第9話
思いもよらない事実に神子岡は頭を抱えた。かほるの出生の秘密をかほる自身は知っているのだろうか。しかしそのようなこと本人に確認するにはあまりにも不躾で躊躇われる。草介にもこの話は内密にと釘を刺した。
それとは別に脅迫状の差出人も陽子ではないと悟ったのは良しとして、犯人の目星は未だつかないままである。かほるが宗一郎の子どもでないのを知っている人間がかほるに相続の権利がないと思っているのであれば、脅迫状の差出人の可能性は大きい。
「陽子さんは犯人じゃなかったんですね。良かった…」
「ああ。脅迫状を見せた時彼女の感情で一番露わになったものが『怒り』だったからな。あれは子供を守りたい母親の感情だろう。嘘をついているとは思えない。」
「それなら、父親候補の吉野さんでしょうか。」
しかし自分の娘だとしてかほるが相続をしないことで吉野のメリットがあるとは思えない。少なくともかほるは戸籍上藤岡宗一郎の娘である。
「例えばかほるさんに放棄をさせて陽子さんのみが全財産を受け取るとするじゃないですか。それを文也さんが陽子さんに分け前を貰おうと脅したり…なんてありえませんか。」
「勿論ないとは言わないけれど…少なくとも彼は今でも陽子さんを避けているようだし…」
「僕がなんですか。」
二人の鼓動が跳ねた。恐る恐る振り返ると文也が笑っている。
「吉野さん…」
「酷いな。そんなこと考えているわけないじゃないですか。」
「えっと、それは。」
草介は二の句が継げずもごもごと口ごもった。神子岡は吉野から目を離さないまま、手で草介を後ろに引き下がらせて対峙する。
「奥様にお逢いになられたようですね。なにか仰っていましたか。」
神子岡が怪しんでいたようにそこで見ていたと言わんばかりだった。
「それをあなたにお話する義理はありませんよ。」
「良ければ当てても良いですよ。お嬢様の父親の話でしょう。以前に詰め寄られたことがありましてね。そんなはずないのに、適当なことを仰るものだからこっちも迷惑してるんです。奥様は愛されたいがために、そうやって同情を買うんですよ。たとえそれが嘘だとしてもね。」
「ちょっと!」
草介は怒り心頭になり声を荒げる。しかし吉野はものともせず、片方の頬骨をあげながら言い放った。
「あなた方も気を付けた方がいいですよ。今は誰ともお逢いにならない分愛情に飢えていらっしゃるはず。優しさなど向けたら付け込まれてしまいますよ。」
「随分おしゃべりなんですね。」
神子岡の挑発的な言葉に吉野は顔を歪めた。
「何をそんなに焦っていらっしゃるのか知りませんが、訊いてもいないことを喋ると後ろめたいことがあるのではないかと勘繰ってしまいます。」
「なに?」
「これの件について今やあなたが一番疑わしい位置に立っていることをご存じでないようだ。」
折りたたんだまま脅迫状を見せつけた。吉野が出したかどうかはわからないが、もし犯人であるならば動揺してみせるだろう。本当に犯人であれば勿論必死に隠すだろうが、いざとなれば吉野に触れてでも感情を読もうと賭けに出た。
「何の話だ。」
「脅迫状ですよ。」
「脅迫状だと?なにをわけのわからないことを。」
「おい、文也!お客様に何をしている!」
不穏な雰囲気を察したかのように、偶然通りがかった久慈が駆けよってきた。
「初対面の相手に急に疑われていらついただけですよ。脅迫状がなんとかって言ってましたけど。なんだったら誠二さんが自分で確認してくださいね。よそ者が嗅ぎまわってるなんて胸糞悪い。」
去り際に口を曲げながらこちらをギロリと睨みつけて立ち去った。
「申し訳ございません。家の者が無礼を働きました。」
久慈は後頭部が見えるほどに深々と頭を下げた。しかしすぐに顔をあげると訝し気な表情を浮かべ口を開いた。
「ですが文也の言うことも一理あります。脅迫状とはいったいなんのことです?あなた方は我々のなにを調べているんですか。」
久慈がそういうのも無理はない。彼はすでに神子岡たちが藤岡家を訪ねてきた理由を怪しんでおり猜疑の目を向けた。かほるの客とはいえ、初対面の人間が家を嗅ぎまわっているのは気持ちのいいことではないだろう。
「これをご覧いただけますか。」
折りたたんだままの脅迫状を渡すと久慈は渋々受け取り紙を開いた。瞬く間に顔は手に持ってる紙のように青ざめた。
「なんですかこれは!?」
「かほるさんに届いたものです。私たちはこれを送った犯人を捜しています。」
「俺たちの誰かがこれをお嬢様に宛てたと言うのですか。」
「私はそう考えます。脅迫状はかほるさんの部屋の前にあったそうですよ。」
信じられないと首を何度も横に振りながら呟いた。
「かほるさんは命の危機も感じていると仰ってるんです。心当たりはありませんか。長く勤められてるあなたにしかわからないこともあると思うんです。」
「命だなんて。お嬢様が生まれた時からずっと知っておりますが、人から恨まれるような方ではありません。もちろん私自身家族の様に扱っていただいていた分、年相応の我儘などはありますが…」
「この家にいる人で、もしこれを出すなら誰だと思いますか。」
「誰って…俺にはそんなことわかりません。誰もしそうな人など思い当たりませんよ。」
「吉野さんでも、ですか。」
「あいつは普段は気が弱いやつです。こんなこと本気でやろうなんて思っても出来はしませんよ。知佳もそうです。あの子は仕事に対してはあまり熱心ではないし、人付き合いも程々ですますタイプだ。わざわざこんな脅迫状を書いてまでお嬢様を困らせようとはしませんよ。」
草介はうんうんと頷いた。神子岡も久慈の言うことに異議はなかった。陽子の部屋を訪れた際にわざわざ吉野から噛みついてくるのは気の小ささからくるものだろう。草介の話を聞いた限り北村もかほるを心配しているようであった。ましてや遺産相続には関係ないとみえる。しかし現にここに脅迫状が存在しているのだ。
「この家のものがやったなんて思えませんが、お嬢様があなたに頼んだことなんですよね。ならば早く検討をつけてください。あいつらがどんな人間だったにせよ、此処にいる限り家族なんです。旦那様が家族のように扱ってくださっていた彼らが疑われるのは御免です。」
久慈がその場を離れようとした矢先、かほるがこちらに向かって走って来た。
「神子岡さん、お話は出来ましたか?」
「おかげさまで。かほるさんのことも心配していましたよ。」
「そう、でしたか…」
「奥様にお逢いなさったのですか?」
久慈はこれまでにないほど目を丸くしていた。驚きのあまり「いったいどんな手を…」と無意識に口に出して呟く。咳払いを二度した久慈の耳は少し赤くなっている。
「かほるさん、陽子さんは恐らく差出人ではないと思います。」
「でも演技かも…」
「そう思われるならお母さんに逢いませんか?今ならお逢いになると思いますよ。」
「…いいえ。やめておきます。今はまだ私も勇気がでそうにありません。」
何年も逢っていないのだから無理はない。少なからず彼女は寂しい思いをさせられてると感じていてもおかしくない。母親の方から逢いに来てほしいと思っていてもいいと神子岡は思った。
「あ、そうです。神子岡さん鏡をお渡ししたいんですが、良ければ父の部屋もご覧になりませんか?」
「え、宜しいんですか。」
「ええ勿論。駄目元でもよろしければですが。」
脅迫状の犯人探しに躍起になっていて、鏡のことはすっかり忘れていた。持って帰るのを忘れたらゲンはあからさまにがっかりするだろうなと想像すると少し笑えてしまった。
宗一郎の部屋は意外にも綺麗な状態だった。換気もされて空気が淀んでいることもない。北村は掃除をするのを躊躇っているそうだ。この部屋で人が死んだと思うと気味が悪いと言われ久慈は腹をたてた。しかし無理にさせるのも酷だとかほる言う。今は二人で協力して掃除をしているそうだ。
天井を見ると梁に大きな傷がついている。じっと見つめていると久慈が話し出した。
「そこで旦那様の遺体が発見されました。遺体の直ぐそばに倒れた椅子があったことと、遺体にも暴れた跡がないそうです。検視の結果も踏まえて警察は、他殺はありえないと言っていました。」
久慈は神子岡が他殺を疑っているのではないかとまだ思っているのか忠告するように言う。たとえ他殺だったとしても、神子岡には警察のような知識はないのでどのみち判断は出来ない。
「神子岡さん、これが父の鏡です。」
書斎机の上に置いてあった鏡を手に取り差し出した。鏡の木枠は百合の花が彫られている。
「本当に美しい装飾ですね。」
「ええ。父もその装飾が気に入ってました。」
「割れた鏡を置いとくのは縁起が悪いし捨てようと思ってたんですけど、本当に鏡の部分がなくてもいいんですか?」
久慈は不思議そうに問うた。
「構いません。どちらにせよ判断するのはうちの店長なんで。」
「店長?」
「僕の母が骨董品の店をやっているんですよ。」
「ああ、なるほど。」
「これを割ってしまったのは宗一郎さん、もしくは田中さんということですか。」
「多分田中さんだと思います。あの時は尋常でない様子でしたし。まさか大事にしている鏡を壊したことが原因なんて思えないけど、田中さんが辞めたのは鏡が割れてしまってからなのは確かです。」
かほるは悲しそうに鏡に目をやって言った。
「藤岡さんの様子はどうでしたか?」
「意外と落ち着いていましたよ。鏡が割れたことも怒ってはいなかったように見えました。でも二人の間に何かがあったのは間違いない思います。私たちも話しかけにくい雰囲気でしたよね。」
かほると久慈は頷きあっていた。
鏡が割れたのは事故だったのだろうか。もし事故ならば、たとえどんなに大切にしていたとしても、憤慨して辞めさせたとは宗一郎のおおらかな人柄からして考えにくいことである。だとすると原因は別にあるのだろうか。
「鏡、か…」
宗一郎はこの鏡を家族の次に大事にしていた。そしてこの家の鏡の意味を重要視していた。恐らく毎日鏡に映る自分の顔を見ていたに違いない。
「草介。いざというときは頼んだよ。」
「はい…!」
神子岡たちのやり取りをみてかほると久慈は首を傾げ訝しんだ。
神子岡は手袋を外し、ごくりと唾を飲み込み意を決して鏡に触れた。
あらゆる感情の文字が大波のように現れた。神子岡は身体を飲み込まれそうになる恐怖を全身で感じた。
「うわああああ!」
神子岡は思わず鏡から手を離し、胸をぎゅっと押さえつけ膝を折った。鼻からはぼたぼたと血が落ちる。慌ててもう片方の手で血を止めようと鼻を抑える。
「おい!大丈夫か!?」
久慈は慌てて神子岡に近づき背中をさすろうとする。
「ダメです!触れないでください!!」
草介は止めた。鏡を床に置き鞄から水筒を取り出した。蓋に注がれた苦そうな緑の液体は臭さがただよわせた。
「私タオルと氷を持ってきます!」
かほるは走って部屋を出たが、ただならぬ様子に久慈はおろおろして見守るしかなかった。
神子岡は手渡されたお茶をぐいっと飲み干し息を吐く。草介は安心したように息をついた。
「すまない。」
「いいえ。久しぶりに来ましたね。念のために気付け薬を持ってきて良かった。」
薬とは名ばかりの、ゲンが作った恐ろしく苦いお茶である。最近は倒れることも少なくなっていたが、万が一外出先で感情にやられた場合に飲ませるようにと草介に持たせていた。
「それでなにを感じられましたか。」
「憎しみ、恨み、悲しみ。酷く苛まれていたようだよ…恐らく藤岡さん自身も必死に感情をコントロールしていたんだろうね。」
鏡を見ては、人に見られても平気かどうか、何度も何度も確認していたのではないだろうか。必死に笑顔をつくり、誰も憎まず恨まず、そして悲しまず。その裏返しなのだろう。
「一体なんなんだ。何の話をしている。」
神子岡は草介に話しても構わないと頷いて見せた。
「先生は触れたものの感情を知ることができるんです。大体は見えるだけですが、時々こうして倒れられるほどの感情をご自身の心で体験してしまうことがあるんです。」
「はぁ?」
久慈は不振がりながら五、六枚のティッシュペーパーを手渡してくれた。それらで鼻を塞ぐ。白いティッシュがじんわりと赤く染まっていく。
「えっと、例えばここにお邪魔した時に振舞ってくださったクッキー、あれはあなたの手作りですよね。」
「ああ、そうだが…」
「かほるさんに招かれたとは言え、今日来訪をすることを知っていたのはかほるさんと運転手の水木さんだけのはずなのに、お茶菓子、それも焼きたてのクッキーが出てきたのは驚きました。それに触れた時とても心が温かくなったんです。誰かを思いやる気持ち、そして同情。あのクッキーはかほるさんのために焼いたものですね。」
「確かにあれはお嬢様のために焼いたものですが。あのクッキーはお嬢様が唯一沢山喜んで食べてくださるんです。旦那様を亡くしてから以前の様に食べなくなったので、少しでも食べてもらえるようにと今朝から準備していたものです。」
久慈はかぶりを振った。それはまだ信じられないという意思表示のようである。
「にわかには信じがたいが、そこまで言われると納得するしかないというか…」
「信じられなくて当然ですよ。寧ろ藤岡さんが特殊な方です。」
「旦那様はあなたの、その能力?を知っていたんですか。」
「ええ。初めてお会いした時には。随分心配下さってこの革手袋を送って下さったんです。」
誠二は腕を組んで考え込んだ。
「そういえば先程、かほるさんの食の細さを仰っていましたが、以前の様にとはどういう意味ですか。」
「は?あ、ああ。お嬢様は元々偏食気味でかつあまり召し上がらない方なんですよ。小さいころはとにかくご飯を食べさせるために色々工夫したくらいです。旦那様はお嬢様に食べるようにと口をっぱくして促していましたが、それでも好き嫌いは治りませんでした。成長なされても食には関心を抱かれなかったんですよ。料理人としてはいささか複雑ですがね。それが二年前だったかな。旦那様がお嬢様と田中さんの二人を連れて、気晴らしの旅行に出られてからは、食に興味をしめされるようになったのか、不思議とたくさん召し上がるようになったんです。驚きましたよ。どういう心境の変化なのかと。」
旅行で余程美味しいものを食べたのかなと苦笑いして付け足した。今までにない変化は確かに奇妙である。
「神子岡さん大丈夫ですか!?」
かほるは氷嚢とタオルを持って戻ってきた。すぐさま氷嚢をタオルでくるんで鼻に当てた。
「すみません、お部屋汚してしまって…」
「そんなこと良いんです。ご気分はどうですか。」
「ええ。もう大丈夫です。」
「良かった…」
かほるの目にはうっすら涙が浮かんでいた。随分と驚かせてしまったことを改めて謝罪すると首を大きく横に振って「無事ならいいんです」とにっこり笑ってみせてくれた。
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