第8話

「久慈さんに報告してきますので、ここで失礼します。」

玄関で水木は思いっきり頭を下げて小走りでリビングに向かった。同じころに階段から駆け下りながら「おかえりなさい」と草介が駆けてくる。

「こら、走ってはいけないよ。」

「早く報告をしたくて、つい。」

「つい、じゃないよ。」

おでこを拳で軽くこつんと叩いたら、首をすくめて「ごめんなさい」と呟いた。

「言われたように確認しましたよ。写真もばっちりです。あと気になることもいくつかありました。」

しかしすぐにぱっと表情を明るくし、草介は神子岡がいない間にあったことを話した。吉野と北村の男女の問題に、神子岡も気になっていたかほるの吉野に対する憎悪。『早く言って欲しかった』の真意。家を継ぐのかと言われて答えなかったかほるの隠れた本心。

脅迫状の件に関して言えば北村は犯人でないと考えた。北村は元よりここを辞めて島を出るつもりでいるのならば、遺産相続に興味など持たないだろう。

「やはり陽子さんに話を聴くべきか…そういえばかほるさんはどうしたんだい。一緒に回ってもらっていたんだろう。」

「ええ、まあ。泣いていた時に追いかけようとしたんですが、北村さんに止められました。やっぱり追いかけた方が良かったでしょうか。」

草介はおろおろしながら言った。

「一人にさせたい気持ちもわかるけど、脅迫状の件もあるからなあ。探してみよう。とりあえずかほるさんの部屋から行ってみようか。」

「僕案内します。」

そう言って意気揚々と見せたのは間取り図だった。かほるが書いてくれたと、さらさらっと書けて凄いと嬉しそうに話した。

二階の一番奥のにかほるの部屋がある。ノックをしたら涙声で「はい、ちょっと待ってください」と返事があった。ずきっと心が痛んだ。脅迫状を受けてるだけでも穏やかでいられないだろうに。しかしここでそっとしておくわけにはいかない。早く犯人を突き止めなくてはいけない。余りにも情報が少なく私の心にも焦りが生まれていた。暫く待つとかほるは部屋から出てきた。

「ごめんなさい、お待たせしてしまって。」

「いえ、こちらこそ申し訳ない。まだ犯人の手がかりが掴めていないのです。」

かほるは眉を寄せ縋るようにこちらを見た。

(これは…)

触れても居ないのにかほるの周りには『不安』『焦り』の文字がみえた。それらは雨が降るように上から下へと落ちていく。

「ああ、そうです。私の部屋の鏡もご覧になりますか。」

「よろしいのですか?」

「勿論です。さ、どうぞ。」

部屋は綺麗に整えられておりすっきりとした印象だ。また鏡はとても美しく磨かれていた。

「本当に性格がでるんですねえ…」

草介はスマホを鏡の方に構えて写真を撮っている。

「かほるさんの部屋とか久慈さんの部屋の鏡は凄く綺麗に磨かれていましたよ。それに比べて北村さんや吉野さんの鏡は手垢がついてもそのままって感じで、綺麗とはいえない状態でした。特に吉野さんは使っている様子がないみたいです。埃も溜まっていたし。」

「部屋の鏡は個人で管理をしているんですか?」

「知佳さんにお願いはしているんですが、あまり細かいところにまで気を配れないと言うか…私は自分でしています。父の教えもありますので。」

「恐らく久慈さんも宗一郎さんの教えから綺麗にしているみたいです。共用部の鏡も、久慈さんがよくいるキッチンやリビング近くの鏡は、他の物に比べてとても綺麗でした。」

 それでは彼らの鏡に触れても何も情報が得られそうにないなと神子岡は肩を落とした。試しにかほるの鏡に触れてみるかとじっと鏡を見つめるが、触れても居ないのに感情が溢れんばかりに文字となって見えたのを思い出すと一歩勇気が出ない。しかし情報が殆どない今、躊躇っているわけにもいかない。手袋を外し恐る恐る鏡に触れてみた。

 『   』

慌てて手を引っ込める。

「先生!?大丈夫ですか。顔が真っ青ですよ!」

いったいどういうことだろうか。何も見えなかった。どんな人間にも喜怒哀楽は備わっているものだ。それなのに何も感じないなんて経験したことがなく気味が悪かった。ましてや目の前にいるかほるからはむき出しの感情が目に入ってくるのに、そのかほるが使っている鏡から何も感じられないなんて、一体どういうことなのか。

「大丈夫だよ…」

なんとか絞り出した声に草介は一層不安そうな表情を向ける。手袋を外した手で頭をポンポンと叩いてから撫でた。草介の周りに『心配』『不安』の文字が浮かびあがりゆらいでいる。その文字を見てほっとした。冷静さを取り戻すために息を大きく吸いゆっくり吐き出した後、かほるに目をやる。かほるは何が起きたのかわからないというように困惑した様子だった。そんな彼女の周りにさっきまでの文字はすでに見えなくなっていた。

「かほるさん、どうか陽子さん会わせてもらえませんか。」

「それは無理だと思いますよ。屋敷の者ですら何年も話していないのですから。」

「試しにでもいいんです。一度だけで構わないですからどうかお願いします。今の時点で脅迫状を出す人間の目星がつきませんが、一番可能性があるのは遺産を相続できる母親の陽子さんだけだと考えています。ですが話を聞かない限り、絶対だとは言えません。」

「…わかりました。知佳さんを介して会えるかお願いしてみましょう。」

北村から自分が夜に伺えないと嘘をついて話に行ってみるのはどうかとアドバイスを受けた。一度でもドアが開けばきっかけが生まれるかもしれない。神子岡は小さな望みにかけるしかなかった。かほるは母親に逢いたくないと言うので北村と草介と共に離れに向かった。北村がドアを三度ノックして声をかける。

「奥様、北村です。掃除に参りました。」

「まだ明るいわ。もう少ししてからにして頂戴。」

かすれた女性の声が聞こえる。

「今夜は用事があるので今お願いしたく…」

「陽子さん、神子岡透と申します。宗一郎さんと十五年前にお会いしたことがあり、その時にあなたのお話を伺っています。」

「ちょっと神子岡さん!?」

不躾に無理矢理割ってはいった神子岡に北村は慌てふためいた。

「神子岡、さん?」

かちゃりと音がなる。少しだけドアをあけ隙間から陽子と思われる髪の長い女性が覗いた。十年以上前にみた写真からすると年をとっているという理由だけとは到底思えないほど老け込んでいた。

「北村さんごめんなさい。席を外して下さる?」

「は、はい!わかりました!」

北村は狐につままれたように目を点にして茫然としていたが、陽子に言われたように離れを後にした。

招き入れられた部屋は思っていたよりずっと綺麗に整えられており清潔感も感じる。しかしその部屋とは反対に陽子の姿はやせ細り髪も伸ばしっぱなしでぱさついている。肌艶も良いとは言えなかった。あの頃の面影は感じられないと言った吉野の言葉を理解した。

「もう、十五年も経ちますか。」

声にもはりがなく、必死に絞り出した声はかすれている。筋肉も衰えているのか歩き方も年寄りのようだ。キッチンでお湯を沸かしているのを見ても危なっかしくて草介が思わず手を貸すほどであった。

「僕が淹れますよ。食器棚を開けてもよろしいでしょうか。」

「まあまあ、ありがとうございます。お茶ッ葉はこれを使って頂戴ね。」

「わかりました。」

草介にキッチンを任せて、陽子は神子岡と共に席に着いた。

「人にお茶を淹れてもらうなんて何時振りかしら。」

小さく笑った姿は写真の面影を蘇らせる。

「遅くなりましたがこの度はご愁傷さまでした。」

改めて居住まいを正し深々と頭をさげると陽子はそれ以上に、テーブルにおでこが付く位に頭をさげる。

「主人から神子岡さんと瀬田川さんの話は伺っておりました。古物商のことや喫茶店のこと、いただいたオムライスが美味しかったなど嬉しそうに話していましたよ。いつかは一緒に行こうって誘ってくれて…」

一言一言ゆっくりと、まるで思い出の宗一郎と会話をしているかのように語った。

「藤岡さんが私たちのことを…そうでしたか。」

「あまりにも楽しそうに話すから、私も行ってみたいと答えました。そしたらあの人少し涙を浮かべながらも満面の笑みで『必ず行こう』って言っていました。最期まで叶うことがなく…私の弱さのせいで…あの人が亡くなったなんて今でも信じられません。何も伝えず、何も言わずに旅立ってしまいました。」

かすれた声が涙でしめっていく。必死に涙を落とすまいと顔をあげ、しかし目をあわせずに堪えているが、うさぎの様にすっかり赤くなり涙が溜まっていた。あの時宗一郎が心配していたのは病でも心の病だったのだと悟った。

「私は結局この部屋から出ることも出来ず、あの人のお葬式ですら参列も出来ず、本当に情けなくて…情けなくて…」

「陽子さんお聞かせいただけませんか。あなたが心を閉ざしてしまったきっかけがあったのではありませんか?」

陽子はうつむき暫く黙り込んだ。目からはぼたぼたと我慢していた涙がこぼれる。

「私のせいなんです。」

藤岡家に嫁いできたころ、宗一郎は自分をとても大事にしてくれたと語った。とても楽しい日々だった。自身は島生まれでなく本州が住まいで、大学から社会人となり宗一郎が経営していた会社に就職する。その時に宗一郎の目に留まり、数年で結婚、田舎暮らしも気にならなないと言うと宗一郎はとても喜んでくれたという。大きな屋敷や、その屋敷に家政婦がいるなど、それまでに考えもつかないような暮らしでお姫様にでもなった気持ちでいた。自身でガーデンパーティを主催すれば、誰もが喜んで楽しく過ごしてくれる。華やかな生活が一層陽子の気分を高めた。

毎日が充実していたかというと、陽子にとってはそうではなかった。宗一郎は自身をそれはもう大事にしてくれていたのは陽子自身肌で感じていた。しかし恵まれすぎた環境は陽子の心に隙を生むこととなる。屋敷にいる限り身の回りの世話は誰かがしてくれる。空いた時間を埋めるために趣味を作ろうと努力はしたものの、何をしてもつまらなかった。与えられる愛情に慣れすぎたせいか、常に誰かが傍にいないと思いが満たされずに落ち着かなかった。そんな寂しさを紛らわしたいがために次第にパーティの回数も増えていったが、反して宗一郎は仕事が忙しく出席する回数が減っていた。宗一郎は陽子が楽しければ構わないとパーティを許してくれた。持ち前の愛嬌のよさと華やかさは人を集めた。次第にエスカレートして誰彼構わず愛情を求めた。ただ話すだけでは飽き足らず一度だけ過ちを犯した。

「ではかほるさんは宗一郎さんの子供ではない、と。」

「いいえ!私は旦那様の子供だと信じています。信じているんです。でもそうじゃないかもしれない、そう思うと怖くて、怖くて…」

「それを誰にも相談できなかったんですか。」

「ええ、でも彼にだけ、共に過ごした彼にだけは伝えました。でも相手にされませんでした。」

気のせいだとあしらわれたと言う。どんなに縋っても自分の子供ではないと逃げられた。もしかしたら宗一郎の子供かもしれない。その願ってはいたが、調べて事実を突きつけられることが恐ろしかった。結局宗一郎に明かせなかった。かほるを宗一郎の子供だと何度も自分に言い聞かせてきたが、あの一夜を忘れることが出来ず、次第に不安と恐れは心を蝕んでいった。

「かほるさんの父親は…その相手は誰だったんですか?」

陽子はぎゅっと目をつむり、口を開かなかった。暫くすると目をそろっと開けると同時に口も開いた。そして「庭師の吉野さんです。」と小さく呟いた。

神子岡は驚きを隠せなかった。と同時に吉野が陽子に対して向けられていた優しさは偽りだったと気付くと沸々と怒りが沸きだすのを覚えた。彼は心配していたのではなく、陽子が本当のことを言いださないか見張っていたのっではないかと怪しんだ。

また宗一郎のことを考えると心がざわつく。彼はこのことを知っていたのだろうか。それが原因で自死を選んでしまったのか。疑念は深まるばかりであった。

「お茶、どうぞ。」

草介は湯気が出ている温かいお茶を置き、自身のアイロンがかけられた皺ひとつない白いハンカチを差し出した。陽子は受け取り「ありがとう」と涙声で答えた。

 お茶を飲んでいると陽子のすすり泣きは次第に治まっていく。

「あの子は、かほるは元気にしていますか?変と思われるでしょう?同じ家に暮らしているはずなのにあの子の様子すら知らないなんて。」

草介は首を振って今日のことを楽しそうに話した。

「そう…元気なら良かった。今まであの子にしてやったことなんて片手で数えられてしまうんです。母親の資格すらないけど、あの子が元気でいてくれるなら今は何よりも嬉しいから。」

 本気で娘を心配する陽子の表情は紛れもなく母親であった。。ここを逃す手はないと意を決して話を切り出すことにした。

「陽子さん、最後にこれを見ていただけますか。草介、あの紙を出してくれ。」

 出していいのか困惑しているようだったが、急いで鞄の中の脅迫状を出した。

「これは?」

「私たちはこれの差出人を探すためにここに来たんです。あなたは心当たりがありますか?」

 陽子は差し出された脅迫状を恐る恐る開いた。

「なんてこと…!これはまさかかほるに?」

息を詰まらせるように声が震えていた。

「ええ。かほるさんから依頼を受けて参ったんです。」

「一体誰がこれを!」

陽子の周りには赤い色で『怒り』『不安』『狼狽』の字が浮かび上がる。これまでは生気が抜けていた陽子が感情を露わにする。

「まだわかりません。実のところ、一番可能性が高いのはあなただと思っていました。」

「そんな!私ではありません…!」

「ええ。あなたではないと思っています。正確に言えばお話をしたからこそあなただとは思えないのです。」

陽子は肩で息をしていた。落ち着いて息をするようにゆっくりと大きく息を吸い込み吐き出した。そしてまっすぐ神子岡を見据えて言った。

「神子岡さん。私がこんなことを頼むのもおこがましいような気が致しますが、どうかかほるを守ってやってください。どうか、どうかお願いします。」

 本来ならば自分が一歩外に出てかほるを守ってやりたいのだろう。『悔しさ』が滲んで浮かび上がっていた。

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