第3話 Red Orange-1

ピンクのピアニッシモ。


黒を纏う自分とは一番縁遠くて、一番不似合いな色。


それでも煙草を覚えてから、変わらずこれを吸い続けているのは、ほのかに残る桃の香りが優しい気持ちにしてくれるから。


他の追随を許さない程福利厚生が充実している志堂は、屋上庭園含め社内の至るところに喫煙スペースがある。


禁煙が叫ばれている時代に抗う喫煙者たちの居場所をきちんと守ってくれているところは心底有難い。


各所に設置されている空気清浄機は最新機種で、煙草の匂いを全く残さないところも含めて有難い。


技術職を多く抱える企業なので、他社と比べて喫煙人口が多いせいもあって、喫煙スペースが多いのだ。


創業当初からいるベテランの職人たちは、昔は作業台の横に灰皿を置いて煙塗れになりながら石削ったなんて口にする位だ。


彼らの強気発言のおかげで、昨今の禁煙ブームにも肩身の狭い思いをせずに済んでいる。


が、景観の良い喫煙スペースや、広くて快適な喫煙スペースには、必ず誰かが居る。


極力他者と関わりたくない翠は、デザイン室の同僚達と一緒に喫煙所に行ったことなどない。


誰にも見つからずに、ゆっくりと深呼吸出来るスペースを捜し歩いた結果、休憩時間からは外れた中途半端な時間に、自社ビルの裏手で一服することが定番になった。


意図的にその時間とこの場所を選んでいた翠だが、彼もそうだったのかは分からない。


システム室は、夜間勤務も発生する不規則な業務なので、休憩時間が他の部署と被らない事も多い。


だから、彼にとっては日常の一部だったのかもしれない。


いまは、そこに別の何かが含まれているとしても、それは翠にとってはこのまま永遠に預かり知らぬ状態にしておきたい事柄だ。


砂利を踏む足音がして、緑のマルボロを胸ポケットから取り出しながらこちらに歩いて来る芹沢の姿が見えた。


「あ・・・」


「なによ」


一瞬顔を顰めた芹沢に、僅かに眉を持ち上げて見せれば。


「火ぃ貸してください。さっき平良にライター貸したままだわ」


「ん」


握ったままのライターをぽいと適当に投げてやる。


「どーも」


「芹沢くん・・・あんたさぁ」


「なんすか?」


「どっかで余計な事言い回ってないよね?」


「余計なこととは?」


はて?とすっ呆ける年下のシステムエンジニアをぎろりと睨みつけた。


デザインに煮詰まっているタイミングで、後輩からしつこく声を掛けられた時にひと睨みしたら半泣きになって逃げられた、それなりに威力のある眼光である。


石にされるかと思いましたぁ!なんてミーティングのネタにされて、より一層魔女に不用意に近づく人間は減った。


そう、必要最低限の人間とだけ関わり合って、省エネ一直線で生きて行くつもりだったのに。


今日も綺麗に緑と藍色と青がバランスよく配置された芹沢は、静かに煙草を咥えて、ライターを差し出した。


知識と理性と調和がこんな風に安定している人を見たことが無くて、だから、顔かたち云々ではなくて彼の事はちゃんと覚えていた。


雑多な音と色が混ざり合う混沌の中でも、彼は安定していたから。


そういう人間は、上手く自分をコントロールして生きて行くから、僅かに距離が近づいたのはただの気まぐれだと思っていた。


飽きたらそのうちフェードアウトしてハイ終わり。


むしろその方がずっと気は楽だったのに。


「役員フロアにまで噂が回ってんのよ・・・」


「へえー・・・役員フロアまで。山下さんのリーク力マジで侮れんな・・」


「他人事にすんなっ」


誰より噂の渦中にいる片割れのくせに、さして興味も無さそうな態度に腹が立つ。


この手の話題は熱しやすく冷めやすいが、最近社内のイケメン所が綺麗にカップル成立していって、お昼時の話題に飢えている女子社員は大勢いるのだ。


存在すら疑わしいとされているデザイン室の魔女の、真偽不明の恋バナがネタになるくらいには。


「困ってんですか?」


「普通困るでしょ。っていうか、芹沢くんが困りなさいよ。なに第三者気取ってんのよ」


「え?俺は別に困ってませんよ。翠さんが噂否定するのに疲れて頷いてくれたらなぁと、他力本願狙ってます」


しゃがみ込んだ翠の隣に同じように並んだ芹沢が、ライターを握ったばかりの翠の手を捕まえる。


煙草を遠ざけた彼が、握った手の甲にキスを落とした。


ふわりと近づいたメンソールの清涼感と、ピアニッシモの放つ桃の香りがふわりと溶けあう。


パチパチと瞬きをして、この現状を把握したら、手の中からライターが落下した。


「っと・・はい。ちゃんと握ってて」


器用にそれをキャッチした芹沢が、翠の手を開かせて、しっかりとライターを握らせる。


されるがままに一連の動作を眺めていた翠は、一先ず率直な言葉を口にした。


チラチラと見え隠れするピンクには気づかない振りをする。


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