第7話 出立

 檜岳と小夜が五歳になった頃だった。

 ある朝、目を擦りながら起き上がった檜岳は、横に眠る小夜をちらりと見て、朝餉を用意している春日に告げた。


「ねえ、お母さん、今日は小夜の熱が高いみたい。真っ赤だもん。きっと風邪だよ」


 春日は驚いて小夜の枕元に駆け寄った。その顔は特に赤くもないように見えたが、念のため額に触れて確かめると、檜岳の言う通りの高熱だった。


「まあ、本当だわ。檜岳は小夜のこと、よく見てるのねえ」


 親でも分からない体調の変化までよく気がつくものだと感心して褒めると、檜岳はきょとんとした。その表情に、春日は小さな棘が刺さるような違和感を覚えた。


 他にも、同じような違和感を何度か繰り返してきた。


 拙いなりに、自分の目には熱を感知する力があると檜岳が説明した時、初めて春日はその違和感の正体を理解した。

 二人は同じものを見ているつもりで、実際は常に異なる世界を見ているのだ。


 誰からも理解されない、寂しい子。


 同情すると同時に、やはりこの子はただの人の子ではなかったのだと、春日はようやく認めざるを得なかった。


 結局、あの騒ぎがきっかけとなり、檜岳は春日の家を出ることになった。


 実は、蛇に噛まれた子供のうちの一人は、春日の娘の小夜だった。

 小夜と檜岳、同い年の二人の娘の間にある深い溝は、春日が作ってしまったようなものだ。

 その負い目があって、春日は小夜が檜岳に辛く当たるのを止められない。


 それは、三年前に小雪が嫁にいき、それから一年と空けずに春日の母が亡くなってから、急激に悪化した。


「お母さんなんて、いつも檜岳しか見ていないくせに」


 叱られた時、春日に向かっていつも小夜はこう反論した。その度に春日は怒って否定したが、実際は自分でもその通りだとと思っていた。


 檜岳を拾った時から、自分は変わってしまった。何よりも先に檜岳の心配をし、檜岳を目で追ってしまう。

 そのことは、いつもは優しい夫の当麻にもやんわりと指摘されたことがあった。


「檜岳ばかりじゃなく、もっと小夜に構ってあげたほうがいい」


 そう言われても、春日には二人の娘を同等に扱うことは出来なかった。


 檜岳は家事だけでなく畑仕事や狩りの道具の手入れまで率先して親の手伝いをよくし、親に反発することはほとんどない、いわゆる良い子だった。

 家族に迷惑をかけているという意識がそうさせるのだろう。春日はそんな檜岳をいじらしく思い、つい構ってしまう。

 一方の小夜は、一番に可愛がってくれていた祖母を亡くしてから、つまらないことで拗ねたり、我が儘を言って家族を困らせることが増えた。

 これほど態度の違う娘達を同等に扱うのは、そもそも難しいことだった。


「檜岳の方が、とか、檜岳だったら、とか比べるようなことを言わないで。檜岳が可哀想な拾い子だからって、お母さんはいつも檜岳ばっかり大事にする」


 喧嘩腰でこう言われると、春日もつい口が滑って、余計な言葉を口にしてしまう。


「そうね、実の娘も檜岳みたいな働き者なら、私ももっと助かったのに」


 後から考えれば、小夜の寂しさを埋める言葉をかけてやれば良かったと思うのだが、その時は頭に血が上っているので、どうしようもない。

 言い合いは頻繁になり、そのうち、小夜は春日ではなく、檜岳に当たるようになった。

 そして、どういうわけか、小夜と檜岳の間に衝突が増えるほど、檜岳の周りに蛇がいることが多くなった。


 そうやって完全に悪循環になっていたとき、とうとうあの騒ぎが起きたのだ。


《森に返すべきだと思う時が来たら、迷わずそうしてくれ》


 いつか男に言われたこの言葉が、これまでに何度も春日の頭によぎった。


 その日、顔を腫らしぼろぼろになって帰ってきた檜岳を抱きしめながら、とうとうその時が来たことを春日は感じていた。


 春日が心を決めると同時に、議会からも、檜岳が『覆』に選ばれたという旨の通達がきた。


 その晩には、翡翠が詳しいことを説明しに春日の家を訪れた。

 檜岳の性質が危険視されていること、しかし覆に相応しく心身ともに健康な若者であるから選ばれたということ。

 翡翠はそれを申し訳無さそうに語った。


 小夜は檜岳が覆になることを本気で喜び、春日と当麻は落胆したが、それを顔には出さずに、光栄です、とだけ答えた。


 これから檜岳は、一年後の儀式に備え、人との関わりを断って心身を清めなければならない。

 そのために鶯の集落を出て、王の館の裏にある今は使われていない薪小屋に移り、一人で生活する。

 その間、議会が指定した人間以外との接触は禁止される。


 もし、清めの期間に命を落とせば、風鷲さまへの供物としては不適切であったとみなされ、他の子供が選ばれる。

 一年後まで生き残れば、儀式で命を捧げることになる。


 翡翠が帰ってから、春日からこの話を聞いた檜岳は、まるで簡単な用事でも頼まれたかのように、うん、わかった、と軽く頷いた。 

 生け贄という言葉の意味を理解しているのか、春日が不安になるほど、檜岳の顔には何の感情も表れていなかった。


 翌朝、王の館から遣わされたという一人の老人が、檜岳のことを迎えに来た。身一つで、と言われていたので、荷物を持っていくことは許されなかった。

 草の繊維で織られた一枚の衣と鹿皮の靴だけが、檜岳が身につけているものだった。


 お母さん、泣かないでね、と檜岳は春日に大きく手を振ってから、去って行った。

 春日は当麻に肩を抱かれながら、家の前で小さな後ろ姿が見えなくなるまで見送った。


 結局、春日は最後まで、檜岳の出生の秘密について打ち明けることは出来なかった。




 それは檜岳にとって初めて歩く道のりだった。

 それぞれの集落には縄張りのようなものがあり、用がなければ他の集落や王の館にみだりに近づいてはいけない決まりなのだ。

 大人たちは余分な食糧を融通しあったり、森や道の整備を合同で行うこともあるが、檜岳のような子供なら当然、集落の縄張りの外に出たことがない。


 好奇心を抑えきれずに辺りを見回していると、先を歩いている連れの老人がこちらを立ち止まって振り返った。

 王の館から檜岳を迎えに来たこの小柄な老人は、背中が少し曲がっているが矍鑠としており、檜岳が小走りにならないと追い付けないほど歩くのが速かった。

 檜岳の両親の前では愛想よくしていたが、よく見ると白い眉の下に隠れた目は笑っておらず、何となく不気味な人物だった。


「ごめんなさい、きょろきょろしちゃって。集落を出るのは初めてだから、物珍しくて」


 言い訳しながら駆け寄る檜岳に、老人は目を眇めた。


「ふむ、お前はずいぶんと余裕があるようだ。覆として連れていかれる時は、どの子ももっとめそめそするものだがな」


 呆れたように言われるが、檜岳は思わず少し笑ってしまった。


「私がめそめそする暇がないように、あんなに速く歩いていたんですか」


 老人はふさふさした白い眉の片方を少しだけ持ち上げた。


「私に嫌味まで言えるとは、大したもんだ」

「そんなつもりじゃありません」


 慌てて手を振るが、老人は聞いておらず、独り言のようにぶつぶつ呟いた。


「よほど肝が座っているのか、ただ幼いだけか」

「まだ、よくわからないだけです。これから自分がどうなるのか」

「そうか。鈍いのか」


 老人はたいして興味なさそうに頷くと、またさっさと歩き始めた。


 川沿いに作られた道は幅はそれほど広くはないものの、しっかり土を盛られて歩きやすい。森と川に挟まれて半刻ほど歩くと、やがて小高い丘とそこに広がる王の館が見えてきた。


 館の正面へ続く道を外れ、裏手の森のほうに回り込むと、目的の薪小屋に着いた。

 老人はくるりと檜岳に向き直り、真顔で告げた。


「ここだ」

「ここですか」


 目の高さにある屋根の天辺を見つめながら、檜岳は間が抜けた声で繰り返した。

 人が住むために作られていない小屋を前にして様々な気持ちが過ったが、出来るだけ何も感じないように努めた。


「えっと、前の覆もここで一年過ごしたんですか?」

「いや、覆ごとで場所を変えとる。洞穴を使うことが多いな」

「なるほど」


 わずかな食糧だけを置いて老人はすぐに館に帰っていった。これからしばらくは、三日おきに館から食糧を運んでくれるらしい。


 これから檜岳が暮らす薪小屋は、木で組まれた骨組みに樹皮で壁が張られ、葦で葺かれた屋根は朽ち始めていた。

 床は土が剥き出しで、檜岳のような子供一人がやっと横になれる程度の大きさしかない。単に片付け忘れたのか、せめてもの恩情なのか、隅には薪が二束残されていた。

 正面に壁はなく、雨は凌げても風は防ぎようもない。


 一方、目の前の緩やかな丘の上に聳える王の館は、一つの集落と同じ広大さで、見たこともない立派な建造物だった。大小いくつかの建物を屋根つきの廊下で繋いであり、周囲を丸太を組んだ塀で囲ってある。


 王の館というからには、四鳥王の住まいなのだろうが、鶯の集落で育った檜岳は王の顔を知らず、王がそこで何をしているのかも知らなかった。

 薪小屋から見える側の塀には小さな通用門があって門番も立っているが、館には絶対に近づいてはいけないと強く言い聞かされており、そこは檜岳にとってまるで遠い世界だった。


 檜岳は薪小屋の小さな壁に寄りかかり、空を見上げた。

 青く澄んだ空には、二羽の大きな鳶が舞っている。降り注ぐ初夏の陽光が、野の花や草に眩しく跳ね返り、森は優しく木の葉の擦れる音を奏でている。

 檜岳以外の世界は、昨日までと変わらず、美しく、平和だった。


 そう感じるのと同時に、それまでどこか他人事のように遠くへ切り離されていた感情が、急激に実感を伴って襲ってきた。それは嵐のような激しい哀しみだった。


 いつかは家族と離れなければならない時が来ると思っていた。春日の愛情を確かに感じながらも、その目がいつも迷いに揺れていることに、檜岳は以前から気がついていたのだから。


 もし本当にその時が来るなら、絶対に泣いたりしないと決めていた。


 お母さんを悲しませたくないし、泣いたら負けた気がするから。



 哀しみは永遠に続きはしないことを、檜岳はすでに知っていた。そして哀しみだけで人は死ねないことも。ならば、苦しくとも生き続けるしかない。


 膝を抱えて座る檜岳に、縞模様の蛇がどこからかやって来て、滑るように足元に潜り込むと、ぴたりと身を寄せた。

 檜岳がその艶やかな細い体を撫でてやると、腕にしっとりと絡みついてくる。


「こういう時はいつも慰めに来てくれるね。お前たちとおしゃべり出来たらいいのに」


 檜岳の周りに蛇が寄ってくるのは、決まって悲しい時や辛い時だった。

 小夜には「檜岳が泣くと蛇が来る」とよく嫌がられたから、泣くのを堪える癖がついた。それでも堪えきれず涙がこぼれそうになると、決まって蛇が隣にいた。

 なぜこんなに蛇に好かれるのか自分でも不思議だったが、言葉は通じなくとも、この生き物との繋がりを常に感じていた。


「大丈夫、今日は泣かないよ」


 檜岳は無理に明るい声で蛇に話しかけた。

 お役目を貰ってここに来たからには、清めの期間をきちんと乗り切り、来年の春の儀式に臨むこと。  

 それが家族を含めて鶯の集落の皆が望んでいることだと、檜岳はよく理解していた。


「まずは、お家をきれいにしなくちゃ」


 檜岳は巻き付いた蛇を優しく腕から離すと、しっかりと立ち上がり、この小さな住まいを整えることに取り掛かった。

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