幻の焼肉店

 図書館司書時代に、一度だけ異動いどうを経験した。

 異動先の町は、以前勤めていた町よりも人の流れが緩やかで、商店街には人情の温もりが熾火おきびのように根付いていて、昼休みに訪れた大衆食堂の定食も美味おいしかった。さらに、他都市にはないユニークな特色を持っていた。

 焼肉店が、とても多い――である。

 辺りを見回せば、焼肉、焼肉、焼肉……異動先の町は、焼肉店の激戦区で、あちこちで焼肉店の看板をたびたび見かけた。社会に出たばかりの私にとって、一人で焼肉店に入るのはハードルが高く、退勤後に焼肉店へ吸収されることはなかったが、一人焼肉の経験値をそこそこ積んだ現在なら、喜々として肉を焼きに行けただろうか。いや、やはり初めての店に対しては、少し尻込しりごみするだろうか。

 それはさておき、私は焼肉が好きだ。一年の間に何度「焼肉に行きたい」と言っているか分からない。「焼肉に行きたい」と言い出すときは、だいたい身体が疲れ始めているときなので、健康状態を測るバロメーターにもなる。以前に書き上げたSF短編『タイムトラベラーと焼肉と幸福論』(https://kakuyomu.jp/works/16816927861598455535)で、主人公たちが焼肉を食べるシーンをえがいたときも幸せだった。そういえば、このタイムトラベル焼肉SFでは、図書館の業務についても触れている。私にとって焼肉と図書館は、切っても切れない関係なのかもしれない。

 焼肉と聞いて思い出すのは、異動先の町で食事をした、一軒の焼肉店のことだ。ただし、先述のように一人で出掛ける勇気はなかったので、同僚たち六人で出掛けた。メンバーの一人が地元民で、おすすめの焼肉店に連れていってくれたのだ。

 退勤後にたどり着いた焼肉店は、駅から離れた住宅街にあった。民家と変わらないたたずまいで、ここが目的地なのだとあらかじめ知っていなければ、気づかずに通り過ぎていただろう。一軒家を店舗に改装したような座敷ざしきの一角に座り、地元民の同僚に注文を任せて待つことしばし、大皿に載った肉が運ばれてきた。

 タン塩、ロース、ハラミ、カルビ……このとき食べた焼肉は、夢のような味がした。あまりの美味しさから、誰からともなく「おかわりしよう」と声が上がり、満場一致で肉を追加した。

 みんなで焼肉店を出て、駅に向かって夜道を歩きながら、また行きたいね、また来ようね、と言い合った。この焼肉の会の時期を境に、私を含めたメンバーの異動と退職が続き、予定は口約束のまま立ち消えになってしまったが、異動先の町で美味しい思い出を作ることができて嬉しかった。

 いつか、一人でも行けたらいいと思っていたけれど……悲しいことに、住宅街に紛れ込んでいた焼肉店までの道順を、全く思い出せそうにない。店名さえも記憶になく、あの焼肉店は私にとって、幻のお店となっている。

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