第5話
洋館の入口には大きな格子状の門があり、ぐるっと敷地を囲むように塀がそびえたっている。この高さでは中の様子は門から以外はみえないだろう。水木は車から一度降りてインターホンを鳴らす。すると自動で門がギギギと音を立てて開いた。すぐさま車に乗り込み発進させる。その一連の様子を見て草介は感嘆のため息をつく。
「今この瞬間で凄いお屋敷に来たって感じがしました。」
草介は車酔いを忘れてしまったかのようにはしゃいでいた。
「私も藤岡家に来るまで自動で開く門なんてドラマや映画の世界だと思ってました。実は今でもまだ興奮しています。」
門をくぐると緩やかなカーブを描きながら進んでいく。車窓からは手入れの行き届いた西洋風の広い庭に一人の男性が脚立に上って剪定している姿、そして屋敷の門の前に一人の女性が立っているのが見えた。風が吹くたびに丈の長いスカートの裾がひらひらと揺れる。髪の毛を綺麗にまとめあげた上品な女性は頭をさげ出迎えてくれた。
「遠いところようこそお越しくださいました。」
物腰の柔らかい女性はにこりとほほ笑んだ。そこはかとなく憂いを帯びた雰囲気を醸し出している。
「藤岡かほると申します。神子岡様、北条様、この度は本当にありがとうございます。」
車を出迎えた時と同じように深々と頭をさげた。
「この度はご愁傷さまです。藤岡さんには生前お世話になったのに、知らなかったとはいえご挨拶が遅れて申し訳ございません。」
「こちらこそご連絡までにお日にちを頂戴いたしました。生前父から神子岡様に鏡をお渡しするよう申し使っておりましたのでご連絡が出来てようございました。本来ならお送りしなければならないのに、ご足労くださり申し訳ございません。」
「とんでもない。お一人で悩まれて不安でしたでしょうに。」
かほるは変らずほほ笑んでいたが、臍の下で右手をかぶせるように置いていた左手をきゅっと握り締めている。
「お嬢様、私は車を車庫に入れてきます。」
「ええ、円さんありがとう。」
「いえいえ!では神子岡さん、草介くん、ごゆっくり!」
水木は車に乗り込み走っていった。あっという間に車は見えなくなった。
「もう円さんったら。ご無礼を働いてませんか。まだ半年とはいえ、お客様へのふるまいがどうにも大雑把で…」
「いえ、我々も緊張していましたので彼女の明るさに和みますよ。」
かほるはふふっと声を出して笑った。白い肌に血色が帯びる。かほるにとっても水木の朗らかさは救いになっているようだった。
「こんなところで立ち話もなんですから、どうぞおあがりください。」
藤岡の洋館には亡き藤岡宗一郎を除くと妻の陽子、一人娘のかほるが住んでいる。他に料理人の久慈誠二、庭師の吉野文也、ハウスキーパーの北村知佳、そして運転士の水木円が住み込みで働いている。
大理石が敷かれた玄関に足を踏み入れるとコツコツと靴音が響く。天井は吹き抜けになっており正面に幅の広い階段がある。水木が言っていた言葉通り、フィクションの世界が目の前にある不思議さを神子岡は感じていた。
玄関入ってすぐ右手の壁には全身どころか大人が三人並んでも全員が映りこむような大きな鏡に目を奪われた。草介はそれをじっと眺めていた。
「こんな大きな鏡を初めて見ました。なんだか吸い込まれそう。」
「元々この屋敷は島民が本州へ出稼ぎに行く職業訓練にも使われていたんです。身だしなみや立ち姿をいつでも確認できるように屋敷中に鏡があるんですよ。父も常々身だしなみをきちんと整えるように口酸っぱくして言っていました。」
「そっか。確かに通りすがりに鏡があったら、つい確認しますよね。でもなんか落ち着かないな。」
「そうでしょう。私は生まれた時からあるから慣れてはいるけど、それでも落ち着かないんです。特に夜中トイレに起きると暗がりの廊下でみる鏡が不気味なんです。」
「想像するだけでちょっと怖いです。」
二人で笑いあった。かほるの笑う顔をみて草介を連れてきて正解だと安堵した。
「こちらです。」
通されたダイニングも豪華である。天井からは揺れるたびにキラキラ煌めくシャンデリア、映像や写真でしか見たことがないような長テーブルに椅子が十脚並んでいる。唯一の違和感はやはり壁かけられた姿見である。ピカピカに磨かれた鏡は美しいが、座る場所によれば自身の食べる姿が見えてしまうのは落ち着かないだろう。座るように促されたがどこに座るか悩みながら鏡を背にした末席に並んで座った。
「お茶を淹れてきますね。」
「どうぞお構いなく。」
かほるがダイニングから出ようとすると肩幅が広くがたいのいい男とぶつかりそうになった。いかにもスポーツ系の風貌で爽やかな中年男性だ。
「おっと!失礼しました。あれ?お客様ですか?」
神子岡は座ったばかりの椅子から立ち上がり挨拶をする。草介も慌てて立ち上がりお辞儀をした。
「お父様のお知り合いの方です。誠二さんお茶のご用意をお願いできますか。」
「承知しました。」
軽く頭をさげ踵を返す。背筋に板が入っているかのようにまっすぐな立ち姿が美しい。
「彼はここの給仕を担ってくださってる久慈誠二さんです。父も彼の腕前をとても気に入っていて、先代の料理人だった彼のお母様が亡くなった後、ずっと料理を作ってくださっているんです。」
「それではこの家に長くつとめていらっしゃるんですね。」
「ええ。私は彼の料理で育ったと言っても過言ではありません。外で食べるごはんよりもずっと美味しいんですよ。」
「お待たせしました。」
久慈は紅茶とクッキーを用意した。とても香ばしい匂いがしそれが焼きたてだとわかる。甘いものが好きな草介は目を輝かせて「いただきます」と手を合わせてクッキーに手を伸ばす。サクサクと軽快な音が美味しさを際立たせた。
「美味しい!焼きたてですか?」
「丁度さっき焼けたところだったんです。神子岡さんも良かったらどうぞ。お嬢様もお好きでしょう。召し上がってください。」
「ありがとうございます。」
流石にクッキーとなると手袋のままでというわけにはいかない。手袋を外しクッキーに手を伸ばした。触れると水彩画のような柔らかい色合いの文字が浮かび上がり感情が流れてくる。
『愛情』『心配』『懐古』
サクサクと軽快な食感、まだほんのり温かくて、焼きたての香ばしさと甘さが口いっぱい広がる。売っているものよりも甘さが控えめでいくらでも食べられる気がする。
「とても美味しいですね。なんだか懐かしい味がします。」
「母のレシピなんです。得意なお菓子だったんですよ。あ、母はここで料理人として働いてて俺は跡をついだんです。お嬢様は小さい頃から小食でしたが、このクッキーはたくさん召し上がられて、もっと欲しいとせがまれることもあったんですよ。」
「もう!誠二さん!」
第三者が聞くと微笑ましい話も、年頃の女性にとって幼少期の話は恥ずかしいのか、かほるは久慈の筋肉質の腕を押すようにして叩いた。当然びくともしない。
「はは、すみません。それにしてもお嬢様がお客様を連れてくるなんて珍しいですね。」
「お父さまのお知り合いの方だそうで、生前遺品をお渡しするお約束をしていたと聞いていたものですから、お呼びしました。」
「遺品?」
「鏡です。とても美しい彫刻が施された鏡を譲り受ける約束をしていたんです。」
「ああ、あの鏡。」
屋敷中の数多の鏡からすぐにあたりがついたのか久慈は納得したようだった。しかしわずかに首が傾いた。どうやらその鏡に価値を見いだせないようである。
「ところで奥様の陽子さんはお元気でいらっしゃいますか?よろしければご挨拶をしたいんですが。」
かほると久慈が顔を見合わせた。二人が困惑しているのは一目瞭然だった。言いづらそうに久慈が口を開く。
「奥様はお逢いになりませんよ。」
「お加減が悪いのですか?」
「そのように受け取っていただけるとありがたいですね。では私はこれで、どうぞごゆっくり。」
久慈は眉間に皺をよせて苦笑いして言った。それ以上は何も話したくないようで足早にダイニングから出て行った。
「どうかされたんですか。」
「母は長らく、それはもう十年以上閉じこもっていまして…その…精神を病んでいて…すみません、ご挨拶もせずに…」
宗一郎から見せてもらった写真では良いところのお嬢様を体現したように、良い服を着て髪も軽く巻いて、にっこりと笑えばこちらも釣られて笑顔になるような愛嬌のある可愛らしい女性であった。あの頃から宗一郎は陽子を随分心配していた。同じ病気なのかは定かではないが、今でも臥せっていると聞いて驚いた。
「食事も受け渡しはドアの前ですし、殆ど人には会いません。私自身何年も顔すら見ておりません。」
「従業員の方々もですか。」
「知佳さんなら顔を合わせているかもしれません。屋敷のお掃除を担ってくださってるのですが母の部屋も漏れなくお願いしております。」
「では、陽子さんに脅迫状をあなたに届けるのは難しいでしょうか。」
「恐らく。母が知佳さんに頼むとも思えませんし。これは自室のドアの隙間に挟んでありました。」
そう言って四つ折りに畳まれた紙を差し出した。一瞬手にするのを躊躇った。脅迫状などどのような感情が込められているか、良い感情ではないことは確かである。手袋を嵌め直してから受け取り内容を確認した。草介も何度も手を伸ばし咀嚼していたクッキーを飲み込んでから覗き込んだ。
内容は至ってシンプルであり、『遺産を相続するな』とパソコンで書かれているのみであった。裏返してみるが他に何も書かれていない。
「相続できるのは、陽子さんとかほるさんだけですか。ご親戚とかいらっしゃらないのでしょうか。」
「私たちだけだと聞いております。」
「宗一郎さんの遺書に相続の件は書かれていましたか?」
「自死した傍にはありましたが、遺産のことなどは書かれていません。自分の弱さを嘆いたことが書かれていただけです。解剖もされましたがその遺書もあって警察は自殺と断定したみたいです。」
突発的な自殺だったのだろうか。神子岡はあごに当てた指をとんとんと叩いた。そのリズムに合わせたかのように三度ドアをノックする音が聞こえた。
「失礼します。お嬢様…っと、失礼しました。来客中とは知らず。」
ピンクのチェック柄のエプロンをかけた女性が軽く頭を下げる。ウェーブのかかった茶色い短髪がふわふわと揺れる。
「知佳さん、丁度良かった。」
立ち去ろうとする彼女を引き留めた。「はい?」と返事をして立ち止まった。
「こちら父のお知り合いで神子岡さん、北条さんです。」
「はぁ。あ、えっと私北村知佳って言います。」
間延びした声で言い、目線を合わせたままもう一度頭をさげる。
「少しお話おきかせいただけませんか。」
「な、なんですか?」
北村は警戒したのか一瞬たじろいだ。
「北村さんは屋敷の掃除を任されていると聞きましたが、陽子さんのお部屋もされるんですよね。」
「ええ、まぁ。」
「お話などされますか?」
「いいえ全く。奥様の部屋の掃除は時間が夜と決まっておりますが、奥様はその間、お風呂に入られています。少し姿を見るくらいですが話はしません。」
「因みに北村さんは何年位ここで働かれているんですか。」
「えーっと。もう十年くらい?かな。」
何年からここに来て…と指を折りながら年数を数え答えた。
「陽子さんと話したことはありますか。」
「一度もありませんよ。ちょっと声をかけるくらいはあっても会話なんてしたことないかな。私がここに来た頃には引きこもって…っとごめんなさい。」
言葉を選ばなかったことを気にしてか口に手を当てる。目線を宙にやり、他に言葉を探す素振りをするが思いつかなかったのか、そのまま黙り込んだ。
「あ!文也なら理由を知ってるかもしれないわ。」
「文也さん?」
「文也は長いことここに勤めていますよね。そうですよね、お嬢様。」
吉野文也はかほるが生まれる前から庭師見習いとして住み込みで働いているという。若い頃に先代の庭師の目に留まり、藤岡家に招かれた彼は非常に期待されていた。それに応えるが如くぐんぐん腕を伸ばし、先代が亡くなってからは藤岡家の庭の手入れを一人で担っている。屋敷についた時確かに洗礼された美しい庭に目を奪われた。
「案内をお願いできますか?」
「文也ならまだ庭にいるんじゃないかな。ほらあそこ。」
窓から指さした方向に脚立にまたがり庭木の剪定をしている男が見えた。車で見た時と同じ格好のまま剪定鋏で枝葉を落としている。
「ありがとう知佳さん。早速行ってみましょうか。」
「いえ、では私はこれで。」
北村は軽く頭をさげそそくさと退場する。後姿を見るとエプロンの結び目が縦になっていた。どうやら家中の鏡は彼女の役には立っていないらしい。
ダイニングに隣接しているリビングを通り庭に出る。土足で家に入るのは初めこそ躊躇われたが広い屋敷もいちいち玄関を通らずに動けるのは楽で良い。
「文也さん、今お時間よろしいですか。」
かほるが声をかけると吉野がこちらを向いた。瞬間ピリッと空気が張り詰める。しかしすぐに微笑み会釈した。気のせいだったかと神子岡は思ったが、一瞬の空気に気圧された草介が神子岡の後ろに隠れるように縮こまっている。
「神子岡さん、こちらが庭の手入れをしてくださっている吉野文也さんです。」
宗一郎の知り合いだとお辞儀をすると、吉野も帽子を脱いで「これはご丁寧に」と頭を下げた。
「文也さん、母のことを神子岡さんに話して下さりませんか。」
「え、奥様のこと?」
ぎょっとしたと思うとすぐに目線をそらした。
「ええ、十年ほど前にお部屋にこもられたと聞きまして、その原因を長くお勤めになられているあなたならご存知かと思いまして。」
「ええ…?俺にもわからないですよ。」
「こちらに来られた頃はお元気だったんでしょう?その頃のお話でも結構ですので。」
吉野は不審げに神子岡をまじまじと見た、かほるはすかさず「お話しください」と言うと、頭をかいてから話し始めた。
「俺がこの家に来た頃は凄く社交的だったと思うけどな。旦那様とよくお出かけにもなられてたし、ガーデンパーティなんかも開かれて、この庭も賑やかだったなあ。その頃は天真爛漫というか愛嬌があって誰からも好かれるような方だったと思うけど。いつの間にか元気を無くされてたなあ。」
そこまで言うと罰が悪そうに眉間に皺を寄せて顔をそむけた。逆にかほるはずっと吉野の顔をじっと眺めていた。眺めるというより睨みんでいると言ってもいいくらいである。それに気づいた吉野は、かほるの目線から逃れるように体も背けた。そして離れの方を指差した。
「今でもあの離れを出られることはないけど、せめて庭を見てあの頃を思い出してくださればと思って、こうして庭の手入れをするのが俺の精一杯出来ることです。」
すみませんがこれで、と改まって頭を下げて逃げるように脚立を抱えて行った。
「へぇ…ちょっと怖い人かと思ったけど文也さんって立派な方ですね。陽子さんのために庭を整えるなんて優しい人なのかな。」少し安堵した様子で言ったが、再び身を縮んでしまった。今まで憂いがあれど優し気に話していたかほるは白眼視して、去っていく吉野の後姿を見ていたからである。
「本当にそれだけならいいんですが。」
かほるは彼に良い感情を抱いていないのを隠すことなく言い捨てるように呟いた。
「すみません、一度リビングに戻りましょうか。風が冷たいですし。」
日差しは暖かく風がふいてもそよ風だったが、かほるの言葉に共鳴するかののように風がびゅーっと駆け抜けた。
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