第17話

 アパートを出ると外は燃える焔のように赤く染まっていた。四つの影がアパートの壁に影絵が写し出された。

「神子岡さん、この度はありがとうございました。」

彼女は深々と頭をさげた。初めて会った時と変わらず姿勢が正しい。

「良かったですね。元の生活に戻れそうで。」

そう言おうとしたが本心ではなかった。彼女がこの二年間どのような思いで藤岡かほるとして生きてきたか私にははかり知ることは出来ないが、おそらく並大抵の覚悟ではなかったはずだ。しかし彼女が藤岡かほるでない以上、彼女は藤岡家を出る他ないのだろう。

それでも彼女には彼女の人生がある。いつまでも藤岡家でかほるを演じること自体に無理があるのだ。一日でも早く本来の彼女が行くべき道へと戻した方が良いはずだ。理性ではそう訴えかけるのだが、彼女の悲しみに暮れた顔を見ると心の底から良かったとは思えない。

「神子岡さん。」

彼女は地面に視線を落としたまま名前を呼んだ。

「これで良かったんですよね?」

 神子岡はなにも言わなかった。彼女は自分の名前を呼びながらもそこにいない別の人物に問いかけていたことが判ったからである。

しかしその声は助けを求めていることが神子岡には解っていた。手袋を外し彼女の頭をなでるように触れた。感情は文字となり大波のように押し寄せた。『悲観』や『恐怖』に交じりひときわ目立つのは別の感情だった。

「私は見当違いをしていたようです。あなたは不安に感じていると思っていましたが、そうではなかったんですね。」

これまで縋るように自身を見ていたのは不安からくるものばかりだと神子岡は思い込んでいた。しかしいつだって彼女は急いていた。早く気付いてほしいと、早く解放してほしいと。

「そう、です…私凄く苛立ってた…かほるでない私に誰も気づいてくれないし、誰もが自分のことしか考えてない、し…藤岡さんは私を、私を置いて…」

嗚咽交じりの涙声は言葉を途切れ途切れであるがゆっくりと紡いでいった。息を吸うと咳き込んで、詰まりながらも必死に自身の感情を吐き出した。

「私…言われた通りにかほるではない私の想像する一人娘として生きた…けど藤岡さんは私を、置いて、行ったんです…それが悲しくて悔しくて…!」

膝を折ってその場に蹲った彼女に円と草介が背中をさすったり頭をなでたりまるで小さな子供を慰めるように寄り添う。

「これから元の生活に、戻れって言われても、私、はもう私じゃない…そんな気がして、怖い…!」

神子岡は彼女の前に膝をついた。まるで宗一郎の意識が乗り移ったように彼女の手を取り手についた土や砂を一粒も残らないように優しく掃った。

「元にもどれないなら戻らなくてもいいと思います。今までのあなたではなくても、これからのあなたを作っていけばいいんです。でも立ち止まらないで欲しい。あなたを作るのはあなただけではありません。これから関わってくる人たちと共に作り上げてください。大丈夫。あなたならきっと出来るはずです。あなたは何にでもなれるんだから。」

彼女は一際大きな声で泣き神子岡の手をぎゅっと握り返した。


帰りの車の中から外を見ると夕暮れは疾うに過ぎて真っ暗である。すれ違う車のライトが順番に目に飛び込んでくる。車内は誰も喋らず静かだった。疲れていることも事実であるが、それ以上にとんでもない現実を突きつけられては仕方ないとはいえ水木の静けさは神子岡たちを戸惑わせた。一番大変な時に雇われた水木は、ただ巻き込まれたと言っても過言ではない。せめてなんとか励ましてやりたいとは思うがなんと声をかければいいのか悩む。

「あの…なんと言っていいかわかりませんが…」

つい声に出してしまったことを後悔した。ここまで口にすれば何か言わなければならない。

「私クビですよね!?」

こちらの杞憂を知ってか知らずか、思ってもいないような大きな声で感情をぶつけられて神子岡たちは呆気にとられた。

アパートを出るとき、今後藤岡家の人間は皆暇を出すと田中は言った。水木に関しては短期雇用であることが事前に解っていながらだます形で雇ったことを謝罪したのである。怒ってもいいはずの水木は「気にしないでください」とにこやかに笑って答えたのだ。

「頭が全然追いついてなくて、しかも田中さんも困ってるだろうって思ってつい返事しちゃったけど失敗しちゃったかな。」

「でも田中さん、次の職を斡旋してくれるって言ってたし…」

草介は必死に慰めようとした。何だかんだと律儀な田中のことだから恐らく次の職には困らないように便宜を図ってくれるだろう。そのあたりは心配ないと神子岡は考えていた。

「それはそうだけど、私この仕事気に入ってたんですよ!車の運転は好きだし、お給料は良かったし、まさに天国!って感じだったんです。それに…」

水木は今にも泣きそうな顔で言った。

「私はお嬢様のこと好きだったなあ。喋る機会はあまりなかったけど、いつも皆に声をかけてたり、気にかけてたりされてて…私もここで働けて良かったなあって思ってた。って後悔するくらいなら、やれば良かったんだよね。たらればなんて言っても仕方のないことだけど、それでも考えちゃう。もっとお嬢様と話をしていたら、悩みも相談できるくらいの仲でいれば違う結果がみえていたのかな。」

「今からでも遅くはないのでは。」

「え?」

「過去は変えられないけど、これからは変れるでしょう?これまでは彼女とあなたはお嬢様と運転手だっただけで、あなたが望むならこの先は友人になればいいんです。今の彼女にはそういう人は何よりも代えがたいものだと思いますよ。」

水木は納得したのか、「そっか、そっかあ」と何度も首を縦に振り、少し鼻を啜ってくしゃっと笑った。

 草介の家、兼店の前に車を停めてもらった。外はすでに真っ暗である。

「本日はお世話になりました。帰り道も気を付けて。」

「こちらこそありがとうございました!」

ここに初めて来たときのような笑顔で、また大きく体を曲げてお辞儀をする。車に乗り込みエンジンをかける音がする。私はひとつ彼女に言い忘れたことがあり、窓をこんこんと叩いた。すーっと窓が下がった。

「ずっと疑問だったんです。半年の付き合いで彼女が水木さんを信頼していた理由がわからなかった。でも今ならこう思うんです。彼女はあなたの明るさに救われていたんじゃないかって。実際今日初めて逢った私たちがあなたの明るさに救われたんだから。あなたのおかげで辛いだけの一日で終わらずに済みました。本当にありがとう。」

今日一番の笑顔を見せてくれた。悲しみや苦しみで満たされていた胸の中が温かくなり、今日の疲れが癒された気がした。

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