二 はじまり

二 はじまり

 

「あれ、ない……」

 冷蔵庫に入れておいたはずの缶コーヒーが、消えている。昨日の夜帰ってきた時に、確かに卵の隣に置いたはずなのに。狭い台所を一周すると、缶ビールとチューハイしか入ってないゴミ袋の上に、金色の缶が一つ転がっていた。

「ほんま、むかつく」

 リップがべっとりついたタバコが何本も飛び出ている。朝はこんなイラつく瞬間が洗濯物みたいに山積みになっていて、毎日毎日毎日毎日本当にうんざりする。

 臭くてどうしようもない空気。黒いドレスからはみ出た母の手足。見つからない靴下。拭いても拭いても水滴だらけの洗面所。見たくない顔。切れたままのトイレットペーパー。羽虫の飛んでいるシンク。やけにピカピカの五百円玉。うるさい玄関ドア。子供のはしゃぐ声。

「しょうもな……」

 軽い鞄。行きたくない、学校。

 椅子を蹴飛ばした足先が、ずっと痛い。

 

「うい。お前昨日いつの間におらんなったん」

 教室に着くなり、緑色頭が話しかけてきた。朝から居るのは割と珍しい。ピンクと茶色はまだ来ていなかった。緑色頭は何故か左目に眼帯をしている。どうせまた、しょうもない喧嘩話を聞かされるのだろう。

「自分らがバイクいじってた時帰った。なんかお腹痛くなって」

「なんなん、生理け、鉄くさいおもたわ」

「うっさい」

 くたばれ、ピーマン。割っても肉すら詰められてなさそうだ。

「これやばない? 兄貴のバイク勝手にイジったんバレてボコされたわ! がっつんやり返したらジジイも入ってきておかん泣いとんねん! ウケるやろ!」

「そやな、やばいなぁ」

 お前の頭がな。ご自慢の家族話が終わったと思ったら、一人また一人とアホの男女が集まってきてアホ談義に花が咲いていた。喧嘩、酒、ヤッたヤラれただなんだ。

 本当にどうでもいい。ただ、一番アホなのは、相槌を適当に打って仲間の輪のはじっこに座っている私だった。昔から、そうするしかなかった。

「あい、座れー」

 ジャージ姿の担任の声で散り散りになり、やっと私は解放された。

「先週渡した進路希望調査集めるから出せよー」一斉に教室の中が騒がしくなる。

「俺、YouTuberってかいたわ!」

「ちょ、俺も書いたやん! かぶんなや!」

 大きな笑いに包まれるが、何が面白いのか分からない。YouTuberというやつも、スマホすら持っていない私にとっては会話に出てくる言葉だけの存在だった。

「なんたらでも芸人でもなんでもええから、とりあえずはよ出せ出せ!」

 机の奥に押し込んでくしゃくしゃになったプリントを机の上に出す。第一、第二、第三。すべて空欄だ。行きたい高校なんか無い。やりたいこともない。働きたいわけでもない。けれど、私はきっと働くしか無いだろう。母がそうしていたように。進学したところでどうせ、私には似合わない制服を着て、このプリントみたいにペラペラの生活を送るだけだ。今までと同じ様に。

「全員出したか? まだの奴はよもってこいよ」

 私の希望って一体なんだろうか。このまま生きていて、何に希望を持ったらいいのだろうか。

 ――『金本 素』

 私は大嫌いな自分の名前だけを空欄に書き込んで、教卓の箱に放り込んだ。素と書いてハジメ。しょうもない名前。無愛想で無表情の私には、お似合いの名前。私の人生は始まらない。ずっと、これからもきっと。

 

「白紙やったけど、お前行きたい高校とかないんか?」

 放課後の職員室で、私は担任と向き合って座っていた。そうなるだろうなと思っていたから、呼び出しを食らっても別になんとも思わなかった。少し意外だったのは、呼び出されたのはクラスで私だけだったという事だ。

 やんちゃな生徒にも理解があって、どちらかと言えば人気のある担任の、ジャージ姿で生徒想いみたいな暑苦しいテンションが私には鬱陶しかった。

「べつに、ない」

「家庭の事情は分かってる。けど、お前頭はそこまで悪くないんやから、対策して進学って道を考えたらどうや。まずは期末頑張ろうや」

 毎朝ベロベロで、三回に一回は玄関でゲロを吐いて倒れている母と、その娘のふたり暮らし。家庭の事情。私の家は、世間的にはそういう言葉でくくられる様な家庭らしかった。

「アホとつるんでるのも今は楽しいかもしれん。俺もそうやった。今は条件が合えば学費が免除になる制度もある。そろそろしっかり考える時期やぞ」

 何も、言い返せなかった。私はただ黙って下を向き、ピンと張った新しい進路希望調査票を片手に職員室を後にした。

 

 白紙の紙を埋められないまましばらくが経ったある金曜日。

「あ、あんたちょっと遅いねん! こっち持って!」

 母が普段は物置になっているソファの片側を持ち上げて顔を真っ赤にしていた。そう見えるのは、力んでいるのと気合の入ったメイクのせいだった。私は通学鞄を置いて、ソファをずらすのを手伝う。

「あー、おもた。ちょっとあんたも自分のもん片付けてや」

 そういえば床に散乱していたものが片付けられていて、久しぶりにフローリングを見た気がする。

「なんなん? 急に片付けて」

「今日はあれ、友達が遊びにくんねん。やし、あんたも友達んとこ泊まってきいや」

 そういうことか。

 私は大方理解した。母がこうして急に部屋中を片付けだすのは、黒くて大きいあいつが一週間以内に二匹目撃された時か、友達という体裁の彼氏が泊まりにくる時だけだった。今回は後者だった。

「そんなん急に言われても」

「あんた連れいっぱいおるやん、バイクの子らとか。彼氏とかおるやろ」

「そんなん、おらんわ」

 過去二回同じ事があった。その時はどちらもたまたま、先輩のマンションで酒盛りをするとかいうイベントがあったからそこに行く事が出来た。

 アホみたいに勧められる甘ったるいチューハイと歯抜けの先輩が隣に座ってくるのを躱すのが面倒すぎて、結局二回とも一睡もせずに夜明けと共に家を出た。

「もうそろそろやし、はよ出といてな! お金おいてあるし!」

 私の返答や、私がその後どうするかなんて、この人の考えにはないのだろう。私は着の身着のまま、空になった灰皿の横に置いてある二枚の千円札をポケットにねじ込んで、帰ってきたばかりの家を出た。


「ありしゃしたー」

 結局、行くあてもない私は、近所をぶらつきながらコンビニでささやかな夕飯を買った。

 いつもは買わないスイーツと、一度読んで見たかったファッション雑誌。それに使い捨て歯ブラシも。どこで眠るにせよ、歯磨きだけはしないと気持ちが悪い。

 誰かの家に行こうかと考えたけれど、私には連絡を取る手段がない。それに、仮に連絡が取れたとしても、緑やピンクの世話になるのは率直に言って嫌だった。

幸い天気も悪くないし、歩くのは好きだ。徹夜で散歩でもして帰ればいいや。棒付きキャンディーを舐めながら、自分の家を想像する。

「こんばんは、お邪魔します」

「いらっしゃい、待ってたよ」

「うわぁ、めっちゃきれいじゃん」

「そう? いつもこれくらいやで」

「きれい好きなんやな。娘さんは?」

 そこまで考えて、馬鹿らしくなってやめた。たぶん、今の店では娘など居ない事になっているだろうから。

 別に母のことが憎いわけでも、恥ずかしいわけでもなかった。働いてくれていることには感謝もしている。ただ、あの人を見ていると胸の奥がいつもすうっと冷えていく。あまりにもそっくりな顔で、自分の未来を見せられているようで。

 私もあんな風に大人になっていくんだろうか。普通じゃない仕事をして、普通じゃない男に捨てられて、普通じゃない子供を育てながら老いていくのだろうか。

 暮れかけた空に顔を上げると、目の前には墓地が並んでいる。いつの間にか、いつか来た川沿いの道に来ていたようだった。

「……おるわけ、ないよな」

 期待していたわけじゃない。ただ、少しだけでいいから、話し相手が欲しかった。

 

「こんばんは、ちょっとお話聞かせてもらっていいかな?」

 突然の大きな声にお尻が浮き上がる。読んでいた雑誌がベンチの下へばさりと落ちた。

「ごめんごめん、驚かせたかな」

 警察官が二人、私の前に立っていた。白い街灯に照らされて、青い服がより青く見える。

 世間から見れば不良と呼ばれる連中と一緒に居たけれど、警察のお世話になったことは一度も無い。にこにこしている二人は、若いのか老けているのか分からない顔で、一歩も動かずじっと私を見下ろしている。

「もう学校もとっくに終わってる時間やけど、帰る途中?」

「それとも誰か待ってたりするんかな?」

「袋の中身は晩ごはん?」

「こんなとこ居たら危ないで」

 質問責めだ。答えられずにいると、少しずつ顔から笑顔が薄まっていくように見えた。怖い。悪いことなんて何もしていないのに、どうしてこんな風に詰め寄られなくちゃいけないんだろう。

 話そうと思っても、心臓がドンドンと胸を叩いて声が出てこなかった。頭の上を大きな飛行機が通り過ぎて、私は身体が潰されそうだった。落ちた雑誌が、バラバラとめくれあがっていた。

「どうしたの? なにか、困ったことでも?」

「わ、私……」

 やっとの思いで一言、絞り出した時。

 

「おいおいおいおい、おま、なにしてん!」

「あ……っ!」

 見覚えのある変なシャツの人物が、飛行機と同じくらいの声をあげてこちらに走ってきていた。私の目の奥は、少しだけ熱くなった。

「あ、お兄さんこの子の知り合いですか?」

「は、はいそうです。こいつなんかしたんですか?」

「いやいや、一人でずっと座ってたんで声かけたんですよ」

「一人でですか?」

「はい、驚かせてしまったみたいで……」

 ずっと胸を押さえている私の上で、大人たちが話しを進めている。警察官は流れるように尾張の免許証を確認している。そのついでみたいに、私の学生証も求めて、確認していた。分厚くて邪魔だったけれど、今日ばかりは財布に入れておいて、良かったと思った。

 持ち物を返しながら「ご協力ありがとうございます」と二人は軽く敬礼をした。終わったみたいで、やっと心拍が落ち着いてきた。やっとだ。

「ちなみにですけどお兄さん、この子の名前ってご存知ですか?」

「名前?」

 名前! どうしてそんな事を聞くんだろう、私はこの人を知っているし、この人も私を知っているのに。また心拍数が駆け上がっていく。私の名前なんて、知っているわけがない。私はあの日、彼に名前を言わなかったのだから。

 自分で答えようとする。でも、それを制する様にもう一人が私の顔を見てにっこりと笑っている。質問をした警察官は、笑っていない。沈黙の遠くで、踏切の音が鳴り響いている。答えられなかったら、どうなるの。 

「この子は……ハジメいう子です」

 呼吸が止まる。どうして。どうして!

「そうです、金本ハジメです!」

 私は今日一番の大声で叫んでいた。

「そう、金本ハジメ! おれは尾張秋一! ちょっと思春期でねこいつ。お前、警察の人に迷惑かけるなよ!」

「かけてないわ!」

「かけてなかったらこうはなってへんやろ!」

「うるさい! うるさいな!」

「いたっ、痛い痛い! やめろやめろ!」

 顔がどんどん熱くなっていくのは分かるのに、恥ずかしいのか怒っているのか、自分でも分からなかった。

「わ、分かりました、分かりました! お嬢ちゃんどついたあかんわ!」

「二人してそんなおっきい声で自己紹介せんでも大丈夫ですから」

 警察官が、今度は綺麗な敬礼をして白い自転車にまたがった。

「ほな、二人共気をつけて帰って下さいね」

「はい、すんません。すぐ帰らせます、ご苦労さまです」

 尾張は私の頭に大きな手を乗せて、走り去る自転車に向かって一緒に頭を下げさせた。後頭部がチリチリして、耳は火傷していた。

「……はあぁ、怖かったぁ!」

 顔を上げた途端、両膝に手をついて尾張は大きなため息をついた。

「お前が変な事言いだしたらどうしよかと……」

「こっちのセリフやし!」

 ベンチに倒れ込んで座ると、一気に体中の力が抜けていく。

 なんだか段々おかしくなってきて、ついに二人して笑いだしてしまった。

「さっきのなんなん? 尾張シュウイチです! って!」

「うるさいわ! 必死やったんや!」

「シュウイチなんて顔ちゃうやん」

「顔は関係ないやろ!」

 尾張はシュウイチみたいなしゅっとした感じじゃなくて、太郎って感じの顔だ。落ち着いたと思ったらまた顔を見て笑ってしまい、酸欠でめまいさえした。もう、全然怖くなかった。

「あぁ、面白かった」

「おれも久しぶりにこんだけ笑ったわ」

 呼吸がやっと整った頃、私は一番聞きたかった事を聞いてみた。どうしてここに現れたのかも聞きたかったけれど、それより。

「なんで、尾張は私の名前分かったん?」

「お前、尾張て……まぁ、ええわ。予想したんや。お前去り際に謎掛けみたいな事言うていったやろ」

「そんな事言うたっけ」

 忘れてはいないけれど、改めて言われると急に恥ずかしくなってそっぽを向いた。

「尾張の逆、ってなんやろってずっと考えてたんや。気になってな。それで、尾張の反対やから石川とか福井とかか? いやあいつ尾張の国も知らんかったからそれはないか。おわりの反対、始まり、始める……ハジメ、ハジメか? 名前か! ってな」

「え、こわ、マジで言うてる? 外れてたらどうしたん?」

「その時はまぁ……なんとか合わせてくれるやろと思って……」

「ほんま、アホやん」

 頭を掻きながら少しずつ小声になっていく姿が私より子供みたいで、私はまた笑っていた。親子でもおかしくない年齢のおっちゃんが自分の名前をひたすら予想していた。それはもう、一歩間違えればストーカーかホラーだ。なのに、尾張には嫌悪感なんて一切なかった。

「じゃ、今度はこっちが聞く番やな」

 やっと話せる。話せる相手が、目の前に居る。私は何故こうなっているのか、家庭の事情というやつも込みにして、話した。誰にも話した事なんてなかったのに、話した。

 尾張は私の話しをタバコを持ったり咥えたり回したりしながら聞いてくれていた。何故か、火は最後までつけなかった。

「なるほど、要するにお前は頼れる連れのおらん寂しい奴で、明日まで寝るところもない、と。ホームレス中学生やな」

「合ってるけど、言い方な」

「ふーん……」

 口元に手をあてて、尾張は黙ってしまった。そりゃあ、反応に困る話しだと思う。横顔を見ながら、全部話した事を少しだけ後悔した。

「別に寒くないし、このままベンチで……」

「うちで寝ろ!」

「へ?」

 変な声が出た。

「おい、ちゃうぞ! そういうアレのやつちゃうぞ!」

「警察の人もっかい呼ぶ?」

「アホか! 俺の部屋だけ貸したるってことや。朝になったら帰ったらええ。たぶん、なんか確実にあかん事のような気はするけど、ほっとくのも気悪いし、もう乗りかかった船や」

 正直、嬉しかった。部屋の事じゃなくて、私の事を考えてくれているのが、嬉しかったのだと思う。

「じゃあそうする」

「お、おう。今日だけやぞ、冤罪で捕まりたくはないからな」

「しゃーなし、黙っといたるわ」

「お前……しばくぞ金髪」

 家は私の家から少し遠かったけれど、ベンチからそう遠くなかった。歩いている間、尾張は私に色々話してくれた。さっきは銭湯の帰り道だったこと、あの警察官を自分の店で以前見たということ。なにより驚いたのは、彼が芸人をやっているということだった。

 テレビも見ないしスマホも持っていない私はお笑いを殆どみたことがなかった。売れていないと彼が言っても、舞台に立っているというだけで素直にすごいと思った。私には、全く想像も出来ない世界だった。

 

「静かにな、ここ壁薄いから」

「お邪魔、します……」

「汚いけど我慢せえよ」

 尾張の部屋は、思っていたより綺麗だった。アパートは古かったけれど、足の踏み場が無い自分の家や、いつか行った先輩の家なんかよりもずっと片付いていて、タバコを吸っているはずなのに全然匂いもしなかった。

「布団はさすがに使いたくないやろうし、洗ってあるタオルケット出しとくわ」

「うん」

「風呂も使うなら綺麗なタオルここに置いとく。あ、風呂掃除はちゃんとしてあるぞ」

「うん」

「飯は食べたか?」

「おにぎり、買ってある」

「それだけか? 三分だけ待っとけ。味噌汁作ったる」

「うん」

「ネギ、食えるか? 余ってるんや」

「うん」

「そうか、ええ子やな」

 尾張は、あっという間に言ったこと全部を用意してくれた。私が居所を決めて、上着を脱いだのとほぼ同時に、四角い机の上にお茶と湯気の立つお味噌汁と、小皿に乗った梅干しを持ってきてくれた。

「よし、これでええな」

 満足そうにうなずく。変な人だと思った。

「起きたら連絡……ってお前携帯ないんやな」

「ごめん」

「いい、いい。俺は合鍵もってネカフェかなんかで寝るから、朝出たら鍵しめてポストに入れといてくれ」

「分かった、そうする」

「ほな、行くわ。あんま色んなとこいらうなよ。ちゃんと鍵も閉めや」

「なぁ、私になんか盗られへんかなとか思わんの?」

「ええ子はそんなんせんやろ。あと、中坊にタバコ貰う奴の家に盗るようなもんがあるんなら、探しといてくれ」

「なにそれ、わけわからんわ」

本当に、変な人だと思った。

「……ありがとう」

 玄関を出る大きな背中に、呟いた。尾張は振り向かずに、片手を少しだけあげて出ていった。

「いただき、ます」

 その夜私は人生で初めて、お味噌汁を飲みながら、泣いた。

 布団からは、少しだけタバコの香りがした。

 

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