第10話
鼻血もいい加減止まったところで、鼻に詰めたティッシュを取り出す。息を大きく吸うと、まだ微かに血の匂いが鼻に残っている。洗面所の鏡で再度確認した。鼻の下流れた血の跡が少し残っていた。指でグイグイと拭うとぽろぽろと落ちる。手をしっかり洗って洗面所を出た。
「もう大丈夫ですか?」
「ああ心配かけて悪かったね。」
「いえ。良いんです。そういえば先程、水木さんが先生と話したいって言っていましたよ。ちょっと深刻そうな感じだったな。」
庭で待っているというのですぐに向かった。こちらに気付くと水木は駆け寄って来た。しかし笑顔はなく奥歯にものが挟まったような顔をしている。
「話があると聞いたんですが、どうされました。」
「なんか変な話を聞いたんですよ。でもそんなことあるのかなーって。考えてたら頭が混乱してしまって、神子岡さんに話した方がいいのかなって。」
多少パニックになっているのか話の内容が掴めない。
「変とは?」
「しおかぜで写真を見たじゃないですか。ほら集合写真!その中にお嬢様が写っている写真があったでしょう?あれのことなんですが。そのことを久慈さんに話したんです。お嬢様も旦那様としおかぜ園に行かれてたんですね。本当に仲が良いんですねって。そしたらそんなはずないっていうんですよ。お嬢様はしおかぜに一度も行ったことがないって!でも確かに写っていましたよね。見間違いなんかじゃないですよね?もしかしたら久慈さんが知らないだけかもしれないですよね?」
ざわざわと木々を揺らす風の音がうるさい。今まで感じて違和感が妙に合致していくことに気持ち悪さすら感じる。
「水木さん、しおかぜの電話番号を教えてもらえますか。」
「え?は、はい。ちょっと待ってくださいね。」
円はスマホを取り出して電話帳を開いて見せた。それを見て自分の携帯電話に打ち込む。電話の音がやけに長く感じる。電話の音と徐々に早くなる心臓の音と重なり体中に鳴り響く。早く確認しないといけない。でももし嫌な予感が当たってしまったらと思うとたまらなく恐ろしかった。
「はい、しおかぜ園です。」
「…先程お邪魔しました神子岡です。園長先生でいらっしゃいますか。」
努めて冷静さを取り繕っていたが、その声は自分でも緊張しているのがわかるくらい震えていた。
「まあまあ。先程はどうも…」
「大変失礼だと思いますが、どうしてもお伺いしたいことがあって…」
神子岡が話す内容を聞いて草介も水木も蒼白するのが目に見えてわかった。神子岡の震えた声は園長に移った。
「では、間違いないのですね。」
「ええ…ええ…でも断れなかったのです。私共は藤岡様の援助に大変助けられてきました。感謝が尽きないほどに、本当にお世話になってきたんです。そんな藤岡様のお願いを誰が断れましょうか!」
耳から聞こえる言葉は目に見える感情の文字がなくても伝わってくる。
「私には事情を汲み取ることはできません。目的もわからない。でも正しいことではないと言えます。」
「話に聞いていたより冷たい方なんですね…」
「私の話?藤岡さんから聞いているんですか?」
「もしあなたからお嬢様のことを訊かれたら言うようにと申し付けられたことがあります。メモはとれますか?」
メモを書く仕草を草介にみせると鞄からさっとメモとペンを出した。
「これは誰の連絡先ですか。」
「田中様です。あなたを待っています。私からお願いするまでもないと思いますが、田中様と彼女のこと、よろしくお願いします。」
消え入りそうな声だった。向こうから電話が切られつーっつーっと耳の中を響かせた。
「水木さん、すみませんが車の用意をお願いします。」
「へ?」
突然振られたからか素っ頓狂な声で返事が来た。
「あとかほるさんにも声をかけてください。今すぐでかけます。」
「は、はい!今すぐに!」
円は大股で走ってい行った。
「せ、先生?今の話って本当んですか。」
「それを確認しに行こう。全てを話してくれるはずだ。」
水木が運転する車で、後部座席に私と草介、そして助手席にかほるが座っている。誰も何も一言も口をきかず道中車内はエンジン音が鳴るだけでひどく静かであった。
長い時間走っていた気がする。実際の走行時間は一時間程で、決して島から遠くない場所であった。辿り着いた場所は二階建ての木造のアパートである。メモによると階段から一番遠い部屋に田中は住んでいるようだ。車から降りても誰も先へ進もうとしなかった。一歩踏みいれるのが恐ろしく思うのは私も皆も変わらないようである。恐らく田中の口から聞かされる真実を聞き入れる準備がまだ出来ていないのだろう。私は先陣を切るように先に前に進むと、草介が追いかけるように後ろを歩き、かほると円も続いた。階段を上がると鉄の音が重なりあった。
部屋の表札には田中紘市と書かれている。間違いなくこの家である。ここまで来たら引き返すことは出来ない。インターホンを押すとブーっと音が鳴る。待ち構えてたように、すぐにドアが開いた。
「お待ちしておりました。神子岡さん。」
田中はあの日と変わらず整えられたスーツを着こなしていた。風貌から年月が経っているのだとわかるのは少し痩せたことと白髪が増えていたことくらいで、年を感じさせないしゃんとした立ち姿、そして柔らかい笑顔は変っていない。
「お久しぶりです。田中さん。」
「どうぞおあがりください。何もないところですが。皆さんもどうぞ。」
入るとすぐ右手に台所がある六畳のワンルームである。長年使われているいぐさの匂いがつんと鼻の奥をついた。太ももくらいの高さの小さな本棚とちゃぶ台、恐らく服がしまわれていると思われる小さなプラスチックの箱が置いてあるだけの質素な部屋である。本棚の上にノートパソコンが置かれていた。
「何もない部屋ですがどうぞお寛ぎください。」
西日が注ぐ台所は田中には少し低いのか前かがみになっている。カチカチカチカチ…ボッと音を立てた。紐を引っ張るとゴウンゴウンと換気扇が回る。暫く換気扇の音だけが響く。その間小さな棚から綺麗な紅茶のカップや紅茶の缶を出したり茶菓子を用意したりと手際よく動いている。
「お待たせしました。久慈君ほどの腕はありませんがどうぞお召し上がりください。」
出されたお茶と茶菓子は、藤岡家で出されたものに負けず劣らず美味しそうであった。
「とても美味しいです。」
草介がいち早く口をつけて言うと田中は嬉しそうににこにこと微笑んでいた。それは子供、孫を見るような優しい微笑みであった。
「神子岡様、ここにお越しくださったのは期待に応えてくださったのでしょうか。そうであれば嬉しゅうございますが。」
「思惑通りとでも言いたげですね。」
この人に踊らされてここに来たと言われたようで神子岡は面白くなかった。
「とんでもない。私はあなたを信じていただけです。」
「田中さん、恐らくあなたの期待には添えていないと思いますよ。私はあなたの真意がわかったわけではないんです。寧ろそれを尋ねに来たんですから。」
「ここに来てくださっただけでも結構です。それも、しおかぜ園の先生を通して来てくださった。私にはそれで充分です。」
「園長先生から連絡がありましたか。」
「ええ。先程お電話をいただきました。二年前にお願いしていたんです。もし彼女の正体を突き止める者がいたら必ず連絡くださいと。」
「二年ですか。」
その年月に驚きを隠せなかった。それは草介も水木も同じ気持ちだったに違いない。特に水木は半年間傍で藤岡家の生活を間近で見ていた人物である。到底信じられるものではないだろう。
「それで神子岡さん、依頼である脅迫状の差出人はわかりましたか。」
「お戯れを…差出人もなにも、犯人などいないのではないですか。」
一日で何度も開いたり折りたたんだりしている間に、よれてしまった紙を田中の前に差し出した。
「彼女の部屋の前に置いてあった。これは外部の人間がかかわってないと強調するためだったのですね。そうすると我々は藤岡家に住まう人から話を聞くしかないと踏んでいたのでしょう。皆さんに話を聞いた上での私見ですが彼らが脅迫状を出したとは思えないのです。そうなると田中さんはすでに家を出られているので、消去法で犯人はかほるさんでしかないのです。しかしかほるさんが自分に遺産相続を放棄するなど意味のない脅迫状を出すか疑問が生まれました。そうすると答えはひとつ、脅迫状には意味がない。では何が目的なのか?それがまた新たな問題ですが正直今でもわかりかねます。」
田中は不気味なほどにこにこしていた。口にはしていないものの「それから?」と続けて話をして欲しそうな眼差しを向けられる。『これ以上』の話を私の口からさせたい彼は何を考えているのだろうか。神子岡は眉をしかめた。
「田中さん、もういいでしょう?依頼は脅迫状の差出人を突き止めることです。それだけでしょう。」
「いえ、あなたが気付いたこと、知ったことを全てお話ください。そうすれば私も全てお話します。」
未だに園長から聞いた事実が信じられないでいる。間違っていればいいと願ってしまう。あの家にはその間違いが事実であったことが、気味が悪く何よりも恐ろしい。
緊張から喉が渇き、うまく声が出ない。目の前にある紅茶をぐいっと飲み干した。
「水木さん、久慈さんはかほるさんは孤児院に行ったことがないと言われたんですよね。」
話をふられた水木は困惑した様子で神子岡とかほるを目線で往復し、消え入りそうな小さな声で「はい」と呟きゆっくり頷いた。
「孤児院の写真には少し前、恐らく高校生位だと思われるかほるさんが確かに写っていたんです。でもかほるさんは孤児院には行ったことがない。しおかぜ園に問い合わせたら園長先生が答えてくださった。写真のかほるさんは別の人間だと。未だに信じられませんよ…!」
動揺して思わず声が荒げてしまう。心臓が大きく鼓動を鳴らしている気がした。冷静にならなくてはと一つ深い呼吸をした。
「どうしてかほるさんが別人なのかはわかりません。何よりも恐ろしいのは従業員が全員彼女をかほるさんだと思っていることです。これはどういうことなんですか?皆さんは別人だと判っていて口裏を合わせているだけなんですか?」
田中は首を小さく横に振った。
「仰る通り、彼女はかほるお嬢様ではありません。そして藤岡家の者が彼女をかほるお嬢様だと思っています。それで間違いありませんよ。」
「そんなことあり得るんですか?」
草介が恐々と口を挟むと田中は微笑んだまま首を少し傾げた。
「さあ。ですがあの家で彼女を別人だと言った人間はいましたか?」
笑顔で当たり前のように話す田中に草介は首をすくめて目をそらした。
「そう。あの家では誰も気づかないんです。誰もが他者に興味を抱かない家なんですよ。それが私には都合が良かったのです。」
「田中さんお聞かせくださいますね。」
「お約束です。お話しましょう。」
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