鏡の館~神子岡透への依頼~

桝克人

第1話

 風で揺れるカーテンの隙間から、強烈な西日を取り込んでは隠しを繰り返して瞼を刺す。また家路につく子供たちの甲高い笑い声は尖った神経を刺激し眠りを妨げた。重い体を起こし、腕を宙に向かって伸ばすと背筋が悲鳴をあげる。力を抜くと伸びた背筋はあっという間に猫の背中へと戻った。

明け方まで締め切りに追われていた。締め切り前になるといつも後悔している。筆の進みが遅いことを自覚していても、まだ明日がある、まだ大丈夫、余裕だ、なんとかなる。そうやって言い訳した日々を積み重ねた。残酷にもすべての生き物に同じ時間しか与えられておらず、どんなに願っても時は戻らないし増えることもない。約束の日が目前になって漸く己の怠け具合と嫌でも向き合わせざるを得なくなった。締め切りに間に合わないのではないかという不安と恐怖心は一層追い込み必死になってパソコンに噛り付く。泣き言を誰もいない部屋で零しながらも、なんとか〆まで書ききった。緊張感から解放された時には後悔はすでに頭から消え失せていた。ベッドに転がり年中出しっぱなしの羽毛布団にくるまれると、張り詰めた神経がぷつんと音をたてた。そして西日に起こされるまで眠りこけていたのである。

「徹夜がきつい。」

声が枯れていた。そういえば朝から何も食べていない。夜中には眠気覚ましと称してコーヒーを口にしただけだった。そのせいか胃が重苦しい。パソコン机のペットボトルに手を伸ばす。数滴しか残っていない空のペットボトルに指先が触れると、コトンと音を立てて床落ち跳ねた。キッチンに行かないとお茶も水も口に出来ない。たったそれだけのことが、非常に億劫で再びベッドに転がった。もういいや、このまま寝てしまおう。

 ガチャリ

玄関のカギを開ける音が夢への道を遮った。音をたてないように気を付けて開けた様子がうかがえる。しかしその気遣いも空しく、閉じかけた瞼は大きく開き瞳は天井を映した。体が重いことには変わりなかったが、なんとか起こす力を振り絞った。

「こんにちはぁ…」小声で声をかける青年、草介は玄関と同じように極力音をたてないように恐る恐るリビングのドアを開けた。

「いらっしゃい。」

仕事部屋兼睡眠をむさぼる部屋からリビングに移動した。

「起こしてしちゃいました?ごめんなさい。」

欠伸しながら後頭部を掻いている姿を見て、眉を八の字を描き申し訳なさそうに謝った。

「横になっていただけだから大丈夫だよ。」

気にすることはないと言うつもりだったが、草介は神子岡のクマを見るなり、自身の目の下を指差し苦笑いした。

「先生、朝から何も食べていないんでしょう。ごはんを持って来たんで眠る前におなかに入れてください。」

草介は神子岡を先生と呼ぶ。初めて投稿した作品が雑誌に載った時に「先生と呼んでみるかい?」とふざけて言うと、当時まだ十歳に満たない草介は真に受けてしまい、今日までずっと先生と呼ぶ。自分で蒔いた種とはいえ気恥ずかしかったが、今ではすっかりあだ名のように定着した。

手に持っていた紙袋をキッチンに置いて、タッパーを数個取り出す。食器棚から茶碗や料理に見合った小鉢を取り出し手際よく盛り付ける。それで終わらず味噌汁も水筒に入れて持ってきていた。お椀に注ぐと香ばしい匂いが立ち込めた。あんなに重かった体もその匂いに刺激され食卓へと誘われた。

 ランチョンマットの上に並べられた食事に思わず目を細めた。鶏むね肉の霙煮、ほうれん草と人参の胡麻和え、根菜の味噌汁、そして白いご飯。胃に優しそうな食事を前に、手をあわせ「いただきます」と呟いたらすぐさま味噌汁に手を付ける。夜中に飲んだコーヒーで疲れた胃が喜んでいる気がした。

「ありがたいな。」

「ゲンさんにそう伝えておきますよ。」

「そんなこと言わなくていいよ。」

思わず口にした感謝の言葉をゲンに伝えられるのは、どうにも気恥ずかしい。

草介の母親が店長を務める小さな骨董品を売る店でゲンは働いている。元々は古物を売っるだけの店であったが、ゲンは料理好きを活かすために喫茶店を併設していた。

ゲンは神子岡の高校時代の同級生であり付き合いが長い。なにかと神子岡の不摂生、そして「特殊な事情」を気にかけており、草介を介して締め切り近くになると食事を提供してくれる。必要ないと何度も断りを入れるが、面倒見の良いゲンは「おまえに倒れられたら困る」と言い二十年近くも続けていた。少なくとも今の神子岡には栄養バランスが整った食事は何よりもご馳走である。

並べられた小鉢に次々と箸をつけ、あっという間に空になった。箸をおくタイミングを見計らったかのように温かいお茶を出した。まだ十六歳だというのに目端が利く草介に感嘆した。

「そうだ。これうちの店にゲンさんと先生宛に届いていたんですが。封をしてあるところに少し変わったものが…これなんでしょうか?」

「ゲンと連名で?差出人を見せて。」

草介は一通の封筒を差し出した。種類はわからないが花の模様が浮き出ている白い封筒の裏には仰々しくも焦げ茶色の封蝋が施してある。年若い草介には見慣れないものだった。神子岡はそうではなかったが珍しいことには違いない。しかし驚いたのは封蝋ではなく差出人の名前である。

「藤岡かほる?」

「どなたですか?」

差出人の名前との面識はない。写真を見たことはあるが、それも随分前のことで当時の年齢は七つか八つだったと記憶している。今なら二十歳はこえているだろうが、手紙を貰う理由は特にない。

「ゲンはなにか言っていたかい?」

「それが開けた時に怪訝な顔をしていました。ゲンさんから忙しいから先生に頼むようにと言われたので持って来たんです。あと素手で手紙は触らない方がいいとも言っていましたよ。」

「厄介ごとかな…」

ゲンが注意したこともあったが、手ずから触れるのを躊躇い草介にテーブルに手紙を広げるように頼んだ。中には封筒と同じ柄の手紙が数枚入っていた。美しく丁寧な文字で認められた手紙である。しかしその美しさとは裏腹に内容はひどく重苦しいものであった。ひとつため息をついて、草介から投げられた先の質問に答える。

「藤岡さんは十年以上前に、草介のお義母さんの店に来た客で…旧友だ。その娘さんからの手紙だよ。父親が亡くなったと書かれているんだ。」

「お葬式の案内ですか?」

「いや、葬儀は済んでいるそうだ。生前に形見分けの約束をしていたから、それを取りに来てほしいと書かれているんだが…」

眉をひそめて言いよどむ神子岡に草介は首をかしげる。またひとつ息を吐いて続きを紡ぐ。

「その娘さんが脅迫状を受け取ってしまったから犯人を突き止めて欲しいと言うんだよ。」

「脅迫状!?そんな…」草介は言葉を飲み込んだようだ。恐らく続きは「本当に?」と確認したかったのだろう。

「すぐにでも来てほしいと書いてある。丁度仕事もひと段落したから明日にでも行ってみようと思う。ゲンは絶対に行かないだろうな。」

ゲンの言う「忙しい」は本当に忙しい場合と、面倒くさいから行きたくない時に使われる言葉だ。まだ日程も決まっていないのに言うのであれば、今回は後者の意味である。無理に頼んでも頑なに拒むと判っているので誘うつもりはなかった。

「君はどうする?一緒に行くかい?」

「勿論行きます!」

目をキラキラさせた草介は手紙を封筒に戻してテーブルに置き、にこにこしながら食器を片付けた。厄介なことにも関わらず、出かけるのがそんなに嬉しいものかねと思いつられて笑ってしまう。

(藤岡さん、自殺だなんて信じられないな。)

封蝋に目を落とし旧友の急逝を悼みながらも剣呑な言葉に心がざわついていた。

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