第7話
「よしっ!」
僕は自分の頬を叩いた。ぱんっと高い音にかほるさんがこちらを見て目を丸くしていた。
「ご、ごめんなさい。気合入れていました。先生からの頼まれごとなんて珍しいから頑張らないといけないなーって。」
「ふふ仲がよろしいのですね。」
子供の頃から先生についてあちこちついて回っているので行く先々で言われ慣れた言葉である。昔は純粋に喜ばしい言葉であるが、今は嬉しいような恥ずかしいような気持ちになる。それでも嬉しさが上回るのは僕がまだ子供という証拠だろうか。
「ではどちらから見られますか。」
「広い屋敷だから悩みますね。」
「良かったら見取り図を書きましょうか。」
かほるさんは手近な紙とペンを使いフリーハンドでサラサラと見取り図を書き上げていく。
「助かります。」
見取り図によると館は二階建てで、一階は共用部で玄関、リビング、ダイニング、キッチン、洗面所、浴室、二階はそれぞれの個室部屋となっている。そして離れがある。
「鏡の位置とかも書いてもらえますか。」
「わかりました。えっと…」
鏡がある箇所に丸を書いてもらった。多いと聞いていたとはいえ十もあれば片付くかと思ったが、ここも、あそこもと丸印が増えていく。住人でもどこにあるか一個一個思い出して確かめないと判らないくらいの量で驚いた。
「本当に多いんですね。」
「各部屋に一枚ずつ姿見がおいてあるので、それだけでも十部屋で、一階と二階の廊下に三枚でしょ。キッチンにもあったかな。あと一応浴室と洗面所にも丸を付けておきますね。」
「皆さんのお部屋は許可がいりますよね。それは後に回したいから先に共用部を見せてもらえますか。」
歩いて見て回ると気付いたことがある。玄関の大きな鏡は特別綺麗に磨き上げられているが、廊下の鏡は同じようにピカピカに磨き上げたものと、指紋がつくなどしてくすんでいるものと両極端である。
「これは掃除係の北村さんが拭いているんですか?」
「ええ。お願いしています。でも時々誠二さんが拭いて下さることもありますよ。」
「久慈さんが?」
「誠二さんは幼少期からこの家に住まれておりますし、お勤めくださっているから、父の鏡を綺麗にするようにって耳にタコが出来る程聴いているでしょうし、気になるんだと思います。」
「そういえばお母さんが料理人だったんですよね。」
「ええ。ご両親ともここで働いてくださっていたんだそうです。私が生まれた頃には亡くなっていたので会ったことはないんですが。」
「お父さんも?お父さんも料理人だったんですか?」
「お母さまが料理人で、お父さまは庭師だったんですよ。誠二さんも最初は庭の仕事を手伝っていたみたいですが、お母さまが亡くなった時に、代わりの料理人が見つからなくてキッチンに立ったらお母さまと同じ味だったんで父が料理人として雇いたいって言ったんですって。父も自分の母親より誠二さんのお母さまの味で育っているからよく嬉しそうに話していましたよ。」
「庭の腕がなかっただけですよ。」
「誠二さん。」
久慈さんは両手いっぱいに本を抱えて話しかけた。悪口を言っていたわけではないが、噂話を本人に聞かれているというのはなんとなく悪いことのように思ってしまう。
「父は厳しい人でね、父の実力に及ばなかった俺は早く見限られたんだ。父は本州で行われてたコンテストで文也見つけて連れてきたから庭師としての俺の居場所はなくなったんだ。そうなるとこの家にいても俺は荷物になるだけだから、島を出ようと思っていたんだ。しかし就職が上手くいかなくてね…そんな時に母が亡くなって。急遽料理人が必要になったから試しに厨房に立つことを旦那様に薦められたんだ。レシピが残ってたからそれを見て作ってみたんだ。レシピ通りに作ったのに母の味にはならなかった。でも旦那様は同じ味だとそう仰って皆を納得させてくれたんだ。おかげで職を貰えた。今日までこうしていられるのも旦那様のおかげってわけ。」
久慈さんは今までに見たことのない穏やかな顔で笑ってみせた。誰よりも藤岡家のことを常に考えているのは宗一郎さんに対する恩義からなんだろう。
「あ、そうだ。今鏡を見せてもらってるんですが、久慈さんの鏡も見せていただけませんか。」
「は?そんなものを見てどうするんだ。」
「えっと、ほらこの家の鏡って大事にされてるって言うじゃないですか。だからじっくり見て見たいなって。駄目ですか?」当たり障りのない嘘で、十代の僕が見たいと素直に言えばきっと見せてもらえる。先生のアドバイスは効果的だったようだ。
「別に構わないが…まあ案内は出来ないから好きに入ってください。でも物には触れないように。」
持っていた本を抱え直して去っていった。
「誠二さんの許可が下りましたし、早速向かいましょうか。」
この家の各部屋には鍵はかからないようになっている。これなら許可なく入り放題ではないかと悪魔の声のささやきが聞こえたが、邪心を振り払うように首をぶんぶんと横に頭が取れそうになるほど振った。先生の代理なんだから恥ずかしい真似はしてはいけない!
「大丈夫ですか?」
なにか気でも触れたかと思われただろうか。かほるの目は本気で自分を心配しているように見つめていた。
「だ、大丈夫です!行きましょう!」
耳が熱くなるのを感じた。実際耳たぶを触って確認するとほんのり温かくなっているのがわかり火照りは頬まで移った。
二階にあがると男女の話し声が聞こえてきた。吉野さんと北村さんの声である。
「いつまでもそうやってはぐらかしているなら私ももう知らないよ。」
「そういうわけじゃなないけど…今はまだ。」
「はぐらかしてるじゃない!もう五年よ?五年も付き合って何の進展もないって最悪!私だってもう待てないから。この家だっておしまいだろうし。」
痴話喧嘩だろうか。男女の言い合いに関わっても泥沼になるだけだと昔誰かが言っていた気がする。しかし気になるのはその後の『この家』の件である。かほるさんと一緒だから立ち去った方が良いのかと思ったが話の内容は気になる。
「旦那様がなくなって、奥様はあんな状態で、お嬢様にも期待なんか出来ないわ。そろそろ辞め時だと思ってたし。文也の傍にいるのだって付き合いは長いし結婚だって考えていたのに、未だにそんな風に私を躱そうとするなら、こちらから御免よ!」
言葉を吐き捨てた吉野さんは自分の部屋に入った。怒りをぶつけるように、ばたん!と大きな音を立ててドアが閉まる。残された吉野さんがこちらを向いたかと思えばばつが悪そうに顔を背けた。こちらも聴いてはいけない話を二つも聴いてしまったがために声を掛け辛い。向こうが立ち去らないかなと期待をしたが、吉野さんの足は根付かせているように動かない。お互いに離れるタイミングを逃してしまい空気が重い沈黙が暫し流れる。
「なんですか…」
沈黙に耐えられずに口火を切ったのは吉野さんだった。
「いえ、大丈夫ですか?」
かほるさんは感情のない声で話す。庭でもそうだった。かほるさんは吉野さんを好いてはいないようで、あからさまに冷めた表情を浮かべる。
「大丈夫もなにも覗かれたならわかるでしょう。フラれた惨めな男ですよ。」
自嘲して意地の悪い言い方で吐き捨てる。
「誠実に接すればフラれることもなかったのではないのでは?」
かほるさんは畳みかけるように、傷に塩を塗るような正論をぶつけた。言われっぱなしの吉野さんは牙をむきだした野犬の様にかほるさんを睨みつけた。今にも取っ組み合いになりそうな二人を止めなくてはいけないと思いながらも、威圧感に足がすくんでしまう。
「知佳が言うこともあながち間違っちゃいないでしょ。あなたに俺たちを養う力はないんだから。」
「それならどうして家に残るんですか。それこそ知佳さんの言うようにお辞めになれば良いことです。」
八つ当たりのように言った吉野さんは言い返す言葉がなかったのか、または図星だったのかこぶしを握りしめていた。かほるさんが殴られてしまう。なんとか僕が庇わなくてはいけないと負けじと自分の拳もぎゅっと握り締めた。しかしその手は震えてうまく力が入らなかった。それどころか膝がガタガタ震えてしまいなんとも情けない顔をしていたのだろう。吉野さんは僕の顔を見るなり眉間に皺をよせ一つ大きなため息をついた。
「それで、わざわざ男女の喧嘩を立ち聞きしてまで待ってたということは、俺か知佳に用事があるんでしょう。」
「へ?あ、はい。」
突拍子もなく会話の流れを変えられた上に、話を自分に振られたことに驚き上擦った声で返事をした。一つ咳ばらいをし気を落ち着かせる。
「あの部屋の鏡を見せて欲しいのですが…」
「鏡?鏡って部屋にある姿見のこと?」
「はい。この屋敷色んな鏡があるから、それを…」
「あーいいよいいよ。勝手にしな。」
手をブラブラさせて階段を下りて行った。嫌がられると思っていたので拍子抜けした。
「せっかくですし、先に文也さんのお部屋に行きましょうか。」
「は、はい。」
かほるさんはまたにっこりと柔らかい笑顔を向けてた。吉野さんとなにかあったのだろうか。気にはなるがそこに触れるのは止めておいた方がいいと頭で警鐘が鳴っている。鏡を見て写真だけ撮ったらさっさとひきあげようと決めた。
吉野さんの部屋は思ったよりすっきりと片付けられていた。ただ鏡は手指でこすったような跡があり、それほど大事にされている印象はなかった。対称に久慈さんの部屋は出しっぱなしの癖があるのか本が積まれていたり脱いだ服をベッドにかけていたりと、意外と大雑把な性格が目に見てとれる。しかし鏡は綺麗に拭かれ、細かい飾り枠にも埃ひとつなく丁寧に使われていた。
「後は北村さんの部屋ですね。」
あの口喧嘩を見た後だと、頼み事はしにくいなと思った。ましてや女性の部屋にずかずか入るのも躊躇われる。それでも先生からの頼まれごとをこなしたいという使命感…は大げさにしてもやり遂げたい意思が勝った。
「えっと北村さん、僕です。北条です。」
ノックして声をかけた。いくらか緊張していたのか声が裏返る。返事がくるまでの時間が十秒ほどかかった。相手が誰か確認できるくらいの隙間でドアが開いた。
「何?」
「ごめんなさいお休み中に。お願いがありまして。」
鏡を見せてもらう為の偽りの理由を話すと「別にいいけど」と言って意外にもすんなり中に入れてくれた。
想像していた女性の部屋は、綺麗なレースのカーテンがかけてあるとか、鏡台が置いてあるとか、ベッドの上にはお気に入りの縫いぐるみが置いてあって、少しいい匂いで…とそれなりな夢を抱いていており鼓動が高鳴った。実際の部屋は思ったよりシンプルでベッド、机、小さなテーブル、テレビと言ったように自分の部屋とあまり変わらなかった。
「じろじろ見ないで。鏡でしょ、さっさと見たら。」
「ご、ごめんなさい!」
やましい気持ちがあるわけではないけど北村さんの眼光に思わず謝罪の言葉が出た。いや、そのつもりがあろうがなかろうが、女性の部屋をまじまじと見るのはよくない。よくはない。自分に言い聞かせるようにして鏡に集中する。
「さっきは、その…変なこと言ってごめんなさい。」
喉にひっかかった言葉を絞り出すような声で呟いた。それは僕に対しての怒りではなく、かほるさんへの謝罪の言葉だと気付くのに数秒かかる。
「さっきのは失言でした。」
改めて言い直したのはかほるさんが反応しなかったからだろうか。言われたかほるさんを見ると怒っているというより驚嘆した様子である。
「いえ、言われても仕方のないことですから。父が亡くなってこの家を存続させるのは難しいのは確かです。不安にさせてしまって、こちらこそごめんなさい。」
「お嬢様はこの家を継ぐんでしょう。」
かほるさんは何も言わなかった。ただその目は悲しみに暮れているようで、北村さんもそれに気づいたのか深く追求することはなかった。
「知佳さん。気を悪くしないで欲しいんですが、文也さんとのお付き合いはやめた方がよろしいかと思います。あの人はあなたと添い遂げる気なんて…」
「驚いた。意外とそういうのを見てるんですね。」
「ごめんなさい、差し出がましいことを。北条さんお写真撮れましたか?行きましょう。」かほるさんは矢継ぎ早にそう言って僕を急かした。しかし北村さんが彼女を引き留めた。
「待って。以前から思ってたけど、お嬢様はどうしてそんなに文也を嫌っているんですか?」
かほるさんは初対面の僕たちにも吉野さんへの憎しみを隠そうとはしなかった。日ごろからそうだったのだろう。誰もが知っていたにも関わらず今までそのことに触れてこなかったのだ。
「私も驚きました。知佳さんが意外と私を見ていたんだなって。でももっと早く言ってくれればよかった。」
唇が震えていた。今にも溢れ出しそうな感情を隠すように部屋を出て行った。顔を伏せていたが一瞬見えた彼女の目から悔恨の涙が流れていた。放っておけないと思い追いかけようとすると北村さんが僕に「やめなさい」と首を横に振って止めた。一人にしてあげた方がいいと言わんばかりだった。
突如チャイムが鳴り響く。窓から水木さんが運転する小さな自家用車が走ってくる様子が見えた。かほるさんを追いかけるべきか悩んだが、先生に報告をするために玄関に向かった。
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