第47話 Yellow Orange-1 

「この辺じゃ迷わなくなったなー」


ほっとしたような、けれどどこか寂しそうな声で芹沢が言った。


彼の自宅マンション付近で遭難したのは、初回の一回と、その後もう一度だけ。


二回目は夜だったのでこれはもうやむを得ないを開き直ることにした。


以降、きちんと目印を覚えて自力で彼の家に辿り着いている。


「これでも一応学習能力ついてんのよ」


こんな所で胸を張るアラサーはいかがなものかとも思うが、翠にとってはとてつもない成長だ。


「じゃあ、こっちの道入ってもいい?」


「え、それは駄目。覚えたのは駅からマンションまでの道だから、寄り道は含まれてないから」


「まあまあ、いいでしょ俺もいるんだし」


ふらりと路地裏に入って行った芹沢の後を追って、一人だったら絶対に入らない脇道に逸れる。


目の前を歩く芹沢の背中があれば安心だと、そう思うようになったのはいつからだろう。


相変わらず公園は苦手なままだし、黒い服しか選ばない翠だけれど、知らない場所に行く機会はここ数か月で一気に増えた。


一人じゃないことの安堵は、それを失うことへの恐怖も連れてやって来たけれど、澱んだ色に飲み込まれずに居られるのは、いつだって安心感がそこにあるからだ。


休日の朝、早起きして人の少ない通りを散歩するようになったのは、間違いなく彼の影響だ。


翠が起きるまでオンラインゲームで暇つぶしをしている彼に、起きたなら起こしてよと言ったのは、もう少し二人の時間を増やしたいなと思ったから。


翠が芹沢の部屋に出向いても、二人で一緒にオンラインゲームをすることも無ければ、二人で一緒にスケッチブックを広げることも無い。


お互いが好きな場所で好きな事をして過ごす休日は、まさに翠にとっては理想の休日そのもの。


そのまま昼寝して気づけば夕方になっていることもあれば、空腹を訴えた翠を連れて芹沢がランチタイムが終わりかけの喫茶店に向かう事もある。


物凄く自由で、気ままで、束縛とは無縁の時間は最高に居心地が良かった。


芹沢は翠に変化を求めなかったのだ。


居心地の良い空間だけを差し出して、翠に新しい居場所を与えてくれた。


そして、翠が望まない限りそれ以上は絶対に踏み込んでは来ない。


随分優しくされて気遣われてきたのだ。


おかげで翠は、芹沢にも芹沢の部屋にも慣れた。


だから、歩み寄りたいなと思ったのだ。


翠のお願いを受けて、起床した彼が一服から戻って声を掛けて来てすぐに起き出せる日もあれば、グダグダとベッドのじゃれ合って過ごすこともある。


その気になった芹沢に流されて、昼までそうしていることも時々はあるけれど、物凄く稀だ。


むしろ気を付けなくてはならないのは、夜間対応が続いた後の夜で、起きて待っていると確実にベッドに連れ込まれてしまう。


翌朝寝坊したくない日に限ってそうなのだ。


芹沢の部屋に翠の荷物が少しずつ増えて来て、急な雨の夜には泊って帰ることも珍しくなくなった。


重たいと思っていた合鍵は、使ってみたらなんてことは無くて、我が家同然、というわけではないが、それなりに愛用もしている。


「怖い色が見えたら言って、止まるから」


「そんなのないよ」


「え?ないの?」


「前ほど色んなもの気にならなくなったから」


「へえー・・・」


翠の台詞に、芹沢がひょいと眉を上げて面白そうに頷いた。


誰がどんな色を持っていても、自分が一番信じられる緑と藍色と青があれば大丈夫。


大丈夫だと思える自分を信じられる。


疑心暗鬼になったって、世界は何も変わらない。


いまの翠は、ほのかほどではないけれど、転んだって平気だと思える。


転んで泣いたら、迷わず手を差し伸べてくれる人がいるからだ。


もうどれだけ頼まれたって、結構ですと彼を突っぱねることなんて出来ない。


「佑、この道通ったことあんの?」


周りを確かめることもせずさくさく進んでいく迷いのない足取りは、翠には絶対に真似できない。


きっと彼のことだから、どこかに突き当たったらその時に位置確認をしようと思っているのだろう。


普通の大人は、翠ほど道に迷わないらしい。


「いや、ない。俺別に散歩趣味じゃないし」


「それなのに、朝の散歩には付き合ってくれるんだ」


「翠さんが、新しいことに誘ってくれて嬉しかったから」


「新しいっていうほどでもないけどね」


いや、翠にとってはかなり新しいことで、進歩なのだが、世間一般的には些細過ぎなことだろうかと妙な意地を張ってしまう。


僅かに翠を振り向いた芹沢が、へらりと気安い笑みを浮かべた。


「俺の隣で無理してスケッチブック開かなくていいよ?」


「え!?」


「俺に気ぃ遣ってなるべく隣に居ようとしてくれてるのは嬉しいけど」


呟いた彼がポケットから緑のマルボロを取り出した。


取り出した瞬間、慣れたメンソールを思い出してしまう。


それくらい、芹沢に馴染んでいた。


「ちょうどいい距離をさ、ゆっくり探そうよ」


火をつける音がして、すぐに細い煙が上がる。


ピンクのピアニッシモが恋しくなったけれど、生憎翠の洋服はポケットがないものが多いので、いつも煙草とライターはカバンの中だ。


「何かを我慢して折り合いをつけるんじゃなくてさ。俺はスケッチブックよりも、翠さんに興味があるし、日記の中身は一生知れなくても構わない。それより、俺に教えてもいいって思ったことを、言葉にしてくれるほうがずっと嬉しいし、残るよ。譲れないのけど?」


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