第16話 Blue-2
藤色の小紋を着た和服の女性と芹沢を交互に見つめた翠の目に怪訝な色が浮かんだ瞬間、適当に言い訳して逃げるのは得策ではないという結論に至った。
本来ならば、きちんと恋人として紹介したいところだが、致し方無い。
翠に、スナック【紫苑】と母親である
翠は淡々とそつなく挨拶するだけに留まったが、母親は息子の顔を一目見た瞬間にすべてのことを悟ったようだった。
前の彼女をほぼ確定のお嫁さん候補として母親に紹介してから半年弱で音沙汰が無くなったことで、ああ駄目だったかと気づいたらしい母親は芹沢に何も尋ねなかった。
代わりに店に来た平良たちにはあれこれ訊いていたようだが。
明らかに元カノとは真逆のタイプの翠を母親がどういう風に受け止めたのか物凄く気になるが、こちらの立ち位置すら確定されていないのに、恐ろしくて訊けるわけがない。
挨拶だけ済ませてそれじゃあまた今度ゆっくりという流れに持ち込もうとした芹沢を制して、先に緑の腕を絡め取ったのは紫ママの顔になった母親だった。
お通しの三種盛りと人気の小鉢数種類の後に、ちょっとお腹に入れてねと小さな焼きおにぎりが出て来て、それらを美味しく平らげた後で、翠はテキパキ店の中を動き回る紫ママの後ろ姿を眺めながら、このお仕事お母様にぴったりね、と謎の発言を残した。
今更母親の水商売をどうこう言われてムッとする年頃でもないが、褒め言葉として受け取って良いものか測りあぐねて微妙な顔になった芹沢に、翠がああ、とすぐに言葉を付け足した。
「金と赤と紫。経営手腕もあって気品も持ってて温かみもあるいい店と理想的なママって意味よ。ああいうママがいるお店ならまともな人しか来ないだろうから安心だわ」
「・・・そりゃどうも・・・翠さんの感性ってほんとに時々さっぱり分からん」
「ああ、うん。たぶん一生分かんないと思うわ」
「そこでさらっと線引きしないでよ」
げんなりしてウィスキーをグラスに注ぐ。
遠目からでも肩を落とした息子が分かったらしい母親が、コロコロと笑いながら真後ろから肩を叩いて来た。
「翠さん、うちの息子がグズグズ言い出したら捨てて行ってくれて構わないからね」
「言わねぇよ!つか俺の扱い雑過ぎん!?」
「まあ息子だから、蝶よ花よとは育てなかったわね」
「だろうな」
「でも、お兄ちゃんも、
「後付けで褒めんなよ。嘘くさい」
「あ、私もそれは思います。すごく・・・バランスの良い人だなって・・・お母様に似たんですね」
また飛び出した独特な表現に、母親が目尻の皺を濃くしてゆったりと笑った。
デザイナー故なのか、翠はしょっちゅうこういう反応に困る言葉を紡ぐ。
笑えばいいのか、頷けばいいのか、それとも突っ込めばいいのか、どれが正解かまたフローチャートが行き詰って固まる芹沢の反応なんておかまいなしに、彼女の興味はすぐに他所に移っていく。
ああ、本当に感じたり思ったりしたことを言葉にしただけで、そこにキャッチボールは必要としていないんだなと気づいたのは、会話をするようになって三か月ほど経った頃だったか。
雑賀翠の世界は常に一人で完結している。
だから、誰がどんなに頑張ってもその世界に爪痕は残せない。
残せないのだ・・・・・・・・・本当に?
どうにか爪先数センチだけでもその内側に入り込みたいこちらとしては、足掻くよりほかにないわけで。
精神的に落ち着いているという意味か、それとも仕事の立場的なものを示しているのか、はたまたもっと違うことなのか。
どうにか自分なりの答えが欲しくて、どれだ、どれだと頭を悩ませること数秒。
「翠さんはお母さん似なの?」
母親が無邪気に投げた質問にひやりとした。
親がいない、の深い意味を芹沢はまだ聞いていないし、訊ける立場にもない。
知りたいような気もするが、それがきっかけで亀裂が生じるほうがもっと困る。
「あの、母さ・・」
どうにか別の話題をと間接照明で彩られた店内に視線を巡らせた時。
「私は父親に似ているみたいです。母は妹に似てますね」
翠がそつなく答えを口にした。
似ているみたい、ということは恐らく記憶にほとんど残っていないのだろう。
翠の反応は通常通りなので、触れられたくない話題というわけではなさそうだ。
一つ仕入れた情報をしっかりと記憶して穴の凹だらけの雑賀翠のデータを補っていく。
分からないから分かりたい、それが終わらない追いかけっこになったとしても、構わないのだ。
「あら、男親に似てる女性は幸せになれるらしいわよ」
人の好い笑みを浮かべた母親が、すぐに話題を切り上げてカウンターの奥に戻って行った。
この辺りの察しの良さはさすがとしか言いようがない。
ホッとして、グラスを持ち上げた矢先、緑の手元でスマホが震えた。
誰かからのメッセージが表示される。
彼女の交友関係には明るくないが、社交的ではないことは理解している。
何となく各部署ごとに定位置が決まっている社食スペースの、デザイン室の輪の中に一度も混ざっているところを見たことが無いし、こうして接点が増えてからも誰かと飲みに行くという話を聞いた事も無かった。
時間帯を考えて、身内もしくはよほど親しい間柄からの連絡だと推測される。
万一ここで自分の知らない誰かの名前が飛び出したら、それはもう由々しき事態だ。
キリキリと胃が縮むような思いで、彼女がスマホを操作するのを横目に眺める。
「あ、妹だわ・・・え!?」
ホッとした次の瞬間、翠が珍しく慌てた様子で声を上げた。
「病院!?」
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