言外に向けられる気遣いがじんわりと染み込んできて、思わず涙腺が緩みそうになる。


「ありがと」


色んな意味を込めてそれを告げれば、彼が可笑しそうに笑った。


『まだ見つけてないけど』


「・・・見つけて貰えること前提で、先払いしてんのよ。会えなかったら公園でプリン食べて帰るわ」


『え、それは困る。部屋掃除したし、クッション買い替えたのに』


何となく彼の言わんとしている事が理解出来て、萎れた心を彼の気遣いで膨らませて明るい声を出した。


いつから誰かの過去が気になるようになったんだろう。


彼が物凄く元カノを大切に思っていたことは、出会ってすぐに聞いているのに。


嫉妬って何色なんだろう。


ああ、黒か、それならこの服の色で分かんないか。


詮無いことをつらつらと考えていたら、ふとつい先日の芹沢の言葉が頭を過った。


”大事にするから”


あれはきっと言葉通りの意味だ。


彼の持つ色に不誠実さは一切含まれていないから、穏やかに交際は進むだろう。


『翠さんに好きな色訊こうと思ってたんだ。クッションカバー結局ブラウンにしちゃったからさ』


知らないことを教え合って、確かめ合って、違う事を認め合って、補い合って。


芹沢にとってはそれらすべてが普通でも、翠にとっては途方に暮れそうな作業だ。


でも、それをしてみたい、と思ったから。


ああそうか、恋は上手く行っても行かなくても、傷つく覚悟がある人間でないと、挑んではいけないのだ。


失くしたあとにへこたれて動けなくなるような人間に、甘い蜜なんて啜る権利はない。


でも、この人を傷つけたくないなと思ったし、出来ればこれから先も一緒に居たいな、と思った。


隣で黙って煙草をふかすのは、彼以外に考えられないな、と思ったのだ。


「あのさ・・・芹沢くん。私、わかんないことだらけだし、自分でも思っている以上に不可解な人間だと思う。上手く・・・やれないことのほうが、たぶん、きっと、多い」


通りを挟んだ場所に立つ翠の元にまで聞こえて来る子供たちのはしゃぎ声と、それを嗜めるいくつもの大人たちの会話。


彼らがそれぞれ持つ色の渦を思うと、やっぱり好んで近づきたいとは思わない。


誰がどんな色を持っているのか、ほのかは常にそれを知り違っては近づいて、見せる色と聴こえて来る声の違いに首を傾げて、素直に尋ねて、弾かれてもめげずに人との距離を測って行った。


あの子はなんて勇敢だったんだろう。


翠は自分が安心出来る色を持つ人の側にしか居たくないし、それ以外の人は理解出来なくても構わないとさえ思っている。


『上手くやれないトコがあっても良くない?別にそこを突きつけ合うために一緒にいる訳じゃないんだし・・・』


耳元で聞こえる声と足音が、少しだけ遠くなった。


アスファルトを踏む足音が真後ろで聞こえる。


振り返る前に、スマホを当てている反対の耳元で声が聞こえた。


「俺で良ければ力になるよ。っていうのは、傲慢かな?」


振り向いた目の前にあるのは、緑と藍色と青。


綺麗にバランスの取れたいま翠にとっては一番なじみ深い色だ。


「・・・・・・有り難いし、嬉しい」


ずいっと差し出したプリンの紙袋を受け取って、芹沢がくしゃりと相好を崩した。


「うん。じゃあ、大丈夫でしょ。ちゃんと見つけたし」


ホッとしたように告げられた一言に、心まで救われた気分になる。


「わ、たしも・・・失くさないようにする、から」


初めてちゃんと自分とは違う人間に、自分から手を伸ばした。


簡単には手放さない。


そのための努力は惜しまない。


一気に世界を広げられない翠の最大限の譲歩だ。


紙袋が無くなった翠の手を軽やかに捕まえた芹沢が、うん、と頷く。


「それなら安心して合鍵も渡せそう」


「・・・・・・う・・・え?」


自分の記憶が正しければ、二人はまだ交際を始めたばかりで、今日が初めてのお宅訪問のはずである。


ぱちぱちと目を瞬かせる翠を見下ろして、芹沢が、好きな色は?と尋ねて来た。

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