第24話 Black-2
どう慰められるのか想像がついてしまう自分が恐ろしい。
遠慮なしに頬を引き攣らせた翠を見て、ゲラゲラ笑って背中を叩いた富樫がほどほどにねと囁いて仕返しのように頬ずりしてから去って行った。
彼女の本性を知っているのは恐らくフロアの中で翠一人だけなのだろうが、ゆくゆくはデザイン室の室長まで上り詰める予定の富樫がトップに立った絵を思い浮かべてげっそりする。
転職を考えていない翠にとって富樫は、定年までの長い付き合いになる相手だ。
すっかりやる気が失せてしまい、早々に後片付けをしてデザイン室の戸締りを終えてフロアを出る。
社員の大多数が帰宅済みのオフィスビルはしんと静まり返っていた。
20時以降は節電対策でエレベーターホールの明かりも減らされるので、こういう遅い時間帯に一人だとちょっと心許ないこともある。
直ぐにやって来た無人のエレベーターに乗り込んで、このまま1階までノンストップだろうと思っていたら、途中の階でエレベーターが停まった。
開いたドアの向こうに立っていた人物が、こちらを見て目を見張る。
「あれ、翠さん」
「芹沢くん・・・残業?夜勤?」
「お疲れ様です。夜勤が正解。客相の配線弄ることになって立ち合い」
ネットショッピングが盛んになって以降、お客様相談室への問い合わせは増える一方で、年々規模を大きくしているが繁忙期には回線がパンク状態になるのだ。
「朝何時まで?っていうか・・・体調良くないね」
いつもの緑と藍色と青のバランスが崩れてグレーがかっている。
睡眠不足やストレスや疲労が溜まるとこういった色の変化が現れることがあるのだ。
「え?そう・・・?仮眠取って来たんだけどな」
「これから一服?」
「の、つもり」
「外寒いしやめておいたら?カフェテリアでデカフェのコーヒーかお茶飲みなさいよ」
首を傾げる芹沢に、悪いことは言わないからと軽く肩を叩いて諭してやる。
自覚症状が後から出ることはままあるし、人間の身体は夜は眠るように出来ているので昼夜逆転のシフトは当然身体への負担だって少なくない。
「俺のこと心配?」
眉を持ち上げた彼が楽しそうに目元を和ませてから、なにかに気づいたようにこちらに顔を近づけて来た。
「そりゃあね・・・え、なに?」
「翠さん、香水付けてる?」
斜め上な質問に、なにそれと言いかけて、数分前に物凄く心当たりがあるなと思い止まった。
「香水はつけてない、けど移り香かも」
「誰の?」
「なんで?」
「え、だってこの匂い、明らかに男物の香水だから」
「そんなの分かるの?」
「俺も詳しくないけど、平良がこれ付けてるから知ってる・・・トムフォードの・・・」
「ふうん」
富樫は昔からこの香りを愛用している。
とくに興味もなかったので尋ねた事は無かったが、やっぱりメンズ向けの香水だったのかと妙に納得がいった。
一向に動じる様子のない翠に芹沢が思いきり顔をしかめて鼻先を寄せて来た。
首の真横で息を吸われて落ち着かない気持ちになる。
「ふうんって・・・え、なに、誰と居たの?・・・なんかメンソールも匂いもするけど」
「いや、ちょっと嗅がないでよ・・・同僚」
富樫のことをどう言えばよいのか分からずに、適当に言葉を濁せば、明らかに納得出来ないと芹沢が不満を漏らした。
「同僚なら俺もそうでしょ」
エレベーターが一階に到着する。
ドアが開くと同時に、二階のボタンを押下して彼の横からすり抜けた。
「そうだけど、同僚は芹沢くん以外にもいるでしょ。じゃあ、私帰るから。カフェテリア行きなよ」
夜勤頑張ってねと労いの言葉をかけるより先に、後ろから伸びて来た手が翠の二の腕を捕まえて後ろへ引き戻す。
たたらを踏んだ翠の横から伸びた腕が、閉のボタンを押した。
すぐに上昇を始めたエレベーターの中で掴まれたままの腕を見下ろして、次に言うべき言葉を迷う翠に向かって、芹沢がぼやいた。
「匂いって、そんな簡単に移んないでしょ」
「・・・頬ずりが好きな同僚が居てね」
「は?なんで」
真顔で低くすごまれてもこちらがなんでと言いたい。
富樫は普段そんな風に誰かと接することはしない、こんな風に距離を詰めるのはそういう相手と認めた人間に対してだけ。
とはいえまさか彼女のセンシティブ情報をここで暴露する訳にもいかない。
もう考えるのも疲れて彼女から向けられている興味とも好奇心とも好意とも取れる感情をそのまま口に出していた。
「なんでって・・・気に入ってるからでしょうね」
エレベーターが二階に到着する。
今度こそ帰ろうと1階のボタンを押下すべく指をパネルに伸ばした途端、真横から抱き寄せられた。
「は!?」
「気に入ってるっていう理由で許されるなら、俺も許されるべきだろそれは」
開き直りとも取れる言い訳に頭の中が真っ白になったまま叫び返した。
「いや違うでしょ!」
「違わないよ」
遠慮なしに首筋に頬を寄せた芹沢が、ほんとにムカつくと吐き捨てる。
「女子だから!」
相手が女性だと分かればこの斜め上な嫉妬心はどうにか収まるだろうと踏んだにもかかわらず、芹沢は腕の力を少しも緩めようとはしなかった。
それどころか翠が動けないようにわざと体重をかけてくる始末。
「だからなに?翠さん、社内でそんな心許してる相手いたの?」
「・・・えええ・・・・いや・・・その」
まるで浮気を問い詰められたしがないサラリーマンのようにか細い返事がエレベーターの狭い隙間に溶けて行った。
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