色は匂えど

第1話

 あれは、確か5月の朝だった。新生活にも慣れ始めた一回生の必修授業の合間に起きた、誰にでもあるような出逢いの中のひとつだ。


「ヒロミくん、おはよ〜。今日の朝は何食べた?」


 1限目の英語の講義が始まるまでの30分でソシャゲのデイリーミッションを消化していた僕——水瀬大海ひろみは伏せていた頭を上げ、周囲を確認する。

 この大学に入学して1ヶ月、浮いた話どころか友達も少ない状態で、まともに話せる友達といえば同性のゲーム好きばかりだ。大学生の属性を二極化すれば、僕は間違いなく『陰の者、意識低い系、新歓ではしゃげないタイプ』だろう。クラスメイトからはあだ名よりも苗字で呼ばれることの多い、教室の隅にいるやつ。そういう自意識の僕を、わざわざ下の名前で呼ぶのはかなり珍しい気がした。


 周囲の様子を伺い、僕に声を掛けてきた相手を見つける。左前方の席で1限の準備をしている女子だ。席順は特に決まっていないが、少人数のクラス分けのおかげでなんとなく顔は覚えていた。

 どこか小動物的な印象のある、小柄な子だった。内巻きのセミロングにフレアスカート、コンバースのハイカットスニーカー。ふわふわした笑顔が朝の情報番組で人気の女子アナによく似ていた。


「……あっ、朝? 今日は菓子パン、を……食べた、っすね……」

「菓子パンか〜。甘いの好きなの?」

「……割と」


 恐ろしいほどに会話が続かなかった。いきなり話しかけられて面食らったのも原因だが、そもそも話したことのない異性と会話を続けるのが苦手だったのだ。それに、そこまで話したことのない僕の名前を知っていた理由も気になる。


「あの、なんで名前を……?」

「んー? 出席取る時にファーストネーム呼ばれるやん。逆にヒロミくんの苗字ってなんだっけ……?」


 その日の出席確認の時、僕は彼女のファーストネームが“莉緒リオ”だということを改めて意識する。


 その日から、彼女はキャンパスで会う度に僕に話しかけるようになった。学籍番号が味方したのか、他の講義でも僕と彼女は同じクラスに分けられることが多かったのだ。

 ペアワークでは真っ先に声をかけられ、お互いに辿々たどたどしい英語の会話をする。話し終えてはにかむように笑う彼女の表情ばかりを目で追い、僕は何度かメモを取るのをミスした。

 狭い講義室で彼女の様子をチラリと確認すれば、それに気づいた彼女は小さく手を振る。そういった関係性のまま1ヶ月ほど経った時、転機が訪れた。


 田舎に建てられたキャンパスは交通の便が潤沢とは言えず、最寄駅とキャンパスを結ぶ直通バスの便数は限られている。講義を終え、帰路に向かう僕が次の便に間に合うように移動している背後で、聞き馴染みのある声が弾む。


「ヒロミくん、一緒にかーえろっ!」


 彼女は一緒に歩いていた同じクラスの男子(僕も顔は知っていたやつだ)に手を振ると、僕の方へ小走りで駆け寄る。彼女がバスで帰っている姿は見たことがなく、僕の脳内に無数の疑問符が浮かんだ。


「いやー、普段使ってる原付が壊れてなー。修理終わるまでバスで帰ろうかなって!」

「原付で通ってんの!? 全然そんなイメージなかったわ……」

「そんな意外かなぁ?」


 雑談を挟みながらバスを待つ時間は一瞬だった。他愛もない会話が移動の10分ほどで終わってしまうのが何故か悔しくて、僕は焦る心をなんとか落ち着けようとする。


「あっ、あのさぁ……。LINE、交換しない? もうちょっと喋ってたいなぁって……。いや、全然断ってもらって大丈夫なんやけど!」


 どうしようもなく挙動不審になった。終わりだ。まず間違いなく引かれるような提案だったのかもしれない。焦ってさらに言い訳を重ねようとする僕に、彼女はキョトンとした顔で言葉を返す。


「全然いいよ! ってか、もうLINE交換してるくらいの気分でいたわ……! いろんな人と交換してるから、誰かと混じって覚えてた!」


 いつもの笑顔でそう言う彼女に若干の住む世界の違いを感じながら、僕は彼女と大学以外で話す権利を手に入れる。彼女にとってはなんでもないことかもしれないが、僕の心臓は緊張と安堵から変なリズムを刻んでいた。その間に、バスは目的地に着いてしまう。


「じゃあねー、ヒロミくん!」

「……バイバイ、リオちゃん」


 自然な態度を装って名前を呼ぶ。コンバースの星が遠ざかっていく。明日も会えることを楽しみにしながら、僕はスマホ画面を丁寧に撫でた。

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