一 おしまい

一 おしまい

 

「お前アホか! はよもってこい!」

「すみません! すぐ持ってきます!」

 服部天神駅から徒歩三分に位置するパチンコ店、服部キング。おれは頭を下げたまま踵を返して、走っていた。狭い通路で銀色のパチンコ玉が入った箱を蹴飛ばさないよう、不格好なステップを踏みながら。

 真っ白に光るホール内は高低入り交じる大音響が鳴り響いていて、いくら勤め慣れていても客の声が聞き取れないことはよくある。今回はその相手がスキンヘッドの強面だったというだけだ。

「尾張主任、大丈夫ですか?」

 耳に詰め込んだインカムから声がする。音質が悪くて誰かは分からなかった。いい加減に買い替えて欲しい。

「大丈夫大丈夫、コーヒーの銘柄間違えただけや」

 無事いつものを届けたおれは強面から離れると、誰にともなく手のひらを顔の前で振りながら笑った。

 一息ついて周囲を見渡す。いつの間にかホールは閑散としていて、ピークタイムは去っていた。照明を反射する床のタイルが、あちこちひび割れている。壁のポスターも、また剥がれかけだ。ここで働き始めた二十代の頃は、今くらいの夕方近くになると席の八割は埋まって、文字通り目が回る程走り回っていた。ただのバイトだったおれがいつの間にか主任になり古株なのだ、店も設備も古ぼけてくるはずだ。

「主任、次休憩どうぞ」

「お、ありがとう、いただきます」

 もうそんな時間か、ホールへ一礼して、おれは事務所のドアをくぐった。

 

「パチンコ玉みたいなおっさんが……」

 狭い休憩室、くわえたタバコの煙が目に染みる。細めた目でポケットサイズのメモ帳にペンを走らせた。丁度最後のページだった。変な客とエピソードは良いネタになるかもしれないと書き続けて数年、メモもこれで何十冊目だろうか。もはやクセになっているだけで、このメモから爆笑ネタが産まれることはもう随分無くなっていた。

「おっ、お疲れさん尾張くん。またネタ拾たか」

 休憩室の扉をくぐる、メガネの大男が現れてぎょっとした。嶋野常務だ。いつ見ても人懐っこい笑顔と体格が釣り合っていない。彼はオフィスワークが嫌いでちょくちょくホールを覗きに来る。要するに、暇なのだ。

「あ、嶋野常務、お疲れさまです。はい、また変なお客、いはったんで」

「タバコ消さんでいい、消さんで。僕にも一本ちょうだい」

「また禁煙諦めはったんですか?」

「二週間! 続いた方やで」ピースサインと共に天井に煙を立ち上らせる。

「今日もあんまりやなぁ、うちは。なぁ主任」

「向かいのオリオンのリニューアルが効いてますね……」

 ライバル店が大々的に行ったリニューアルの影響は少なくなかった。今、この業界の風当たりは厳しい。閉店する店の話しもこの数年連日のように聞くようになった。転職雑誌が愛読書になっている社員も多い。

「うちもでかいイベントやりたいけど、予算もないしなぁ」

 常務が休憩室に寄る時はほぼ間違いなく、業績に関する愚痴を吐きたい時だった。聞かされるおれの愚痴は、誰に言えばいいのか未だに分からない。

「ところで尾張くん、さっきの客なに言うてたん、メモまで取って」

「あぁさっきのは微糖くれ言われまして。一番出てる微糖コーヒーもっていったんですよ」

「ボスやな」

「はい。そしたらこれちゃう言われて。いつものや言うて銘柄言うてくれへんのですよ」

「めんどくさいやっちゃなあ」

「で、もうええわおもて十種類もっていったんですよ、両手で。そしたら一言、ホットじゃ!言われて。誰が分かんねん!」

 話しながら、大したエピソードでは無かったなと思った。ただ、嶋野常務は大きな両手を叩いて大笑いしてくれていた。

「傑作やん! 尾張くん、リュック背負って中にコーヒー詰めといたらどや」

「いやおかしいでしょそんな店員! ビールの売り子か」

 大声のツッコミにまた腹を抱えている。コンビを組んでいた頃ですら、こんなにウケてくれるお客さんは居なかった。単純に笑いの沸点が低いのだと思うが、やはり人に笑ってもらうと身体の芯に火が灯ったような気持ちになる。

「ぼくはな尾張くん。相方に逃げられてピンになっても、絶対売れると信じてるで」

「常務……」

「売れたらうちの店宣伝してもろて、逆転満塁打やからな!」

「宣伝のためかい! 一瞬ジーンとしてもうたわ!」

「うちの店で出ました! 言うてな、イベント打つねん」「出ましたて宝くじか! もうちょっと確率あるわ!」

「店員なんやから、タダやし」

「そのケチでようイベント言うたな! 出演料くらいくださいよ」

「分かった分かった先払いや、ほれ、微糖」

「微糖もうええわ!」

 我ながらコテコテすぎる。でも、本音と建前がごっちゃになって、笑えない事も笑えてしまう。だからおれはお笑いが好きだった。あがいてあがいてはや十数年。宝くじならもう当たっているかもしれない。それでもまだ、芸人として売れたい気持ちを捨てきれていなかった。

「ほな、休憩あがります」

「おう! 尾張くん。がんばりや」

 去り際に見た常務の顔は、笑ってはいなかった。おれも笑わずに、頭を下げた。

 

 早番の仕事を終えた午後七時、天竺川沿いの木造アパートに帰る。今日はバラ肉が安くて助かった。

「ただいまもどりました、よ」

 今度こそ外れるなと思いながら開く古い扉の先に、待っている人はもちろん居ない。あるのは見たまんま、男やもめの1Kだった。

「野菜炒めでええか」

 スーパーの袋を解きながら冷蔵庫の扉を開く。

「なんで二本入しかないねん、こいつら」

 フィルムに包まれたネギを片手に、おれは一人でつっこんだ。最寄りのスーパーは安くて気に入っているのだが、ネギだけはいつも二本入りで売っている。

「一本じゃ、あかんのか」

 相方がコンビを解散しようと言ったのは五年前。理由は単純で、これ以上売れる気がしないから、だった。

 その当時おれらは、受け続けたオーディションに引っかかってなんとか大きな事務所に所属出来ていた。といっても合格がキャリアのピークと言える程度のコンビだった。だから、相方がネタ合わせによく使ってた喫茶店で思いつめた顔をしてるのを見た時、別段驚きはしなかった。あいつの彼女の妊娠も分かった。今はガソリンスタンドで働いてると去年連絡がきたきり、十代の頃から続いていた交流はなくなった。元気で居ると思う。

 ごく自然な流れで事務所を退所することになったおれは、何年もアルバイトを続けていた今のホールに就職した。諦めきれず、売れる予感もないまま月に何度かピンでアマチュアのステージに立っているのが現状だった。

 正直言って、疲れていた。売れたい、でも辞めたい。それこそ、本音と建前だった。

 ビールも、買ってくれば良かった。

 

 平日、昼。

 携帯を忘れたことに気づくのが翌日というのがいかにおれの携帯が働いていないかを物語っていて、事務所へと歩きながら乾いた笑いが漏れた。休日だがどうせ家に居てもすることはない。ついでに散歩がてら買い物とネタ探しでもするつもりだった。今日は晴天だが風が少し冷たい。シャツを羽織ってきて正解だった。

 十五分程の散歩で、天神駅が見えてくると事務所はすぐそこだ。駅のすぐ向かい側の、寂れた商店街の角にある二階建てビル。おれは好きなのだが、この見た目を風情と言うか古いというかは人それぞれだ。

「俺、そいつばっこーどついたってなぁ!」

「ほんまやばいやんお前やめとけってぇ!」

 突然響くやけに通る甲高い笑い声に目をやると、色とりどりの髪色が数人騒いでいた。ナンバーを折り曲げた原付きにまたがっていて、男も女も顔はまだ幼く見える。たぶん中高生くらいだろう。

「学校さぼって元気ええなぁ」

 ボンクラばかりの中高に通っていたから、あの手の手合いは昔から馴染みがあるし、自分にもそういう時期が少しくらいはあったものだ。横断歩道で車が通り過ぎるのを待っていると、グループの一人がこちらを睨んでいる気がした。睨み返す若さはもうないから、目線を外しておれはビルの階段に足をかけた。


「もうこんな時間か……」

 気がつけば空の色が温かい。出たついでの用事をいくつかこなしたおれは、いつもの特等席でネタを作っていた。

 天竺川沿いの、ブランコくらいしかない公園に置かれたボロボロのベンチ。目の前にはびっしり並ぶ墓石の頭が見えている。遠くに聞こえる街のざわつきや子供の声と、どこか薄ら寂しい空気感がおれはすきだった。それに、定期的に巨大な飛行機が頭上を飛んでいく所が迫力があるし、眠気覚ましにも丁度いい。騒音地区と言われるが、昔より本数が減って大分マシになった。

 ここはピンになり、ファミレスの騒がしさに追い出されて彷徨った結果見つけたお気に入りの場所だった。以前この場所の事を嶋野常務に話すと「そんなとこおったら暗いネタしか出来ひんで」と言われたが、実際時折貰うアンケートにはその通りの指摘が多かった。

「そんな暗いかなぁ、おれ」

 風のせいで最後の一本になかなか火が付かない。うなだれると、足元に一本、タバコが落ちていた。

「落として……」

 いや、おれのは確かに最後の一本だったから、おれのタバコではない。顔をあげると、おれから少し離れたフェンスに、明るい髪の少女が川を見つめて佇んでいた。制服姿から察するに、近所の学生のようだった。陽に透ける髪は白くさえを見える。

 墓石と川をぼうっと眺めるのはおれくらいだと思っていた。すると。

「おいおいおいおい、そんなもん捨てたあかん!」

 思わず声をあげていた。少女の手には赤い箱。そこから細い棒を取り出しては投げ、取り出しては投げを繰り返していた。想定の倍くらいの音量だったせいで、少女はこちらを振り返り固まっている。足元に転がってきたタバコは、あの子の仕業だったか。

 少女はこちらを見たまま動かない。逆光のせいで表情はよく見えないが、怒っているのだろうか。いや、いやしくもここは神社と墓地に挟まれた川だ。叱られて当然だとおれは思う。なんていう事を考えている一分近く、少女はこちらを睨んだままだった。大人の意地なのか、興味なのか。おれが目を逸らさずに居ると今度は、何処かへ行くならいざしらず、こちらへ向かって歩いてくる。

「な、なんや……?」

 まさか小柄な女の子一人に殴られるわけでもあるまいに、おれはよく分からない状況に身構えてしまう。

「吸いたいならあげるわ、おっちゃん」

「は?」

 かなりすっとぼけた声だったと思う。おれの目の前まで来た少女は、手にもった赤いタバコを俺の顔の前に突きつけた。不機嫌そうな顔は子供ながらに整っていて、切れ長の目とやけに長いまつ毛が印象的だった。後ろに束ねた短い髪が尻尾みたく揺れている。タバコはピアニシモか。女物のタバコは甘ったるいから好きじゃない。いや、ではなくて。

「子供に恵んでもらう程、貧しないわ!」

「じゃあ、川に捨てるわ」

「待て待て、捨てるくらいならもろたるわ! あんまバチあたりなことすなよ」

「べつにあたっても、いいし」

赤い箱を手放した少女の手は、タバコと同じくらい細く見えた。

 ただじっとおれの顔を見つめたあと、何故か少女はおれの隣に腰を下ろす。おれは少しだけ尻をずらした。

「おっちゃん、ヤクザの人?」

「いきなりなんやねん!」

 思わず吹き出してしまった。シュール、そして緊張と緩和。まるでお笑いのお手本のようだった。

「昼間天神駅のビル入っていったの見た」

「あぁ、お前駅前にいたグループの子か! 原付きまたがってた」

「グループとか、ちゃう」

「よう覚えてたな」

「変な柄シャツやし覚えてた」

「変なシャツで悪かったな、お気に入りや! おれがヤクザやったらしばかれてんぞ」

「ヤクザちゃうん? あのビル、ヤクザの事務所やでって先輩が言うてた」

「アホか、あそこはパチンコ屋の事務所で、おれはその店の主任や」

「なんやしょうもな。でもパチ屋やったらヤクザと一緒やん」

「一緒ちゃうわ! パチンコ屋はむしろ警察とお友達じゃ」

「ほな警察がヤクザなん?」

「やめろやめろ、鋭い風刺か!」

 先程までの沈黙とは打って変わって、おれと見知らぬ金髪娘の応酬はしばらく続いた。女の子一人で中年に話しかけてくるのは若さ故の無頓着なのか、ただのちょっと危ない子なのか、はたまた他の理由があるのか、暫く話してもそれは分からなかった。

「もうええわ! あとそんなおっさん言われる程の歳ちゃうぞ」

「いくつなん?」

「……三十七や」

「やば、普通におっさんやん。援交で逮捕されんで」

「お前が話しかけてきたんやろ! むしろ何かもろたんはおれや」

 後ろめたいことはなにもないが、少しだけ周囲を見渡した。歳を聞けば少女は十五。おれは彼女の母親とほぼ同じ年齢なのだそうだ。そう語る彼女はただでさえ乏しい表情を更に暗くさせた。なんとなく、色々察することが出来た気がした。

「お前、学校ちゃんと行ってんのか? 昼間もあんなとこおって」

「おっちゃんこそ仕事しいや。今日平日やん、クビなったん?」

「バリバリ働いてるわ。おれは休みとったんや」

「ほな、私も休みとったんや」

「はぁ、今どきのガキは口達者やなぁ」

「私、無口やで」

「どこがやねん」

 手の平を放り投げてツッコミを入れたものの、彼女は口を真一文字につぐんで、履き古されたスニーカーの先を見つめていた。

「かえろ」

 丁度街灯が灯る頃、彼女はぴょんと立ち上がって短いスカートの裾をはたいた。よく見ると、プリーツは皺だらけだった。

「近所か? 気つけて帰れよ、寄り道せんと」

「先生みたいな事言わんでや」

 束ねた髪を何度か指先で遊ばせている。

「あ、これやるわ。タバコの礼」

 おれはコンビニの袋から缶を一本取り出して、少女へ軽く投げてやった。

「微糖。コーヒー飲めへんか?」

「飲めるわ! コーヒーくらい」

 受け取った缶を乱暴に上着のポケットに詰め込むと、彼女は少しだけ笑って歩き出した。そういえば、鞄すら持っていない事に今更気がついた。

「あ、おっちゃん、名前なんていうん」

 まだ顔の見えるくらいの距離で振り返る。

「尾張や。尾張の国の、おわり」

 また少し声が大きかったかもしれない。驚いたように目を見開いている。なんだ、お前の目、そんなに大きく開いたのか。

「終わり? 国? 終わってるん? おっちゃんの国滅亡したん?」

「終わってへんわ! お前のはおしまいの方のおわり、や。発音がちゃうやろ」

「変な名前」

「うるさいなぁ、お前はなんて言うねん」

「ぎゃくやで」

「ぎゃく?」

「おわりの、ぎゃく」

「どういう……」おれのつぶやきは聞かず、少女はもう背中を向けていた。

「なんやったんや……」

 なんだか白昼夢みたいな時間だった。

 おれは赤い箱から一本取り出すと、甘ったるい煙を吐き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る