恋雲

かえさん小説堂

恋雲

 信濃の国に、大空を悠々と舞う一匹の鷹がいた。その鷹は何の変哲もない、よくいる普通の鷹だったのであるが、その性格はかなりの自信家であった。鷹は自分が大空の全てを統べることができると本気で思っていたし、狩りの腕前は他の鳥たちに負けることなんてないと思っていた。そんな鷹は、今日という太陽の温かい陽気に包まれて、風を捉え雲を切っていた。鷹は自らの視界を邪魔する白い雲を、つくづく忌まわしいやつだと思っていた。


 こいつめ。いつもどこからか湧いてきては、俺の目の前をふさぎ込んで、嫌な奴だ。しかもこいつが黒い時は、雨を降らして俺の綺麗な羽を汚しやがる。ついばんでも引っ搔いても、なんの手ごたえも感じられやしない。水のように俺の乾きを潤すこともできない。ただただ厄介なやつだ。俺の邪魔ばかりしやがって。この大空という俺の故郷も、こいつがなけりゃ完璧なのだがな。


 鷹はそんなことを思いながら、自慢の艶のある翼で雲を切っては、威嚇するように甲高い声を上げているのである。


 ある日のことであった。鷹は普段のように鋭い風の如く飛び交って、眼下をうろついている獲物を食い漁っていたのだが、丁度ネズミを一匹仕留めたところ、ふと見ると、丸々と太った白兎が、じたばたと暴れまわっていた。白兎は足に怪我を負っているようで、真っ白な毛の中から覗き見える生々しい肉片が、動く度によく見えた。


 しめた、これは運のいいことよ。汚くてちっこいネズミに比べて、あの兎は綺麗でうまそうだ。きっとどこかの誰かが仕留めそこなったに違いない。間抜けな奴め、この昼餉は俺がいただくとしよう。


 そう鷹は高をくくって、ばさりという大きな音をはためかせながら、白兎に飛び掛かった。


 白兎が鷹の鋭い爪にかかった。しっかりと獲物を逃がさないように地面に押し付けて、爪を食い込ませて、さあ飛ぶぞと、羽をうごかしたその時。


 白兎の下から大きな網が広がったかと思うと、鷹が慌てる隙もなく、クルリと丸められてしまう。あれやあれやと、鷹が混乱しているうちに、木の枝に吊り下げられた白兎と鷹の風船が出来上がった。


 自慢の翼は網によって縛り付けられ、もう息絶えてしまった白兎の死骸の圧迫を受ける。どれだけもがいても、憎らしい網が食い込むだけで、羽音の一つも奏でることが叶わない。


 ようやく自身が捕らえられた身であると分かった鷹が、甲高い声を出して大空へと助けを呼ぼうとする、その時である。


「しめた! これは運のいいことよ。愚鈍な兎に比べて、この鷹は綺麗で使えそうだ」


 猟銃を持った老人が勝ち誇ったような顔をして、枝に吊り下がった風船を、重そうに持って行ってしまう。鷹は白兎を押しのけ、羽をまき散らしてじたばたと暴れ狂うも、もはや袋のネズミであり、そんな必死の抵抗も、老人にとっては痒みの一つにもならないのであった。


 それから幾分か時が経ち、鷹は冷たい檻の中に入れられ、爪には鎖が巻かれていた。時々、あの老人が狩りをする時に籠から出されるも、みっちりと躾をされた鷹は、簡単に逃げることができない。


 あの爺め。この俺をこき使いやがって、いつかただじゃおかないぞ。いつかはあの爺の腸を引っこ抜いて、食ってやる。ああ、だがしかし、あの憎らしい奴め。俺が奴の言うことを聞かなければ、あいつは餌を持ってこない。畜生め。しかも俺が狩りに乗じて逃げ出そうとすると、あのおっかない銃口を容赦なく向けてきやがる。一度翼に掠ったときは、火が付いたかのようだった。あいつめ、しまいには俺を従順な僕にする気だな。いや、もうなっているって言うのか。もう俺は、あいつに歯向かうことが、できやしない。


 鷹は悔しそうに嘴を曲げるも、もはや慣れてしまった狭い籠の中で、あの老人が来るのを大人しく待っている。


 ああ、あの故郷が懐かしい。あの青くて壮大な俺のふるさとよ。あそこにもう、帰れやしないのか。雲よ、あの時は憎い口を利いて悪かった。あんたはいつも俺の邪魔をしたが、俺を縛り付けはしなかったな。今や俺は、あんたに触れることだってできないんだぜ。


 鷹は度々、自らの故郷を見上げては、あの煩わしい雲の感覚を思い出し、ひそかに涙するのだという。

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