第8話 Yellow-2

「え、あの、これはどういう!?」


二人になって3分ほど歩いた後だった。


「不倫はお勧めしないけど?」


社内の誰に訊いても愛妻家と返事が返って来る志堂専務が、まさかこの地味な変人デザイナーと恋仲になったりするわけがない。


「してません!あの愛妻家が私なんて相手にするわけないでしょう!」


予想通りの返事が返って来て、余計胸が軋んだ。


「じゃあ、見込みのない片思いもお勧めはしませんよ」


自分にも突き刺さる一言を投げて、ブーメランが胸のど真ん中を深く抉って来た。


数年先の未来さえもほのかに描いていた数時間前の自分を苦く思い出す。


込み上げて来るやるせなさと情けなさ。


送られてくる励ましのメッセージに、癒されたり、鼓舞されていた自分が馬鹿らしく思えて来た。


あるはずのない将来を夢想して、珍しく社内報の新作リングなんてチェックしていた頃、あの子は別の誰かと新しい恋を始めていたのだ。


「・・・・そんなんじゃありませんから・・・」


立場は全く違えど、やるせない思いを抱いているという点でだけ、二人は同じだった。


慰めの言葉なんて出て来る筈もなく、青になると同時に、彼女は真っ直ぐ私鉄の駅に向かって駆けて行った。


芹沢の事を、振り返る事も、詰る事もしなかった。


一人地下鉄の駅に向かいながら、ご丁寧に届いていたおやすみのメッセージに、終わりにしよう、とだけ返事を返して、画面から彼女の存在を消した。



翌日以降、彼女にとっても志堂専務にとっても不名誉な噂話が流れる事も無く、代わりに食堂の昼時の話題に上がったのは、幻の存在と言われていた、あのデザイン室の魔女が、どういうわけか社内のシステムエンジニアを落としたという一大珍事。


彼女にとって有益でないことは確かだが、自分の恋心を面白おかしく吹聴されるよりはいいだろうと開き直った。


この辺りの記憶が定かでないのは、もぬけの殻状態で丸二日を過ごしたせいだ。


何度かデザイン室の魔女との関係について尋ねられた気もするが、肯定も否定もしなかったため、噂話に拍車が掛かったらしい。


デザイン室の魔女が、根城から出て他のフロアに顔を出すことはまずないし、美味しい社食が人気のお洒落な食堂でランチを摂る事も無い。


次に顔を合わせる事があるとすれば、最初の時と同様、無理やり引っ張り出された役員会議くらいだろうと踏んでいたのに。


いつもより遅い時間に、ビルの裏手に煙草を吸いに向かった先に、あろうことか件の魔女がいた。


タイミングが合えば、平良と一緒に喫煙所に向かう事もあるが、一人の時はいつも此処に向かう。


コミュニケーション能力の鬼である平良は、喫煙所で顔を合わせた社員とはすぐに打ち解けて仲良くなる。


そのおかげで、他部署からの平良へのご指名は後を絶たない。


それも彼にとっては気分転換の一環のようだが、芹沢は違う。


みんなで煙草を吸うよりは、一人で息抜きがしたい。


バランサーが板についてしまったせいか、他人の空気や間を読んで当たり障りのなく過ごす癖が抜けきらない芹沢の本当の意味でのリラックスは、一人で居る時だ。


だから、誰かに会う可能性のある喫煙所は、一人の時は使わない。


「・・・げ」


美味しそうに煙草をふかした人物が、煙草を唇から離して、思い切りこちらを見て顔を顰めた。


明らかにお邪魔虫はお前だとその顔に書いてあった。


この場所を喫煙所にしている人間がほかにもいたことに驚いて、けれど、その人間が、自分と縁続きになってしまったデザイン室の魔女だった事には、なぜか少しも驚かなかった。


どこか、自分と彼女は似ているのだろうと漠然と思ったのだ。


たったあれだけの関わりのなかで。


慌てて携帯灰皿に煙草を押し付けて、凭れていた壁から身体を離した彼女が、改めて芹沢を視認して、あ、と声を上げた。


あの夜以来の再会だった。


「その節はお世話になりました」


「余計なお世話でした?」


「・・・・いえ・・・助かりました、けど、はっきり否定して貰わないと、あなたが面倒なことになると思うけど」


「自分がじゃなく?」


「・・・・私を誰だか知ってるでしょう?」


「有名ですからね、デザイン室の魔女」


「だったら・・・」


「飲みに行きません?」


「はあ?行きません」


「いや、別に口説いてるわけじゃないから。傷の舐め合いって事で」


そこはしっかり釘を刺して投げた提案に、彼女は一瞬眉根を寄せて、またここで会う事があったなら、と言って去って行った。


自分でもどうして彼女を誘ったのか分からない。


腫れ物を扱うように気を遣ってくれる宗方や平良に愚痴を零すのではなく、ただ、彼女と静かに飲みたいなと、思った。


始まりは、そんな風だった。

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