第15話

すでにその事実を知っているとはいえ、彼女の口から事実を聞かされ神子岡も草介も水木も困惑していた。

「勿論、私はかほるさんをよく知らないから、私が思う藤岡家の一人娘を演じていただけにすぎません。でも藤岡家の人々は私の『かほる』を受け入れてくれました。受け入れたという言葉が適切かはわかりませんが。」

彼女は自分と本物のかほるを従業員たちが見分けられなかったことを可哀そうに思い嘲笑った。

「でも誰一人気付かないなんて、やっぱり信じられません。それに…」

草介は『誰にも気づかれないのは寂しい』と言うつもりだったが紡ぐのを辞めた。口にしてしまうことで彼女を傷つけるのを恐れたのである。

「見たいものを見た結果かもしれませんね。」

「どういうことですか。」

「藤岡かほる本人がそこにいることよりも、自分たちに都合のいい藤岡かほるがいれば生活が回っているんです。己の領域が守れれば周囲の人間が本物か偽物かなんていちいち疑わないでしょう。少なからず藤岡家にはいますよ。そういう人が。」

 吉野は自分の行いを認めようとしなかった。北村は他者に興味を持たなかった。久慈は昔のかほると比べていたが気付かなかった。母親の陽子もあの部屋から出ようとしなかった。自身の身や立場守ることで精一杯の人間が、他者が何者であるかなんて気にしないのである。

「本物のかほるさんと、あなたの演じるかほるさんは、お話を伺っているだけでも随分印象が異なっいるが、それでもあの家では皆さんがあなたをお嬢様と呼んでいる。たとえ違和感に気付いても、あなたの藤岡かほるを受け入れているんですよ。勿論、入れ替わっているなんて普通考えはしませんがね。ただ気になるのは我々がここに呼ばれなかったら、今もあの家で静かに暮らせたのではないんですか。わざわざ呼んだということは意図があるのでしょう。」

「全てを終わらせるためだったんです。私が無理矢理に取り繕った世界は旦那様を更に追い詰めてしまった。その償いのきっかけが欲しかったのです。」



 継ぎはぎの家族の生活は綱渡りのようなものだった。少しでもほころびがあれば真っ逆さまに落ちてしまう。従業員たちにかほるお嬢様ではないと思わせてはいけない、お嬢様の遺体が発見されてはいけない、初めの数か月は生きた心地がしなかった。しかしその不安は次第に忘れてしまうほど何事もなく平穏に暮らした。

恙なく日々は重ねられ、いつの間にか一年以上の月日が過ぎた。お嬢様の遺体は見つかったというニュースは流れてこず、姿かたちだけは生き写しの彼女は上手に藤岡家に溶け込んでいるように思える。無論あの日を忘れたことはなかったが日常を取り戻せた。このまま穏やかに余生を過ごせればよかった。

しかし旦那様自身がその生活にピリオドを打とうとしたことで私の希望を打ち砕かれたのである。

「旦那様お呼びですか。」

書斎の椅子に腰をかけ窓の外を眺めていた。最近は体力も下がっているのか食欲もなく書斎で静かに過ごされることが多かった。顔色があまりよくないので心配をしていたが、その日はすっきりとしたお顔をされていた。

「話がある。座ってくれ。」

書斎のソファーを薦められるがままに腰をかける。旦那様は立ち上がり私の向かい側のソファーに座り直した。テーブルには旦那様が大事にされている置き鏡が掃除用の古布と共に置かれていた。窓から差し込む光を反射して書斎机に光が当てていた。

「一年半、色々苦労をかけてすまなかった。そろそろ終わらせたいんだ。」

一瞬何のことかわからなかった。それくらい今の日常は『普通』だと感じていた。一年半前にあった出来事がまるで悪い夢だったかのようにすら思えてくる。

「あれから一年半、何も音沙汰はございません。大丈夫ですよ。きっと。」

「紘市…」

「お嬢様もこの生活に馴染んでいるように見受けられます。だから…」

「その彼女のことだ。」

「…お嬢様がなにか。」

声が上擦った。同時に頭のてっぺんから汗が流れてくる。

「もう彼女を解放してやってもいい頃だろう。確かにこの一年半彼女それなりに穏やかに暮らせたと思う。これは君と彼女のおかげだ。しかし私たちの都合で彼女の人生を縛るのはもう…」

「なりません!」

大きな音がした。何がおこったか自分にもわからなかったが、旦那様は驚いた目でこちらをみている。はぁはぁと息が荒くなる。音が鳴った床を見ると、旦那様が大切にされていた鏡が割れて落ちていた。

「大きな音がしたけど、どうされたの?」

彼女が慌てた様子でノックなしで書斎に入ってくる。後から誠二が追いかけて入って来た。

「大丈夫だよ。不注意で落としてしまったんだ。」

旦那様はにこやかに答えて鏡の破片を拾おうとした。咄嗟に止めに入ったのはお嬢様だった。

「お父さま、危ないわ。」

「知佳を呼んできましょう。細かい破片もあるでしょうし掃除機で吸ってもらった方がいい。」

「そうだな。そうしよう。ああ、鏡の枠は必要だからそのまま机に置いてくれ。」

「わかりました。」

彼女は鏡を拾い上げて机に置いた。私は何もできず、ぼーっと突っ立っているだけだった。旦那様はそんな私の肩を二回叩き、部屋を後にした。

「あの、大丈夫ですか。」

彼女は右手に触れた。手の甲から血が流れていた。

「血は大したことなさそうですが赤くなってます。痛めてるかもしれませんし、湿布貼りましょうか。救急箱とってきますね。」

「いえ大丈夫。ありがとう。」

彼女の手を振り払い部屋を出る。頭が真っ白になっていた。藤岡家を、旦那様の平穏だけをずっと念頭に置いてきた。それを旦那様から手放されたことが予想以上に堪えた。

 その日は何を考えていたか、何をしていたか思い出すことが出来ない。ただ旦那様に叩かれた肩が異様に重かったのを覚えている。夜になって漸く意識を取り戻したかのようにはっと気づくと部屋のベッドに横になっていた。夕飯も食べずに寝ていたようで空腹を感じて目が覚めたようである。

なにか残っていないかとキッチンに向かうと誠二が作った私の夕食と思われる皿が置いてある。ラップがしてあり、その上に『お召し上がりください』とメモが置いてあった。それを持ってダイニングに行くとお酒を飲んでいる旦那様に出くわした。日付を跨ぐことなく謝罪ができることに安堵を覚えながらも、まだ自分の失態をみせつけてしまったことが恥ずかしかった。

「旦那様…昼間はすみませんでした。旦那様の大切にされている鏡も壊してしまって。お怪我はありませんでしたか。」

「いや構わない。怪我もないよ。しかし神子岡君には謝らないといかんがな。」

「それで旦那様。」

「俺の考えは変わらんよ。紘市、君には感謝をしている。ずっとここまで遣えてくれて、家も名誉もずっと守ってくれた。私のことも。」

「旦那様…」

「でも、もういいんだ。もう充分だ。」

「私はあなたの傍で生涯お仕えできればいいんです。それ以外は何も求めることはないんです。」

「すまない。」

グラスに残った酒を一気に飲み干しテーブルに置く。溶けかけた氷がバランスを崩してグラスにぶつかりカランと音を立てた。

「後は俺に任せてくれないか。」

「何をなさるのですか。」

旦那様は何も言わずにこりと笑った。

「君には俺の惨めな姿を見せたくない。近いうちにこの島を去ってくれ。」

「私を追い出すのですか。」

「そうだ。」

「何年も傍にいた私を、ですか。」

「そうだ。」

「承知、致しました。」

もう何も考えられなかった。諦めに近い感情だった。肩が重い。立ち上がる力も私には残されていなかった。旦那様の言う『惨めな姿』の真意を見出すことが出来なかった。

その後自分の仕事を誠二に託して、なんとか新しい運転手を探し出し私は旦那様に言われたように荷物をまとめ島を出た。時期がくるのを待つようにと頼まれた。その日で旦那様の姿を見たのは最期である。


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