第7話 Yellow-1

「ごめんね、実は昨日からお姉ちゃんが泊まりに来てて・・・ゆっくり飲むのは次の機会でもいい?」


申し訳なさそうに両手を合わせて、デザート美味しかった!と口にする彼女を駅まで送って、ぽっかり空いてしまった花金の残り時間を一人で家で過ごすのも虚しくて、駅の南にある繫華街のバーで時間を潰してそろそろ帰ろうかと店を出た。


ここ最近、PCの入れ替えと、店舗の売り上げ管理システムの変更が重なって、朝晩逆転する事が多くて、恋人らしいデートはひと月半ぶりだった。


合間を縫って食事デートに誘い出して、潰れた休日のお詫びと称して彼女のお気に入りのブランドの洋服をプレゼントしたりもした。


付き合って二年半、ほどほどに我儘で、自己管理も出来て、家庭的でもある彼女との将来が見えて来た頃に急にやって来た繫忙期。


けれど臍を曲げる事も無く、仕事を応援してくれた彼女の存在はやっぱり大きくて、少しこの先の事について、摺り合わせをしたいなと思っていた。


切り出す前に、腕時計を見て遅くなれないのと零した彼女の笑顔はいつも通り。


だから、電車に乗って既に帰宅済みの筈の彼女が、繫華街のビルから別の男と手を繋いで出て来た瞬間は、見間違いかと思った。


付き合い始めた頃のような、好意と興味いっぱいの眼差しで隣を歩く男に身を寄せる恋人を視認した時点で、全部が終わった。


家に着いた?と送ったメッセージへの返信は、真っ赤な嘘。


どこから黄色の点滅信号が始まっていたのかもう分からない。


ただ、確かな事は、恋人だった目の前の女性の心は、既にこの手の中からすり抜けていたということだけ。


呆然としたまま、駅に向かおうとした足をもう一度繫華街に向けて、目的なく歩き始めて数分後、その人は現れた。


「いや、だから本当に違うから・・・」


「ええー!でも、怪しいですよー!お礼のお食事会も実は二人だったんじゃないんですかぁ?」


「ちゃんと奥様もいました。あの時はお手洗いに行かれてただけ」


「その割に、雑賀さん、物凄く困った顔してましたよねぇ、あ、ばれちゃった!みたいなぁ」


ワインバーの店の前で、タクシーを待っているらしい女性グループの集団が、一人をやり玉に挙げている。


素通りしようかと思ってやめたのは、そのやり玉に挙げられている相手を覚えていたせいだ。


通称、デザイン室の魔女。


出勤から退勤まで、デザイン室から一歩も出ないと言われている彼女は、その存在自体が疑われている謎の人物。


いつも黒い衣装に身を包み、他部署に知り合いは皆無。


デザイン室の同僚とも必要以上にコミュニケーションを取ろうとはしない。


彼女がデザインするジュエリーが店舗に並んでいる所は見たことが無いが、一部の顧客から熱烈に支持されているらしい、という話は聞いたことがあった。


飲み会にもまず顔を出さないという彼女がこの場に居る事も珍しいが、酔っぱらった若手デザイナーに絡まれているのもこれまた珍しい。


不要なコミュニケーションは切って捨てる潔さを間近で見た記憶があった芹沢は、彼女が心底この状況に困っているのだとすぐに分かった。


「それはあなたの見間違い」


「じゃあ、志堂専務の事好きでもなんでもないんですかぁ?」


「・・・・当たり前でしょ。愛妻家で有名なのに」


派手なネオンの明かりの下で、心底不愉快そうに顔を顰めた彼女の真意は、多分芹沢にしか分からなかった。


「えええーでもぉーなーんか、こう、女の勘がぁ・・・」


なおも言い募る後輩をぎろりと睨みつけた彼女の横から、口を挟んだのは、ただの気まぐれ。


「あんまり遅いから迎えに来たんですけど、雑賀さん」


「・・・!?」


急に名前を呼ばれて振り返った彼女が、目を白黒させている。


確かに役員会議室で一度顔は合わせているはずなのだが、彼女の中では全くに認識されていなかったらしい。


どうでもいい人間とカウントされていたのだろう。


「え・・・あ、芹沢さん!」


「・・・ええ!?システム室の!?」


「なんで!?」


翠を取り囲んでいた三人官女が口々に言って、芹沢と緑を交互に眺める。


「ええっと、飲み会はもう終わり、だよね?」


「あっ、は、はい!室長ももう帰られたんで、二次会カラオケ行こうかなぁって・・・」


「申し訳ないけど、ここで抜けさせてもらってもいい?」


これは翠を取り囲む女性陣への問いかけ。


「わ、わかりました!」


こくこく頷く一人の腕を突いた右側の女子が小声で疑問を口にする。


「ええ、なんで、芹沢さん?」


その質問に対する答えは、自分も持っていなかったので、一先ずその場を退散する事にした。


「じゃあ、お疲れ様です」


人の好い笑みで会釈して、放心状態の彼女の腕を軽く引っ張る。


「お、お疲れ様です・・・」


この異常すぎる状況を飲み込むことができずに呆然と自分の後を付いて来る翠と、駅の近くまで歩いたところで、漸く彼女が我に返った。


意外に早かったな、と不思議なくらい冷静なアタマでそんな事を思ったら、横断歩道の信号に引っかかったタイミングで初めて翠が声を上げた。


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