第33話 Light Blue-1 

彼女の来訪の目的は、最初から彼氏のお宅訪問などではなかった。


芹沢のほうも、芹沢が所有している、その他の家財道具と一緒に丸ごと兄から譲り受けた本棚の中身のほうに翠が強い興味を示していることは分かっていた。


むしろ、こんな餌で釣られてくれるのかと驚いたくらいだ。


兄の趣味とは思えないような画集や作品集がちらほら混ざった本棚の中身は、元カノの私物もいくつか混ざっているらしい。


芹沢の二倍はモテ男だった実兄は、それはもう色んな女性と交際していたので、本棚の中身がややカオスなのも頷ける。


結婚相手の義姉を見つけてからはそれまでの派手さは鳴りを潜めてひたすら一途に追いかけまわして、最終的には押し掛け花婿状態で結婚まで漕ぎつけたという逸話を持つ。


新生活に過去は不要だと言わんばかりに家財道具を丸ごと残して行った彼のおかげで、駅徒歩20分の古いワンルームマンション暮らしから脱却で来たのでそれだけでも感謝していた。


その上、ガラクタ同然だと思っていた本棚の中身に惹かれて恋人になったばかりの彼女が家に行っていい?と尋ねてくれるなんて。


翠の性格を考えても、自宅に招かれる、自宅に招くというのは結構先の未来だと予想を立てていたので、これはかなり嬉しい誤算だった。


20パーセントほどの下心は、彼女が本棚の前に座り込んで動かなくなった時点で0パーセントまで下がったけれど、それでも休日の昼下がりを同じ空間で過ごせるのはかなり嬉しい。


会話が無くても構わなかったし、むしろそれはそれで楽で良かった。


他人のスペースで寛ぐ彼女を想像すらしたことがなかった芹沢にとって、差し出したクッションに腰を下ろして、部屋と同化したかのように静かに一人の世界に耽る翠を見られることは、かなり貴重な体験だったのだ。


翠が休日芹沢の部屋を尋ねて来るようになって分かったことは三つ。


同じ場所は三回通えば自力でたどり着けること。


紅茶よりはコーヒーが好きで、二杯に一杯はデカフェを飲むようにしていること。


スケッチブックを開くと外部の音が遮断されること。


一度目の迷子を教訓に、到着時間を教えて貰って駅の改札前まで迎えに行くことに決めてから三度目で、翠は芹沢の前を歩いてちゃんとマンションまでやって来た。


途中にあるいくつかの目印と、マンションの外観をしっかり記憶したのでもう大丈夫だと言われてからは、昼間の訪問の際には自宅で待つようにしている。


最初に本棚のある書斎に案内すると、すぐに目当ての写真集を取り出した翠は、ずらりと棚の中身を上から下まで確かめて、物凄く申し訳なさそうに、しばらく通ってもいいかな?と尋ねて来た。


好きなだけ来てくれて構わないと伝えると、早速芹沢の休日出勤の予定を確かめてから、ざっと自分のなかでスケジュールを立てて、こんな感じでどうでしょうか?とまるで会議の打診のように時間帯を示して来た。


この時点でもうお家デートの雰囲気は霧散していた。


結局その日は夕方まで翠は写真集を睨めっこしていて、手持ち無沙汰になった芹沢はオンラインゲームを初めて、空腹を感じた20時前にデリバリーを取ってそれを食べた後行儀よく帰っていく翠を駅まで送った。


二度目の訪問で彼女はデカフェのコーヒーを持ってきて、休日は出来るだけカフェインを摂らないようにしていることを教えてくれて、芹沢にも勧めて来た。


ちなみに、集中してデザインを描くときはガンガンカフェインを摂取するらしい。


このあたりはエンジニアと同じだ。


この日翠が持って来たのはデカフェのコーヒーとスケッチブックで、今日のお伴の作品集を選んだ後、芹沢にスケッチブックを開いてもいいかと尋ねて来た。


どうぞどうぞと答えれば、日当たりの良い窓辺に背中を預けて、座り込んだ彼女は膝の上でそれを開いて、手にしたペンでアイデアを綴り始めた。


この作業が始まるとちょっとやそっと呼びかけたくらいでは反応しなくなる。


最初は様子見をしていた芹沢も、埒が明かないと悟って再びオンラインゲームを始めた。


そのうち翠から声が掛かるかと思いきや、この日も日が暮れるまで翠はスケッチブックにひっきりなしに何かを描き込んでいて、お家デートもどきはただのスペースの共有で終わった。


「沢山描いてたスケッチブックさ、あれは見たら駄目なやつ?」


そんなことが数回続いて、翠はすっかり芹沢宅に馴染んだ。


早速用意した合鍵はいまだ受け取って貰えていないけれど、どんな理由であれお家行っていい?と尋ねられるのは悪い気はしない。


芹沢も翠の扱いを少しだけ覚えたので、彼女が書斎に行く前にリビングでお茶を飲む時間を設ける事にして、そこでじりじりと距離を詰めている。


今日も持って来たスケッチブックがカバンの端っこから見えていた。


「あ、うん、駄目」


「え、秒も悩まないんだそこは」


「他の人は知らないけど、私は駄目、というか無理だな。日記勝手に読まれてる気分て言えば伝わる?」


部屋の片隅にこっそり隠した淫らなアレコレが母親に見つかった時の何とも言えない気持ちを思い出してこりゃ無理だなと諦める。


彼女の中身を知るには一番手っ取り早いと思ったのだが。


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