第2話

 ごうんごうんと鳴くクーラーの音に交じって、店の外からは必死に生きもがき苦しむようなセミの泣き声が耳に触る。目を開けるとべっとりと血が付いたタオルが転がっているのを見えた。一瞬ぎょっとしたが、それが自分の鼻から出た血液だと判断できたのは、鼻の奥がひりひりと痛んだからである。

「気付いたか。また卒倒したんだよ。」

店からひょっこり顔を覗かせたゲンが苦笑いで話しかけた。

「すまない。店はどうだ。」

「閑古鳥だ。気兼ねなく休んでくれたまえ。」

 店長が留守にしている間は自分が店長代理だと豪語していた。わざとらしく偉そうに言うゲンに思わず吹き出しそうになる。

神子岡とゲンが二十三歳の頃だ。草介の母親の店にゲンの喫茶店を併設することが決まって、店をリフォームしたのは良いものの客足が定まらず、なんとか赤字を出すか出さないかをギリギリで経営しているころだった。その頃神子岡は仕事が見つからず、食事と寝床を条件に骨董品の選別の手伝いをしていた。選別と言っても骨董品の価値は何一つわからない。駆り出されているわけは数年前に覚醒した『能力』を利用するためである。

店長によって集められた骨董品は数多の人の手を渡ってここにやってくる。大事にされているもの、ぞんざいに扱われたもの、曰くつきのもの、それらを神子岡の能力を使って判別し店に出すものと出さないものを分けていた。

その能力というのは物に触れると、持ち主の感情が文字となって見えるのである。見え方は様々で、墨文字が煙のように浮かんでは消えたり、パソコンの打ち文字のように目の前で変換されたり、時には立体的に浮かび上がった文字が風船のように膨れ上がってはじけたりする。大体は当たり障りのない感情であるが、持ち主の想いが強すぎるものは店に出さないと店長が決めていた。

それが今日の骨董品の中に、鼻血を出して気を失うほどの『憎しみ』がこもったものが紛れていたのである。

「壊れなかったか。」

「おう。目の前ですぐにキャッチしてみせた。」

卒倒する神子岡の体よりも骨董品を優先したわけだ。道理で後頭部が痛い。店長が仕入れた骨董品が無事であることを喜ぶべきなのか。丈夫な石頭だとは言え複雑な気持ちである。

「今何時だ?」

 後頭部をさすりながら訊ねた。ゲンはエプロンのポケットから折り畳み式の携帯電話を取り出した。

「二時を過ぎたところだな。」

 十一時には店を開けたので三時間は客がいなかったということである。ランチの時間は過ぎてしまった。コーヒーを飲みに来る客に期待するしかない。

「なんか食べられそうなら作るぞ。」

カウンター下に設置してある冷蔵庫をあけてごそごそと探った。鼻の奥に残った粘り気のある血の塊が気持ち悪くて、食事をする気にはなれない。カウンターに置いてあるティッシュを数枚とり思い切り鼻をかんだ。

「今はいい。美味しいコーヒーが飲みたい。」

「貴重なコーヒー豆だぞ。インスタントで我慢しろ。」

美味しいコーヒーとは言ったが、飲めれば良いという神子岡にコーヒーの良し悪しは判らない。そんな相手に出すコーヒーはないとゲンは突っぱねた。

そうやってくだらないやり取りを過ごしている間にまた一時間経つ。もう誰も来ないかと諦めた時、カランカランとベルを鳴らしてドアが開いた。

「ここやってる?」

ベルの音は神の啓示か、肩幅の広い大柄な男性に後光がさしているようにすら見えた。

「はい!やってます!」

「良かった。おい!紘市!営業してるって!」

大柄な体型に負けない大きな声に呼ばれ、すらっとした細身の男性がやってきた。

「ようございました。ではお邪魔しましょう。」

「どうぞどうぞ、宜しければカウンターにおかけください。」

 ゲンはカウンターの中から、指を揃えた掌を上に向けて自身の向かい側の席を指し示した。二人は並んで座った。その間に神子岡がカウンターの中に入って手を念入りに洗い、慣れない手つきでもたもたとピッチャーを用意する。プラスチックのコップに氷を二、三個入れて水を注いだ。カウンターから出ておぼんを持つとコップやピッチャーの水面が波打つ。必死に零すまいとゆっくりと歩いた。後ろから失礼しますと声をかけて水をテーブルに置く。大柄の男はすぐさまそのコップを手に取って喉に流し込んだ。

「はー生き返るなぁ。」

タンっと軽快な音を立ててプラスチックのコップを置いた。神子岡はおかわりの水をもう一度注ぐ。今度は少しだけ口をつけてからテーブルに戻した。

「今日も暑いですね。」

注文されたオムライスを作りながらゲンは当たり障りない会話を投げかける。

「いや全く!車を駅近くの駐車場に置いてから食事できるところを探していたんだが、この近くは食べるところがなくて困っていたんだ。腹は鳴るし、喉はカラカラで、どうしたもんかとさ迷っていたらこの店が見えて、地獄に仏とはこのことだよ。」

ハハハと大きな声で笑った。大げさな表現をするもんだと思ったが、ラジオでも真夏日だと報道しているのを聞いていたので言わんとしてることがわからなくもない。

「外から見ると中が暗いから営業しているか判らなかったが入ってみて良かったよ。」

営業の札はかけてある。特別見にくいとは思わないが、彼らが言うには店の佇まいは昭和の薄暗い喫茶店を彷彿させており、店の中の明かりが外にはあまり漏れないせいか開いているようには見えなかったようだ。

「しかしいい店だねえ。これらは売り物かい?」

カウンターの椅子をくるりまわし、体を反対側に向ける。カウンターの向かい側には西洋問わず、選別した骨董品をいくつか並べて売っているのだ。

「良かったら手に取ってご覧ください。」

「では見せてもらおう。」

椅子から降りて、じっくり見ている。手にとっては標章などを確認しているのか、商品をくるくると回しながら、うんうんと頷いている。

「骨董品にお詳しいんですか?」

「いや、趣味程度だよ。しかしここに置いてあるものはなかなか良いものが揃っているな。ここの品は君たちが取り扱っているのかい?」

「店長が管理しているんです。私はただの手伝いで、ゲン…彼が勉強中ってところです。」

「そうか。こちらの店長はかなりの目利きだな。相場にあった値段で提供しているし、普段使いにできるようなものが多いのも俺は好きだな。」

 確かに店長は使える骨董品として店を開いている。物は使った方が良いと言うのが店長の信条で、神子岡たちもよく聞かされていた。だから特別高級なものは表に出していない。

「なるほど物は使った方が良い、か。」

「飾って楽しむのもいいけど、店長は使ってこそ骨董品は喜ぶ、なんて言ってますよ。」

「俺も同じ意見だな。人の手を渡りながら大事に使われていたものは実に素晴らしい。そうだ。俺の鏡も死後ここに並べてもらおうか!」

「え!?」

死後という言葉になんと返事をすればいいのか悩んだ。軽口で「死ぬ話なんてまだまだ早いですよ」とも言えず口をもごもごとさせた。

「俺が使っている卓上の鏡だが、とても気に入っていてね。輸入品でそれなりの価値があるんだが、邸には鏡は余るほどあるから、きっと捨てられるか売られてしまうだろうし。それならばこの店になら是非置いてもらいたい。」

「ですが大切な鏡ならご家族様が手放さないでしょう?ましてや価値があるなら猶更…」

「いやいや、妻もそういったことには興味を示さないし、遺すものは他にもあるから良いんだ。何より俺には鏡より大事なものもあるしな!」

そう言ってすかさず懐から取り出したのは一枚の家族写真である。

「どうだ、可愛いだろう。一人娘のかほるだ。」

大柄の男性に寄り添うように奥さんと、愛娘のかほる、そして脇に隣に座る細身の男性が写っていた。確かに奥さんは綺麗だし娘さんは可愛い。

「あなたもご家族なんですか。」

「いや。紘市は唯一無二の親友だが、ずっと我が家に遣えてくれている家族のようなものなんだ。」

「旦那様、自慢したいのはわかりますが、困っていらっしゃるでしょう。」

飾り気のない言葉に照れたのか紘市の耳は少し赤くなっている。

「そうか!ついつい見せたくなるんだよ。すまんすまん。」

写真をしまおうと手を伸ばした瞬間、クーラーの風が写真に直撃したのかふわっと舞い上がった。空中に舞う写真を思わず手にしてしまう。

「神子岡!?」

ゲンが手を伸ばして制止するのも間に合わなかった。後悔した時には遅く、写真から文字が浮き上がったのが見えた。

『心配』『苦悩』

子供を持つ親は尽きない心配を抱えているだろうが、『心配』の文字は子供ではなく奥さんの姿側に偏っていた。

「ああ、すまないね。」

「奥さんのこと随分ご心配されているんですね。」

思わず口に出していたことに気付いたのは、目の前で驚愕した二人がこちらを見ていたからだ。

(しまった!)

慌てて口を抑えるがもう遅い。

「どうしてわかったんだい…」

「それは、その…」

自分でも目が泳いでいるのがわかるくらい動揺していた。まさか物体に触ったら感情が文字として見える、なんて誰が信じてくれるんだ!

「失礼ですがお名前は?」

紘市と呼ばれた男性が立ち上がり大柄の男性の前に立ち塞がるように神子岡の傍に来た。

「神子岡、透…です。」

「神子岡…?神子岡…」

何かを考えるように呟いた。思い当たる人間がいないと言うように大柄の男性にかぶりを振ってみせた。

「君はどこの企業のものだ。」

大柄の男性の眼光に体が委縮する。さっきまでの朗らかな雰囲気が嘘のように冷え切った。それは決してクーラーが効きすぎたせいではない。

「へ?企業?」

「正直に言いなさい。」

「すみません、何の話ですか!?」

「お客さん、こいつは無職ですよ。」

ゲンが口を挟んだことで大柄の男性は睨みつけるのをやめ、またハハハと大きな声で笑った。刺されるような鋭い眼光を逃れたのはありがたかったが、無職という言葉が心にナイフを突きさされたかのような痛みを覚える。

「神子岡君、悪かったね。君を産業スパイかと思ったが、どうにもそんな風には見えないからカマをかけさせてもらったんだ。」

「産業スパイ?」

「こう見えても会社をいくつか経営している身でね、敵もそこそこ多いんだ。プライベートのことは公にしていないから驚いたよ。確かに妻は病に伏しているんだ。このことを知っているのは家族と住み込みで邸を管理している従業員だけなんだ。彼らには他言しないように金銭で重々言い含めているから外に漏れるはずがないんだ。」

もし従業員が漏らしたとなれば即クビにすると付け足して言った表情は、先ほどの形相と同じで思わず震えあがる。

「まあ、さっきも言ったが本気でスパイだとは思ってないよ。本物ならもっとうまくやる。しかし気になるな。何故写真を見ただけで私が妻を心配しているとわかったんだ?確かに妻は病に伏していて心配がつきることはないんだ。」

神子岡は正直に話すか悩んだ。ここで弁明しないと興信所を使ってでもプライベートを暴かれそうな気がした。しかし恐らく話しても信じてはもらえないだろう。妙な人間だと思われるに違いない。何か嘘でもいいから誤魔化せないかと必死で頭をフル回転させたが、何も思いつかず結局素直に話すしかなかった。

「そうか、それは大変だったな。」

「信じてくれるんですか?」

「君はそんな事情を抱えているにも拘わらず、俺の写真を地面につく前に拾ってくれた。それは俺が一番大事だと言ったから、そうしてくれたんだろう。本当にありがとう。」

男性は深々と頭を さげた。

「しかし我々には想像もつかない大変な思いをしているんだね。なにか力になれることがあれば良いんだが。そうだ。」

懐から名刺を取り出しテーブルに置いた。人生で初めて名刺を受け取った。そこには代表取締役と書かれており、なんだかずっしりとした重みを感じた。

「藤岡宗一郎さん…」

「もしなにかあれば連絡をくれ。あとさっきの話だが、私の死後に必ず鏡を譲ると約束しよう。紘市、君の名刺も渡しなさい。」

「かしこまりました。よろしければそちらの連絡先もお教え願いますでしょうか。」

「この店の連絡先でよろしければ。」

ゲンはレジカウンターの傍に置いてある、宣伝用に作った名刺サイズの薄い紙に神子岡とゲンのフルネームを書いて手渡した。

「これはご丁寧に。神子岡君と瀬田川君だね。君の力になれればいいのだが、どうすればいいか検討もつかないことが申し訳ない。もし出来ることがあるならば是非なんでも言ってくれ。」

 特殊能力など信じてもらえなくても当然だと思っていた。それどころか力になりたいと言ってもらえるとは思わなかった。店長とゲン以外の他人に受け入れられた、そう思えるだけであの時の神子岡は幸福であった。

それ以来何度か手紙や年賀状のやり取りが続いていたが、数年前に連絡が途切れてしまう。神子岡は変らず年賀状だけは送り続けたが返事はなかった。

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