あくまのおくすり
よあ
第1話
天井のシミが私に向かって話しかけてくる。昨日は褒めてくれたそれが今は私を罵ってくる。言い返してやろうと思ったけど夜通しついていた暖房のせいで私の喉は音を生み出す余裕がなかった。何も考えたくなくて枕元の透明な瓶に手を伸ばす。カラフルな錠剤2粒を右手に転がす。枕元のペットボトルに左手を伸ばすとやけに軽い。そこには何も入っていなかった。水で喉を潤すことも面倒で私の匂いがついてしまったであろう錠剤たちを瓶の中にもどす。部屋に入ってくる光さえも鬱陶しくて社会と私との間に薄い布で壁を作る。時計の秒針が無意味にぐるぐると回るのを見ていると段々と意識が浮上してきた。それでも何かすることが億劫で秒針を目で追っていると短針、長針、秒針、全てが12の数字の上で重なった。その瞬間私の意識は爆発したかのように一気に覚醒した。次のときには布団を巻き込みながら倒れるように、そして崩れるように地面に体を押し付けた。クローゼットから唯一シワがない社会の一員になりすますための服を取り出す。シャツを羽織ってボタンをすべて締め終わったときにヒートテックを着ていないこと気づいて思わずため息が出る。もう学校に行くのは諦めようかそう思ってふとカレンダーを見た。そこには今日を示す数字が赤くなっていた。気分は最悪だったがまた寝間着に着替えるのはなんだか負けた気がして制服を着る手をすすめる。制服でゴロゴロしてやろうとベッドに寝っ転がってスマホを片手にテレビをつける。どのチャンネルも今流行っている新型ウイルスのことばかりだった。これにかかったら学校にいかなくてすむのに。そう考えていや、不謹慎だななんて一人で乾いた笑いをもらした。
テレビをただ眺めて2時間が経った。ネットサーフィンもおわってしまってすることがない。制服で家にいるのはなんだか気持ち悪くて外に出ようと思った。あぁ、外に出るなら飲まなきゃ。冷蔵庫から新しいペットボトルを取り出して、さっきの錠剤をまた2粒手の上に出す。そして口の中に放り込んで水で流し込む。粒が喉を通る不快感も慣れてしまった。横目で錠剤共に目をくれてやる。こんなものに本当に効果があるんだろうか。玄関に行っていつも通りローファーを足に引っ掛けた。でも、学校に行くわけでもないのにローファーを履くのはなんだか気持ち悪くて私はあえて大きなリボンのついた真っ赤な靴に履き替えた。玄関においてあるミラーで身だしなみを確認した。可愛い靴はボサボサな髪の毛とダサい制服とはミスマッチで私は手で櫛を通しながら家を出た。わたしが汚い錆びきった階段で1階に降り立ったとき、うるさく鳴いていた信号が赤く光って死んだかのように静かになった。その瞬間ガソリンが燃える音がしてたくさんの車が行き交い始めた。私はこの信号の赤の長いことを思い出してただでさえ憂鬱な心がさらに黒いヴェールで包まれたようだった。暖めてもくれないくせに無駄に眩しい太陽が鬱陶しくて自分の輪郭をはっきり映し出してしまいそうで私は信号が青になった瞬間真っ暗ないつもの路地に駆け込んだ。安心感のある黒につつまれながら早足で進んだ。そしてここにそれがあると知っていなければ見逃してしまうほどひっそりと隠れているドアを開けた。瞬間それだけで酔ってしまいそうな酒を感じた。若い男が数人倒れているのが見える。倒れているうちの一人の首元で牙を剥いている蛇に一瞥を投げてカウンターの奥にいるはずのマスターに声をかけた。
「ねぇ、どこにいるの」
我ながら軽蔑するほど無愛想な声だった。私の声を聞いて中から愛想の良い笑顔を浮かべて金のような白のような長い髪をまとめた人が出てきた。
「あら?今日も学校サボってきたの?でも今日は、学校ないんじゃないの?」
きれいな顔に似合わない、この場で一番ガタイがいいと思われる体に低い声を震わせて淑女のような仕草で私に問いかけた。
「サボりじゃないよ。」
私は机の上の傷を見ながら言った。
「そう?オレンジジュースでいいわよね。」
彼、いや彼女は返事を待たずにグラスに注いで私の前においた。そして特に何か言うこともなくフロアに置かれたテレビをつけた。所謂大御所、と呼ばれるような人の旅番組だった。彼女も私も特に興味もないのにその番組を見続けた。
ガチャと誰かがこの店に入ってくる音がした。私はテレビから目を離してドアへ目を向けた。カツカツと音を立てて入ってきた男はお伽噺でもそうそう見ないほど胡散臭い男だった。黒いコートに黒い手袋をしたその男は私を見て言った。
「あぁ、また来てたの?君、調子はどうかな」
彼は目も口もわざとらしく弧を描かせていた。
彼はこれを飲めば体が楽になる上にしあわせになれるよ、と私にカラフルな錠剤を渡してきた男だった。恐ろしかったが、何もかもうまくいかなくて生きることを諦めそうになっていた時で私はその怪しげな錠剤を飲み込んだ。状況は何も変わらないけど少しだけ本当に一瞬だけ辛いことを忘れられる気がして、私はこの錠剤を飲み続けている。
「君、あの薬まだ飲んでるの?」
彼は私に尋ねてきた。私は彼と話すのが苦手だった。軽薄な話し方をする癖に持っている空気がどうしても重くて胃がもたれるようだった。私は彼との会話を拒絶するように彼からテレビへと目線を移動させた。それでも構わずに彼は私に話しかけ続けた。
「ねぇ、聞いてるの?でもその様子だと飲んでるみたいだね。今は効果が薄いと思うけど直に効いてくるんじゃないかな」
私は彼に向き直った。
「これはなんの薬なの」
震える体にムチを打って自分を強く見せるように眉間にシワを寄せて彼の目を見て言った。
「前にも言っただろう?しあわせにしてくれる薬だよ。そうだな、天使の薬とでも言っておこうか。」
彼は楽しそうにくふくふと笑いながら言った。私達のそんな様子に見かねたマスターはやめなさい、という目で私達を嗜めた。
「マスターのおすすめでも頼もうかな」
彼のその言葉を皮切りにまたグラスの音とテレビの音だけが響く空虚な空間に戻った。私がここを居場所だと思えるのはその男がいないときだけで今は、蛇に睨まれたカエルのような、科学者に実験台にされる被検体のような気持ちになり、気分が悪かった。彼に背中を向けているのが恐ろしくなって私は彼の方を盗み見た。彼はコートも手袋も外さずに、赤黒い液体を飲もうとしているところだった。彼は私の視線に気がついて口から澄みきったガラスを遠ざけた。
「あげないよ」
彼はグラスを軽く上に持ち上げて言った。
「いらないけど。コートと手袋つけたままなんて行儀が悪いなと思っただけ」
私がわざとらしく手袋に目線を配って言うと彼は初めて私に向ける表情を崩した。困ったように眉を下げて笑った。
「そろそろ開店だから、かえって頂戴」
マスターが私達のとっくに空になったグラスを片手で持ち上げながら言った。
私と男は追い出された。
「君の未来に栄光あれ」
そう叫ぶ彼を無視して私は家に戻るために何も言わずに歩き始めた。すると、誰かに足を掴まれた。足元を見るとそこにいたのはボロボロの服を着た痩せきったおじいさんだった。
「水をくれんか。少しでいいんだ」
そう言った彼を見て、私はその汚さに悪寒が走った。そして自分で生きていけないおじいさんに嫌悪感が風船のように簡単に膨らんでいって破裂した。
「離して!!」
私は癇癪を起こした子供のような声を出して私に引っ付いているおじいさんの顎を蹴った。蹴ろうと思ったわけではなかった。けれどおじいさんから流れている血も徐々に冷たく硬直していく手も現実であった。私は少し前まであんなに軽蔑していたおじいさんを蹴ってしまったという事実に自分に対する嫌悪感のほうが勝ってきた。私はぐちゃぐちゃなこの感情を整理つけられるほど大人じゃなかった。ぐるぐるとたくさんの考えが回るけど何も結論が出なくて彼の石のように固く私を掴んでいる手をなんとか剥して銅像のように動けなくなっている足に動けと言い聞かせ、私は家まで馬車のように走った。家について私はフラフラとそれがある場所を目指した。私は震える手を大きく上へ振りかぶって下腹部に包丁を突き刺した。生理のときよりもサラッとしている血が腹から流れ出した。自然と痛みは感じなかった。私はお腹から流れるあたたかい血を眺めながら家族がいた頃のことを思い出した。もう何年も思い出せなかった、両親の顔が鮮明に浮かんだ。私はやっと泣くことができた。孤独から、辛さから開放されることができた。目を閉じた。錠剤の入った小瓶が棚から落ちた。
開店前の寂れたバーのテレビでとあるニュースが流れていた。見覚えのある少女の事件だった。店主と思われる人物は唯一の客をみてため息をついた。
「この子、あなたのせいで死んだのよ」
客は店主のそのセリフを聞いてくふくふと笑った。
「止めなかった君も共犯じゃないのか?それに、若い女の自殺した魂ほど美味なものはないだろ?」
そういった彼を見て店主はまたため息をついた。
「今日も君のオススメをいただこうかな」
店主は客に赤黒い液体を渡した。
客は手袋を外してコートを脱いだ。爪は何かを刈り取るために存在しているかのように長く醜く曲がっていた。コートから顕になった背中には何かを隠しているように盛り上がっている場所があった。寒い季節だというのにはだけてしまっているシャツからはヒレのない魚のようなタトゥーが彫られていた。人間ではない何か、そう悟らせるような姿をありありと見せつけて一口グラスに口をつけた。
「でもあの子の幸福は死ぬことだったと思わないか?思わず情が移ってしまいそうで焦ったが」
客は楽しそうに口を沈みかけの三日月のように歪んでいた。
「つまらない冗談はやめて」
客はそのセリフを受けて一気に液体を飲み干した。彼の口元から三日月が沈むことはなかった。
あくまのおくすり よあ @yoasama
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