第12話
派手な都会ではなく静かな温泉地、尚且つ人の目を気にしなくても良さそうな宿を探していくつか候補を見繕った。若い人は、殊更我儘なかほるは嫌がるかと心配していたが、かほるに話をすると意外にも嫌がることなく了承したことに旨をなでおろす思いだった。それを聞いた宗一郎も大層喜んだ。
足がないので田中は同行したが、旅行中は極力二人っきりにして親子水入らずを楽しんでもらおうと考えていた。
「いい景色だな。地元では海ばかりだから、山の景色は新鮮だな。」
「お父様ってば単純ね。」
ロビーでチェックインを済ませて、宿の廊下から見える山を見ながら部屋に向かう。二人の笑い声を聴いて田中は安心しきっていた。家から出て日常から遠のき、いつもと違う景色を見るのはすべてが新鮮なんだろうか。それまでのギスギスした空気はなくなり和やかな雰囲気が漂った。
「それでは隣の部屋に控えていますので、ごゆっくりどうぞ。」
「すまないね。紘市も日頃の疲れを癒して、どうか寛いでくれ。」
「痛み入ります。お嬢様も楽しんでくださいませ。」
「ええ。」
かほるは素っ気ない返事だけして部屋から見える庭や山の景色を眺めていた。
田中は部屋に戻るとすぐに荷物を解いて仕事道具のノートパソコンを取り出し起動ボタンを押す。
「おっと…いけない。つくづく私も仕事人間だな。」
急ぎの仕事は粗方片付けてきたとはいえ、いざというときの為にノートパソコンだけは持ってきていた。ついさっき宗一郎の厚意を受けたばかりなのに。無意識の行動に思わず笑ってしまう。開いたパソコンを閉じて鞄の中にしまった。
せっかくいただいた休日だ、存分に楽しもうと散歩にでかけることにした。ロビーで近辺の観光地図を受け取る。温かみのある手書きの地図には色とりどりのイラストが紙一杯に描かれているが、よくよく見ると地元の名物の店が数軒あるだけで多くは描かれてはいなかった。山の方にはキャンプ場がある。近くに川が流れておりそこでは釣りが出来るなど、自然を満喫させようと魅せていることが一目でわかった。賑やかなものを好まない田中にとっては魅力的な地図であった。
「もう少し若ければ釣りでも楽しんだのだが…」
体力には自信がある方だったが、もう何十年も自然と戯れる遊びをしてこなかったので早々に諦めた。それでも山歩きは十分魅力的である。いそいそと準備をした。
木々が生い茂った山の空気はひとつ息を吸い込むだけで、体に蓄積した日頃の疲れと入れ替わるように心地よい。平日だからかすれ違う人も居らず、まるで山をまるごと貸し切ったようで贅沢な思いである。誰もいないと思うと気持ちも大きくなり、普段はしないような鼻歌を歌ったりなんかして年がいなく小さな子供の様にはしゃいでいた。歩くたびにくしゃくしゃと枯れ葉が潰れる音、少し遠くで流れる川のせせらぎ、風が触る木々の葉のざわめきが歌声をかき消す。
(旦那様とお嬢様も楽しんでくださっていればいいのだが…)宿についてからの二人を見ていると心配はないとは思う。無事にこの旅が終えればいい。風がびゅーっと木の葉を舞い上がらせた。長い年月をかけて根付いてしまった心配事も風と共に吹き飛ばしてくれることはなかった。
少々時間を持て余すのではないかと思っていたが、運動にもなり気持ちも体もリフレッシュ出来た。結局陽が落ちかけるまでずっと散歩を続けていた。夕食の時間をすっかり忘れており慌てて宿に戻る。宿に着くとロビーの椅子に腰をかけているかほるが目があった。手には例の観光マップを持っていた。
「お嬢様いかがお過ごしですか。」
「ええ楽しいわ。」
変わらず素っ気ない返事である。しかし心なしかいつもより口角があがっていた。
「何よりでございます。地図をご覧になっていたんですか。」
「いいところがないかなと思って。ここは何もないのね。でもこれからもう一つ大きなイベントもあるし楽しみだわ。」
「イベントにございますか?お祭りでもやっているのでしょうか。」
「ふふ、内緒よ。あなたもきっと驚くわ。」
かほるはいたずらに笑った。ここ最近では見たこともないような楽しい様子だったのが逆に気になった。「何かありましたか?」そう訊こうと声に出そうとした途端ロビーから声を掛けられた。
「お客様、お食事がご用意できております。」すぐに行くと返事をすると、かほるも立ち上がりそそくさと部屋に戻っていった。引き留めるタイミングを失い、仕方なく部屋に戻った。
部屋には一人分の食事が用意されている。とはいえ四人掛けのテーブルの三分の一を占めるほどの量である。食べきれるかなと一瞬不安にもなるが、たくさん歩いてきたこともありお腹が悲鳴をあげる。藤岡家での食卓は宗一郎の意向もあり、極力皆で食卓を囲んでいるので一人で食べることは殆どない。家の食卓よりずっと小さなテーブルであるが一人の食事は少々寂しさを感じた。しかし隣では親子で楽しく食事をしているのだと思うと、それだけで自然と笑みがこぼれた。
窓辺の椅子に腰かけ温かいお茶を飲みながらお腹をさする。上品な味付けの食事は一口食べ始めるとするする口の中に入っていき全て平らげていた。動くのも億劫なほどお腹が重くなってしまい、このままでは温泉は無理であると悟った。隣では今しがたすべての皿を空けたテーブルを仲居が手際よく片付け布団を敷いていた。皺ひとつないシーツはピンと張られ、軽くて薄い掛け布団が用意された。
「田中様、それでは私はこれにて失礼いたします。何かございましたらフロントまでお電話くださいませ。ではおやすみなさい。」
頭を下げてそそくさと去っていった。廊下から聞こえたカチャカチャと食器を運ぶ音が遠のいていく。せっかくの温泉を逃す手はないと思いつつも、膨れ上がった腹の重さと山歩きの疲れが相まって、目の前に敷かれたふわふわの布団を見ると一刻も早く潜りたい。一日の疲れを落とすことなく寝てしまうのはいささか不躾であるが、眠気に抗うことはできなかった。布団の上に置かれた浴衣に着替えて、洗顔と歯磨きだけ済ませてから布団に入った。早めに起きて朝湯を楽しめばいい。そう考えている間もなく眠りについた。
枕元に置いた携帯のバイブレーションが床を伝って頭に響く。もう朝かと手を伸ばす。目を開けると様子がおかしい。。まだ真っ暗なのである。てっきりアラームかと思った鳴りやまないバイブレーションにはっとし携帯電話を開いた。宗一郎からの電話であった。
「どうされましたか。」
寝起きのかすれた声を払うように咳ばらいをして電話に出た。しかし宗一郎は応えなかった。聞こえるのはザーザーと響くノイズの様な音である。
「旦那様?聞こえますか。お返事ください。」
「…紘市…すまん…」
微かに聞こえる声はノイズにかき消されそうになるほど小さい。
「旦那様?今どちらにおられますか。」
アクシデントが起きたと察知した。極力冷静に努めてゆっくりと話しかける。
「ああ…すまない…すまない…」
宗一郎は冷静さを失っているようだった。田中は耳をしっかり傾ける。ノイズだと思われた音は、強く吹きすさぶ風の音と枯れ葉のかさかさとなる音だと気付く。
「旦那様外におられるのですね。今向かいます。」
電話を切らずに床に置き、慌てて服に着替えた。ただならぬ様子を察知し、フロントには向かわず窓から庭に出て外に出ることにした。携帯電話を手にして、こっそりと極力音を立てずに塀を乗り越え外に出た。
風が強い。慣れない道で電灯も少なく歩きづらい。それでも昼間に歩いたおかげで迷わず走ることが出来た。昼間に歩いた山道で感じた心地よさは全て失われ、ただただ不気味に感じるのは、心のざわめきがおさまらないからであろうか。
「旦那様!」
宗一郎は地面に座り込んでいた。傍に寝転がっている何かをを虚ろな目で見つめていた。慌てて駆け寄るとそれが生き物であり、人間であり、かほるであることが判る。起きてはならないことが目の前に転がっていることに理解が追い付かなかった。
「旦那様お気を確かに!」
宗一郎の肩を揺するが反応がなく、頬を掴み紘市の方へ目線を合わさせると漸く返事があった。
「紘市…」
「一体なにがあったんですか。お話できますか。」
宗一郎の目に光が戻らず焦点が合わない様子だった。
「旦那様…宗さん!」
「かほるがおかしなことを言うんだ。これを見せてそういうんだ。」
宗一郎の言うこれが、何を指すのか田中には分らなかった。宗一郎の頭から目線をおろしていくと右手には一枚の紙を握り締めていたことに気付く。ぐしゃぐしゃによれてしまった紙を拾い上げ携帯電話の光を当ててみる。信じられないものが目に飛び込んだ。
「これは、いったい…」
「かほるが…俺の子ではないと言うんだ。俺は騙されていると…親の顔をするなと笑うんだ…だから思わず…しかしそんなつもりではなかった…なかったんだよ…」
宗一郎はかほるに覆いかぶさるように前へと倒れ込んだ。
「すまない…かほる…すまない…」
風が一層強く吹いた。今まで考える間もないくらいに忙しくしても、見ないふりを続けても、極力忘れようと努めても、心に根付いていた心配事は消えずこびりついていたが、この瞬間風化するようにサラサラと消えてなくなっていた。目の前の信じがたい光景は、田中の人としての理性を失わせるには十分だった。
「おまかせください。旦那様。何とか致します。こちらでお待ちください。」
冷たくなった体を脇目も振らず水の流れる音を頼りに川に向かって引き摺る。全体重がかかっているにも拘わらず不思議とスムーズに運べた。
向こう岸が見えない程の広い川に辿り着いた。ただの肉塊と変わったそれを躊躇いなく川に棄てた。流れが速くあっという間にそれは水に巻き込まれ姿がみえなくなった。なんの感情も湧き上がることはなかった。
直ぐにみつかるかもしれない。別に構わなかった。この瞬間だけでも旦那様の目の前からそれを排除出来れば十分である。
宗一郎を連れて急いで宿へ戻った。ズボンの左前のポケットに入れていた車の鍵を取り出し宗一郎を後部座席に乗せた。田中は部屋から外に出たルートを辿って庭から部屋に戻り荷物をまとめた。また宗一郎から受けとった鍵を使って部屋に入った。まだ広げていない荷物がそのまま置かれている。手早く忘れ物がないか、押し入れや金庫を確認してから三人分の荷物を持って薄暗い廊下を歩きロビーへと向かう。必要最低限の明かりだけついているが誰もいなかった。自動ドアの下部の鍵を解除し手で開けるとすんなり外に出られた。古い宿だからかセキュリティも甘く、今の田中にはそれが有難かった。荷物を急いで車に詰め込みロビーに戻る。カウンターにある呼び鈴を鳴らすと奥から慌てて人が出てきた。
「まぁまぁ如何されましたか。」
「夜分に申し訳ございません。先程家のものが倒れたと連絡を受けまして。すみません、先に旦那様とお嬢様に車に乗っていただくためにドアを勝手に開けました。不躾な真似をして申し訳ございません。」
さらっと嘘を口に出来たが、今にも飛び出そうな心臓に合わせて口調が早くなる。おかしいと思われたら最後だと思うと額から冷や汗が流れた。
「いえいえとんでもない!ご心配でしょう。急いでチェックアウトしますね。」
従業員は特に不審がらず、田中の嘘を心の底から心配しているようであった。それが心苦しく思わなくはなかったが、それよりも安心感が勝り思わず鼻から息を吐く。
「騒がせてしまって申し訳ございません。少ないですがこちらもお納めください。」
宿代と共にチップをつけてカウンターに置いた。
「そんないただけません。ご家族様の一大事ですしお気になさらず。」
「いえ、旦那様より申し付けられておりますので。どうかお受け取りください。」
田中より慌てた従業員に押し付けるようにして手渡した。それなら…と言いカウンター奥に置いた。田中は頭を下げて即座に乗り込み車を出した。バックミラーごしに従業員が深々とお辞儀をするのを確認してブレーキを踏み込んだ。
宛てもなく数時間車を高速道路で走らせた。その間二人とも声を発することなくエンジンの音だけが響く。息遣いさえ聞こえないほど静かなので、バックミラーで時折宗一郎の様子を確認した。宗一郎は眠ることもなく、目を薄ら開けたままぼんやり流れる風景を眺めていた。
田中は不思議な程頭がすっきりしていた。異常なことをしたという気持ちにはならなかった。真っ暗だった夜の空が白み始める。
「停めてくれ。」
かすれた声が田中の耳に入った。「わかりました。」といつもと変わらないトーンで答え、言われた通りに一番近いパーキングエリアに入る。トラックと自家用車が数台停まっている。どの車とも隣り合わない位置に停めた。
「お手洗いに行かれますか?その間にお茶と軽食でも買ってきましょう。何がよろしいですか?おにぎりかパンか…お茶は緑茶でよろしいですか。コーヒーも買っておきましょう。」
「このまま警察に行ってくれ。」
宗一郎は未だ虚ろな目で外をぼんやり眺めていた。そうは見えなかったが頭では自分がしでかした事実を認めていた。宗一郎には逃げるという選択肢は初めからなかったのだ。しかし、それはしでかしたことへの罪の意識ではなく、今後のことはどうでもいいと半ば人生に対して諦めのような気持ちが強かった。勿論警察に行くのは道理である。それは田中にも十分理解できたが許すことは出来なかった。後ろを振り向き言った。
「なりません。」
「何故だ。」
「旦那様が償う罪などございませんよ。お二人に何があったかはわかりません。ですがあの紙、裏切られたのは旦那様です。何があっても私は味方です。どうかお任せいただけませんか。」
そこまで言うと漸く宗一郎は田中の方を自ら向いた。
「しかしどうすると言うのだ。すでにあの子はもういない!私が…!」
「考えがあります。暫く旦那様はホテル住まいをお願いします。今は何もお考えにならず心をお休めください。」
宗一郎は何も言わずと呟き目を閉じ眠りについた。
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