第2話 「あなた」と「再会」
「中村君、顔を上げて、僕の目を見てくれ」
俺は、恐る恐る赤羽の顔を覗き込んだ。その目は、まっすぐ俺に向いていた。
「僕は、君が入社してから、上司として、そして仲間として、この5年間ずっと一緒に仕事をしてきた。だから、君が仕事に対して情熱を持ってくれていることも知っている。だから、今回の仕事も君に任せた」
いつもの穏やかな口調のせいで気が緩みかけたが、デスクの上で組まれた腕は、震えていた。
「なのになんだ!遅刻はするわミスは多いわでどれだけの、どれだけの迷惑を、先方にかけたと思っているんだ!」
(5分遅れただけじゃないか)
「まだ学生気分が抜けてないんじゃないか。いい加減反省してくれ」
すいませんでしたと謝りながら、目頭にこみ上げてくるものを必死に押さえ込んだ。同僚達と目を合わせないよう、急いで部屋を出て、いつもの場所へ向かった。途中で誰かに話しかけられることは、無かった。
「俺が悪いんじゃない俺が悪いんじゃない俺が悪いんじゃない俺が悪いんじゃない俺が悪いんじゃない俺が悪いんじゃない…」
廊下を急いで走り抜け、非常階段の前まで来た。周囲に人気はなく、ぽつんと置いてある自販機の光の点滅模様が、やけに哀愁を漂わせていた。
「ここまでっくればっ」
ハァハァと息を荒げながら、俺はコーラを一本買った。半分ほど飲んだころ、体力は幾分か回復していた。
[UUUuuuuuuuuWAAAAAAAAaaaaaaaaaaaaaaaaaaa]
思いのまま叫びながら、非常階段を駆け上がる。足がもつれそうになっても、転んで手を擦り剥いても、俺が止まることはなかった。爽快だった。
錆びついたドアノブに手をかけて、屋上へと飛び出した。
「鏡花!」
いつもならこの庭園のどこかから返事が返ってくるものだが、今日はその限りでなかった。彼女が丹精込めて育てている向日葵が、静かに風に揺れていた。
仕方がないので、ベンチで昼寝でもして午後の始業まで待つことにした。それにしても、この庭園は何度来ても感動する。もともと会社のイメージ向上のために作られたものだが、それが見せる四季折々の花の姿は、心地いい元気を与えてくれる。その庭師として鏡花は雇われている。1か月前、この庭でいつも昼休憩を過ごしている俺に彼女のほうから話しかけてきたのが、俺たちの出会いだった。
昼休憩の終わり際、うとうとしながら歩いていると、柵際のベンチに二本のペットボトルを見つけた。一本は、鏡花が最近気に入っている期間限定のピーチスカッシュ。もう一本は、俺がさっき飲んだものと同じ種類の、コーラだった。それらが、飲みかけのまま、無造作に置かれていた。いやな光景だった。俺はそのコーラを好んで飲む女を一人しか知らない。そのため、鏡花が俺を無視して、ほかの男とデートをしている。そう思えてならなかったし、そう思うほどに、さっきと同じものが、腹の奥底からせめぎあがってくるようだった。
(クソッタレ)
俺はペットボトルを一本つかんで、地面に向かって思い切り投げ落とした。ボコッという音とともに、イレバンしたそれは、大きく跳ねて、柵を越えようとしていた。ヤバいと思った時には既に、それは自分の視界から消え去り、地上へと落下していくところだった。
すぐさま周囲を確認したが、幸い目撃者はいなかった。もし誰かに当たっていたらと考えると、地上を確認することはできなかった。急いでその場を離れようと非常階段へと足を向けたとき、うなじをヒルが這うような感触がした。
「ねえあなた 引っ張り上げてもらえない?」
その冷たい声は背後の、柵のほうから聞こえてきた。
「ねえあなた 聞いてるの?ここから上げてもらいたいんだけど」
そんなはずはない。あまりの恐怖に、心臓が激しく鼓動するのが分かった。腰が抜けたような姿勢のまま、身震い一つできなかった。
「もういい。一人で上がるから」
いくばくかの時間が過ぎた後、声の主はおもむろにそう言った。少しずつ落ち着いてきていると感じたが、それでも足は動かなかった。
「よいしょ」という声とともに、カタッと着地する音が聞こえた。そしてその音はだんだんと自分に近づいてくる。
(カツッ カツッ カツッ)
動かないと
(カツッ カツッ カツッ)
殺される!
彼女が自分の真後ろに来た時、突然左肩に激痛が走った。
ひぅっと情けない声をあげながらも、その痛みのおかげで、体の感覚が戻ってきた。
何とか体を回して肩の手を払うと、そこには、黒があった。正確には、黒のドレスにつばの大きな黒い帽子をまとった、一人の女がいた。口より上は帽子に隠れて見えなかったものの、整った顔立ちをしていることは容易に想像できた。
その女は、口にハンカチを当てながら、こういった。
「あなた…懐かしい顔…」
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