第6話
リビングでは眼鏡をかけてテーブルの藤岡家に届いた封書を広げて目を通している。眉間に深い溝を作り、目を細めていた。前のめりで背中が丸まっていたが、こちらに気付くと慌てて背筋を伸ばして会釈した。
「誠二さん、いつもすみません。」
「構いませんよ。こいいう事務仕事は慣れていないけど、あの人に頼まれていることですしね。」
かほるは申し訳なさそうに肩をすくませた。吉野に対する態度との差が歴然である。脅迫状が届いたことで水木以外の者を信用できないと言っていたが、久慈のことはそれに当たらないようである。
「田中さんから引き継いだそうですね。」
「ええ。旦那様の運転手だけでなく、秘書のようなことも担ってた人で、仕事量が半端なく多いんです。」
「恥ずかしながら私は父や田中さんがしてきた仕事などは全然わからなくて。半年前までは田中さんが殆ど取り仕切ってくださっていたんで全てお任せしていました。」
「辞めるときに何故かお鉢が俺に回って来たんですよ。長く勤めているとはいえ、今まで料理しか殆どしてこなかったから正直困ってますよ、こういう事務仕事はあまり得意ではないんでね…」
「本当なら私がやるべきなんでしょうが…」
「徐々に覚えて下さればいいですよ。」
肩の凝りをほぐすために左手で右肩をぐっと抑え込む。お茶を用意していた時の立ち振る舞いとは大違いである。
「しおかぜ園?これって孤児院ですか?」
テーブルをじっと見ていた草介がふと呟いた。
「ああ、旦那様は慈善事業にも力を入れておられたんですよ。」
「父は子供が好きだったんです。この島にしおかぜ園があるんですが、そこの寄付を長年やっているんです。」
「そういえば子供は未来だとよく仰っていたなあ。子供を見ると元気が貰えるからって言って、仕事の合間に孤児院に行っては田中さんによく怒られてましたよ。休憩の度に出向いたら子供たちに『おじさん暇なの?』って呆れられますよって。」
「ふふっ父らしい。」
二人はその様子を色鮮やかに思い出しているのだろう。懐かしそうに目を細めて笑った。
「あの頃は本当に明るい家だったな。」
久慈はため息をついた。今はない風景を見ているのか、目線は庭に向けられている。吉野が言っていたガーデンパーティの様子でも思い出しているのだろうか。今は美しくともだだっ広い庭がやけに侘しく見えた。
突如ぶーっぶーっと鳴り響く。
「ごめんなさい。ちょっと失礼します。」
かほるはスカートに入れていた携帯を取り出した。足早にリビングを出ていく。どうやら電話の様である。かほるがいなくなったタイミングで久慈は口を開いた。
「神子岡さん、俺も聴きたいことがあります。ここに来た目的を聞かせてもらえませんか。遺品を取りに来ただけだとは思えないんですよね。さっきも吉野たちに話を聞いていたでしょう?まさか旦那様の死を疑っているとか。」
まるで神子岡たちを探偵かなにかと言うように問い詰める。その物言いはそれこそ警察か探偵が犯人を追い詰めるようである。戸惑ったが脅迫状の犯人を捜しているとは言えなかった。
「どうしてそう思われるのですか。あなたは藤岡さんの死に疑問を抱いていらっしゃるのですか。」
神子岡は嫌な聞き方をするもんだと思ったが、手段を選ぶほど気を遣うことは出来なかった。
「それは…」
太い眉をぎゅっと寄せて久慈は言い淀んだ。
「疑問なんてありませんよ。あれは間違いなく自殺です。」
「他殺の線はない、と?」
「警察が断定したからっていうのもありますが、もう何年も旦那様は何かを思い悩んでおられた。夜も眠れない日が続いて寝酒の量も増えていましたしね。控えるように申し付けても変わらなかったな。」
「理由は話されてませんか。」
「全く。元々家のものには愚痴をこぼされることなどなかったので。唯一心を許していたのは辞めた田中さんだけですよ。お二人はこの島で共に生まれ育ったこともあって仲が良かった。今になって喧嘩別れしただなんて信じられませんよ。」
「喧嘩別れ?」
「酷いものでしたよ。あの二人は互いに気を許しておられたし、それまでも言い合いはあったけど、大体は田中さんが折れて事を荒立てるようなことはしなかった。あんな風に感情を爆発させた田中さんを見たのは初めてでした。」
「何を言い合っていたのかわかりますか。」
「いえ。あの時俺は一階にいたけど二階にある旦那様の書斎で大きな音がしたので、お嬢様と様子を観に行ったらお二人がいたんです。ただならぬ様子で詳しくは聞けませんでしたが。そういえば、あなた鏡を取りにきたって仰っていましたよね。」
「ええ。」
「もしかしたらここに来たのも意味がないかもしれませんよ。書斎に置いてある旦那様の置き鏡ならその時に割れてしまったから。」
手紙にはそのようなことは書かれていなかった。
「鏡を見せてもらえませんか。」
「お嬢様に確認してください。すみませんが、仕事がありますのでこの辺で。」
テーブルの上に広げられた書類を指さした。この部屋から出て行って欲しいと遠回しに言っているようである。これ以上は話しが聞けないと思い仕方なくリビングを出た。
かほるが戻ってこないので、時間潰しに草介と庭を散策することにし、手入れされた花壇などを見て回った。
「鏡が割れてしまったなんて。それならそうと言って欲しいですよね。」
草介は口を尖らせた。年の割りにしっかりしているとはいえ、こういうところは子供っぽい。
「かほるさんが言わなかったのは気になるな。事前に言ってもよさそうなんだけど。まあ割れていても持って帰るから別に構わないけどね。どちらにしても脅迫状の件が片付かないと私も落ち着かないな。」
「先生は誰が出したか検討つきそうですか?」
「まだわからないよ。」
そうは言ったが神子岡はひとつ気になっていた。かほるが吉野に対する嫌悪感ともいえる態度である。彼を犯人だと思っているのではないかと邪推した。
「僕はかほるさんのお母さんだと思うけどな。遺産を放棄しろだなんて、従業員には関係ないことだし、やっぱり身内じゃないですか。」
「早計だね。本人から話を聴くまでは決めつけてはいけないよ。」
「そりゃあ、そうですけど…」
また口が尖った。私は自分の口を指で挟むように見せると草介ははっとして唇を隠すように引っ込ませた。
「とはいえ、このまま何もせずにいるのはよくないな。」腕組をしてあごに手をやる。何かしら情報を得なくては先に進めない。切り口が欲しいが、私は警察でもなければ探偵でもない。どのようにして犯人を特定すればいいのか正直なにもわからないのである。
頭を悩ませていると、自動車を磨きあげていた水木に久慈が近づいて話しているのをみかけた。
「水木君」
「は、はい!」
「悪いんだがこれをしおかぜ園に持って行ってくれないか。」
「おまかせください!すぐ行っていきます。」
また久慈から疑いのまなざしを向けられてはたまったものではない。彼がその場を離れた隙を見計らって水木に声をかけた。
「水木さん、しおかぜ園に行かれるんですか?良ければご一緒してもよろしいでしょうか。」
渡りに船とはこのことか。今は少しでも情報が欲しいところである。内部に情報がなければ外に行けばいい。それも宗一郎の関係する事柄であれば尚のことである。
「勿論ですよ!」
関係のない人間が行くことを拒まれる可能性も危惧していたが、気持ちの良い返事に神子岡は胸をなでおろした。
「良かった。じゃぁ草介はここで待っててくれるかい。」
「僕も行きたいです。」
「かほるさんを一人にするわけにはいかないだろう。それに君に頼みたいこともあるし。」
「先生が僕に頼みですか。わかりました!」
こちらも清々しい返事だった。
「すみません、お待たせしました。あれ?どこか行かれるんですか?」
かほるに何も言わずに出かけるわけにはいかないが、どこか気持ちが急いており、草介に言伝を頼もうとした。するとタイミングよくかほるは走ってこちらにやってくる。
「孤児院のしおかぜ園に水木さんと一緒に行ってこようと思います。草介に頼み事をしているんですが、かほるさんにもご協力願いたいんです。」
「なんでしょうか。」
「この家の鏡を草介にみせてやってください。従業員の自室に入らせてもらうのにかほるさんの仲介が必要なんです。」
「勿論構いませんが。」
何故鏡を見たいのかわけがわからないと言わんばかりに首を傾げた。しかしそれ以上の追及はなかった。
円の車で孤児院に向かった。想像していた建物は施設というより日本家屋である。表札にしおかぜ園『園長 関内和子』と書かれていた。名前の通り海のにおいをすぐそばで感じられるくらいの距離に海辺がある。繰り返し打ち付ける波音に交じり砂浜で子供たちのはしゃぐ声が響いていた。
「まあまあ。わざわざ届けてくださってありがとう。ささ、どうぞおあがりください。」
眼鏡をかけた園長は綿あめが口の中で解けるような柔らかく甘い声で迎えてくれた。年齢は八十台といったところか。少し腰が曲がっているとはいえ、杖をつくことなく歩いている。
廊下には子供たちの作品と思われる絵や写真が所狭しと貼られている。写真は集合写真が多く、古いものだと二十年前のものもあった。
「園長先生、これ久慈さんから預かりました。」
「まあ久慈さんのクッキー!子供たちも大好きなのよ。喜ぶわ。」
食べた人にはわかる。市販品にはない味だ。これは競ってでも食べたい味のクッキーである。神子岡は動作にこそ表さなかったが、心の中でおおげさに首を縦に振った。
「遅れましたが私は神子岡透と申します。」
「まあまあご丁寧に。しおかぜ園の園長を務めている関内和子です。」
生前藤岡さんにお世話になったこと、とは言っても店に来てくれたことや、手紙のやり取りをしていたことなど当たり障りのない話をすると、園長は「そうですか。そうですか。」と、ニコニコと相槌を打って返事をした。
「本当に誰にでも優しくおおらかな方でしたねぇ。私共も藤岡様には大変お世話になりまして、多額の寄付金のおかげで不自由なく暮らすことが出来ます。本当に長いお付き合いをくださって…」
通された床の間からは海が見える。施設の先生と思われる大人と小学生くらいの子供たちが小さい子から大きい子まで四人が鬼ごっこをしているようだ。息が切れる程の笑い声は夢中になっていることがわかる。
「あの子たちがあんな風に笑えるのも藤岡様のおかげなんです。本当に感謝してもしきれません。それなのにあのような…」
園長は眼鏡をはずして手元のハンカチで目をぬぐった。胸を小さく震わせていた。
「藤岡様はとても子供が好きな方でした。未来につなげる手伝いをしたいと常々仰っておられて、よくこの園にも遊びに来てくださって。今あの子たちがはしゃいでいますでしょう?あそこに交じって遊んでくださっていたんです。日によっては朝から晩まで。とてもパワフルな方でしたから、この海岸でもあのように追いかけっこを長い時間してくださったりもしてたんですよ。本気で遊んでくださるものだから子供たちも懐いていて、友達のようなおじちゃんって感じでしたね。」
「最近も来ていたんですか。」
「いいえ。ここ二年は全くいらっしゃっていませんでした。ご機嫌伺いにお電話を何度かかけたのですが、忙しくなっていると仰っていたので。お金は毎月振り込まれていたのでお礼の手紙を差し上げていましたが、最期までお返事はございませんでした。」
「家に行ったことはありますか。」
「奥様のご容態がよくないと伺っておりましたので、訪問もひかえておりました。今になって思えば無理にでも押しかけてお話を聴けばよかったと後悔しかございません。」
これまで必死に堪えていたが大粒の涙が一筋流れたことで堰がきれたようにぼたぼたと零れだした。水木は立ち上がり園長の隣に座り直して背中をさすった。
「子供たちは藤岡さんを本当に慕っておりました。子供たちがこれだけの笑顔でいられるんです。あの方に支えられていたと言っても過言ではありませんから。」
子供たちをみつめた目は紛れもなくお母さんの眼差しだった。
帰り際に廊下の写真をじっくり見せてもらった。園長は子供たちの数だけそれぞれの生活環境が異なっており、孤児院にいる子は少なからず複雑な事情を抱えている。加えて大人の想像以上に幼い頃から背負った苦しみがあると話す。そして宗一郎には一時的でもそれを解きほぐす力があったと言った。これらの写真はそれを証明している。子供たちの明るい笑顔とともに宗一郎の笑顔が輝いていた。そういえば出逢ったころもこんな笑顔だったことを神子岡は思い出していた。
「あ、この人かほるさんですよね。」
水木が指さした先には今のかほるより幼い顔であるが面影がある。園長は写真を凝視して確認した。
「え、ええ。これはお嬢様が高校生くらいの頃でしょうかね…藤岡様と何度か遊びにいらしてたんです。」
「可愛いですねえ。今は大人っぽい感じだけど、この写真はあどけなさがあるというか、旦那様も嬉しそう。」
「とても仲の良い親子でしたよ。」
園長は目を細めて笑ったが声が震えていた。
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