第16話
折挨拶をするくらいで、極力関わらずに暮らしていた。毎日が静かだった。一人でいるのは楽ではあったが、静けさは藤岡家の日々を思い出させ、思い出せば静けさを強く感じ、孤独さが増していく。これが罰かと自分に言い聞かせていた。
そして三か月が経ち電話が鳴る。彼女は涙声であった。必死に何かを言っている。私は何も答えることが出来なかった。
再び島の土を踏むの旦那様の葬式であることは心のどこかで覚悟はしていたが、こんなにも早いとは思わなかった。ひっそりと執り行われた葬儀は、かつての華やかな藤岡家とは正反対である。参列者は身内だけとし、彼女をはじめ、誠二と文也、知佳、円のみであった。彼女のすすり泣きとお経だけが響く葬儀であった。最期にみた旦那様の顔は穏やかな顔であった。漸く涙が一粒零れた。
葬儀から火葬まであっという間であった。そろそろ島を出ようと思い、旦那様の骨壺に手を合わせた。もうなんの感情も湧き出ることがなかった。悲しみも苦しみもなく、自分に生きる希望ももう残されていなかった。帰り支度をしていると彼女に呼び止められる。
「田中さん、少しお時間をいただけますか。」
旦那様の書斎に通された。あの日以来一度も入っていない。ここで亡くなったとは聞いたが、いざ部屋に入っても感情が揺さぶられることはなかった。
「これをお持ちください。」
手渡されたのは装丁が美しい本、いや旦那様の日記帳であった。三年間分を書き込めるものでずっしりしている。
「どうして。」
「お父さまから貴方に渡すように託されました。いつか私になにかあった時は必ず渡すようにと言われていたんです。」
めくってみると毎日短文で日々何があるか綴られている。ここ二年間のことが書かれているようだった。ソファーに腰をかけて読んでみる。お嬢様が生きている間のことは、悩んでいたことが書かれ、お嬢様が亡くなってからは後悔の想いが綴られていた。死の直前になると、それまでお嬢様に対しての後悔が、彼女や私に対する懺悔に変わっていた。自分の行いが私たちの人生を狂わせたことが日々重荷になっていく様子がうかがえた。死ぬ前日の欄には何も書かれていなかったが代わりに封筒が一枚挟まれている。
『紘市 先に逝くことを許してくれ。私は勇気のない人間だ。家族のことから目をそらし、自分のことばかり考えていたように思う。その結果君たちの人生まで狂わせてしまった。本来であれば自分で始末をつけるべきだとはわかっているのに、もうその気力も生まれない。恩を仇で返していることは重々承知しているが最期の我儘を聴いては貰えないだろうか。彼女をよろしく頼む。もう一人の娘のために。長年ありがとう。追伸、例の鏡を神子岡君に届けてくれ。最期まで手間をかけさせてすまない。』
何が任せてくれ、だ。結局最期まで私がいないと駄目じゃないか。死ぬためだけに私を遠ざけた旦那様の勝手な振る舞いに、無くなっていた感情『憤り』が蘇る。
「何が書かれていたんですか。」
親指に力が入り、手紙がくしゃっとよれる。彼女が心配そうに声をかけた。彼女に手紙を差し出した。「私が読んでも良いのですか?」と問われ何も答えずに頷いた。おずおずと受け取りそれに目を通すとはっと顔をあげた。
「本当に勝手な人だ。結局私に後始末をさせるんだから…」
しかしこの事態を招いたのは自分である。もし私が旦那様と警察に行っていれば、もし私が嫉妬深い人間でなければ、旦那様は自ら死を選ぶことはなかった。彼女は今でも夢を目指して輝いていた。そのふたつの輝きを消したのは私自身ではないか!
「後は私に任せて貰えますか。旦那様の最期の願い、必ず叶えますので。」
彼女は顔を伏せて泣き声をあげることはなかったが肩を震わせていた。床にぽたんぽたんと涙が落ちた。
「それではこの脅迫状を作ったのは田中さんなんですね。でも、どうしてこんな回りくどい真似を。」
「もし鏡を取りに来る約束など忘れられていた場合、出向いていただけないと思ったんです。しかもこの通り鏡としての機能はすでに果たせない状態ですしね。ですがもし彼女が困っているとしれば、あなた方は来てくださると思ったんです。あの時、他人には対して価値のないただ一枚の写真を拾ってくださったあなたなら、きっと駆けつけてくれると期待し、それに賭けたのです。そして実際こうして来てくださった。あとは私にも後押しが欲しかったんです。懺悔の機会が欲しかった。情けないことに今の私には旦那様と同じく勇気を持つことができない。そのような気力がもう残っていないのです。」
怒りを通り越して呆れてしまうほど自分勝手なことを言うもんだと神子岡はため息が出そうになる。しかし文句をぶつけたところで諦観した彼には意味のないことだと理解していた。
「それで私はあなたの望むようにここまでやってきましたが、この後はどうするんですか?」
「この後藤岡家に出向き事情を話します。その後自首をするつもりです。私はあくまでも旦那様のためにやったことですので、旦那様がいない今それも意味をなしません。せめて託された彼女を元の生活に戻すこと、それが私の役目でしょう。」
田中は「ご迷惑をおかけしました」と床に額をこすりつけるようにして頭をさげた。その背中はもう震えてはいなかった。
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