第31話 Jade Green-1
大人しく迎えに来てもらえば良かった。
スマホの地図アプリを恨めしげに睨みつけながら、翠は行き交う人々から視線を逸らして無機質な建造物たちを見上げる。
そう思ってみれば、こんな風に一人で地図を見ながら目的地を探すのは初めてのことだ。
こんなに道に迷う事も。
翠が出かける場所は図書館、もしくは美術館か博物館がほとんどで、駅前からの分かりやすい案内標識があって、建物自体も大きくて目立つものばかりだ。
一人でも迷うことはまずないし、駅から離れた場所にそれらが立っている時は必ず図書館前や、美術館前、といったバス停が目の前に設置されている。
だから、これといった目印もなく似たようなマンションが並ぶ、目抜き通りから数本奥まった静かな一画に足を踏み入れたことなんてなかったのだ。
駅前のスクランブル交差点の人込みを抜けて、ほっと息を吐いたのも束の間、ざわめきといくつもの足音とクラクションとエンジン音と押し寄せて来る極彩色の波から少しでも遠ざかろうと端に端にと歩いて居たらいつの間にか違う場所に辿り着いていた。
最初の目印として教えられたコンビニが対面に見えて、あれ?と思って地図アプリを開けば、駅周辺にいくつものコンビニ表示が出て来て、はたしてこのコンビニだっただろうかと不安になってスマホをグルグルし始めたのが間違いだった。
重大インシデントが発生した際には、深夜出勤を余儀なくされるシステム室の主要メンバーのほとんどは、会社から電車やバスで十数分の距離に住んでいるらしい。
芹沢が現在一人で暮らしているマンションは、もともと兄が住んでいた部屋で結婚と同時に戸建てを買って移った際に譲って貰ったものだそうだ。
駅からは少し離れているが、その分静かで居心地の良い低層階マンションらしく芹沢も気に入っているらしい。
そんな彼の部屋に招待されたのは週の初めのこと。
特注商品のアクアマリンのデザインで頭を悩ませながら喫煙スペースで一服していた翠に、兄が置いて行った風景写真集が参考になるのではと提案してくれた芹沢が、帰宅後に、気に入るものがあれば、というメッセージと共に送ってくれた何冊かの写真集と、それらが収められた本棚の写真を見た瞬間に、”あのさ、お家行ってもいいかな?”と問いかけていた。
芹沢の言う通り風景写真集は魅力的だったが、それ以外にも何ともマニアックな画家の作品集や、建築物の写真集の背表紙が見えたのだ。
写真集は嵩張るし重さもかなりのものになる。
会社に持ってきてもらうのが忍びないのが半分と、芹沢にとってはただの写真集でも、翠にとってはお宝になる本が他にもあるのではという期待が半分だった。
好奇心そのままメッセージを送った後で、いやあまりにも唐突過ぎるか、と自分の行動を反省して、そのうちでいいから、と追加でメッセージを送ろうとした矢先、いつでもどうぞ、という返信が飛んで来た。
そして早速その週末にお宅訪問させて貰うことになったのだが。
さすがにこれ以上歩き回ればお土産に買ったプリンを冷やす保冷剤が温くなってしまう。
時間を確かめれば、訪問予定時刻を10分ほどオーバーしていた。
しょうがない、諦めよう。
メッセージアプリを開いて芹沢に電話を架ける。
と、2コール目の頭ですぐに応答があった。
『いまどこ?』
「ここどこ?」
『っあははは!ああ、うん、まあそうだろうなと思った。やっと自力は諦めたんだ?意外と早かったな。もうちょっと粘るかと思ってた』
翠の返事に弾かれたように笑い声を上げた芹沢の声に、ホッとするのと同時に、くそう、と悔しくもなる。
昨夜再三駅まで行くよと言った彼に、要らないと突っぱねたのは他ならぬ自分だ。
「・・・粘ってもいいけどプリンが温くなるのよ」
言い訳がましく手元の紙袋をガサゴソ揺らせば。
『すぐ行くよ。駅からどっちに歩いたの?』
それ以上意地っ張りへ言及は飛んでこなかった。
緑としても初っ端のお家デートから口喧嘩は避けたい。
初デートの次はお家デート。
信じられないくらい順調すぎる交際ぶりである。
自ら家を見せろと強請った翠に鷹揚に応えた芹沢の本心は分からないけれど、ちょっと積極的過ぎたかな、と反省はしている。
が、こんなきっかけでもないと、自分から彼氏の家を尋ねることは出来なかったはずだ。
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