第8話 小屋

 ざるの上に、粟餅ふたつ、芋ひとつ、木の実一握り。


 最初に渡された食糧は、三日分というにはあまりにも少ないものだった。

 粟餅と木の実は初日に食べてしまい、残った芋ひとつをじっと見つめて、檜岳はため息をつく。


 この芋は、食べずにとっておこう。芽が出てから埋めれば、またいつか収穫できるかもしれない。

 そう考えて、口の中に溜まる涎を飲み込み、檜岳は他に食べられる物を探しに小屋の外へ出た。


 儀式について受けた説明によると、覆は儀式で生け贄として捧げられた後は、死後の世界で風鷲さまに仕えることになる。しかし、風鷲さまは心身が清浄であるものしか側に置くことを許さない。

 檜岳にはぴんと来ないが、人と人が関わるといらない穢れがついてしまうらしい。それを清めてからでないと、生け贄として相応しくないのだそうだ。


 とにかく檜岳にはっきり分かっていることは、自分がここで一年間生き抜かなければならないということだった。

 失敗すると、代わりに他の誰かが犠牲になる。せっかく生け贄に選ばれたのだから、立派に役目を全うしてみせたい。


 そう思いはしたものの、二日目にして、それはなかなか難しいことだと気づく。


 始まってみれば、清めとは『覆』の知恵と生命力を過酷な環境で試す期間なのだった。

 大人ですら、身一つでここに置かれて生き抜くのは、おそらく簡単なことではないはずだ。そもそも人は群れで生きる動物なのだから。


 唯一幸いだったのは、季節は初夏であり、森にはあらゆる種類の生命が溢れていることだった。


 それからの檜岳は、一日のほとんどを森で食糧を探すことに費やした。

 山桃などの木の実を摘み、山菜や茸を採り、川の水を手で掬って飲んだ。

 効率よく食糧を集めるには道具が大事だということにすぐ気づき、夕食の後は、藁で縄をなったり、拾った蔓で籠を編む時間にした。

 その籠で作った罠を仕掛ければ、川魚が捕れることもあった。

 黒曜石を河原で見つけ、砕いた破片を小刀がわりにすると、魚を捌いたり木の皮を剥いだりするのも随分楽になった。

 暮らしを良くするために試行錯誤を繰り返していると、毎日は飛ぶように早く過ぎていった。


 そんな隠者のような暮らしの中でも、森や丘の下で館の人間に出会うことは少なからずある。

 特に、川から引かれた水場の周りにはいつも洗い物をしたり水を汲んだりする人がいて、そこに行けば誰かしらと顔を合わせることになる。


「ねえねえ、昨日の夕食、ちょっと味つけがおかしくなかった?」

「そうだっけ。私は何でも美味しく食べられちゃうから、いつの間にかこんなお腹よ。それより聞いてよ。うちの旦那がさあ」


 ある日の水場で、檜岳より一回りほど歳上の娘達が、洗濯しながら他愛のないおしゃべりに興じていた。

 そこに檜岳が近づいていくと、娘達は一斉に口を閉ざし、わざとらしく目を逸らした。

 その白けた空気がいたたまれず、檜岳は置いてある柄杓で一杯水を掬って飲むと、逃げるようにすぐにその場を離れた。


 また別の日は、水桶を担いで水を汲みに来た男とすれ違った。近くでまともに目が合ったので、試しに檜岳から挨拶をしてみた。


「おはようございます」


 男はじろりと威圧するように檜岳を一瞥するだけで、結局挨拶には応えず行ってしまった。


 さらに違う日、汚れた皿を洗っている中年の女にも声をかけた。


「あの、こんにちは。いいお天気ですね」


 もしかしたら母親のような世代なら優しい言葉をかけてもらえるかもしれないと、わずかな期待を持っていた。

 女はこちらに気づき、一瞬だけ憐れみの表情を向けた。しかし、やはり返事はなかった。


 覆とは接触してはいけないという決まりは、館の人間に厳格に守られているらしい。

 考えてみれば、三年ごととはいえ、館の人間は覆の扱いに慣れているのだ。その姿を見て見ぬふりをするのは、いつものことなのだろう。

 覆というその呼び名の通り、檜岳は自分の姿が見えない何かに覆われて、包み隠されているように感じた。

 ましてや、覆は人間扱いされる存在ではない。獣が住むような場所に住み、獣のようなものを食べ、獣のように小汚ない身なりをしている。明らかに異質で、近寄りたくないものだろう。


 お互い気まずい思いをするだけだと、こちらから声をかけることをしなくなり、わざと人と会わない場所を選んで動くようになった。

 人の気配は近くにあっても、相手から自分が存在しないように扱われるならば、自分にとっても相手が存在しないのと同じだった。


 朝起きてから、夜寝床に入るまで、誰とも言葉を交わさない。


 それは集落での孤立とは比較にならないほどの孤独だった。

 あの頃は、どんなに外で冷たい目で見られても、家に帰れば抱き締めてくれる両親がいたのだ。思い返してみれば、鶯の集落では辛いこともあったが、幸せな思い出も沢山あった。


 しかし、ゆっくりとそんな感傷に浸っている暇は無かった。

 薪小屋に連れてこられてからひと月もしないうちに、三日に一度の館から食料も届かなくなり、完全に一人の力で生きなくてはならなくなったのだ。

 命綱が切られたも同然だった。

 十分にお腹が満たせる日などほとんどなく、日毎にどんどん体は軽くなった。もともと着ていた草の繊維の衣は、成長できつくなるどころか、幅はむしろ緩くなった。

 この清めの期間に飢え死にするのは、誰の役にも立たない最も無駄な死に方だ。

 痩せていく身体を自分で眺めながら、檜岳は危機感を募らせた。


 どれだけ森が豊かでも、山菜や茸ばかりでは腹は膨れない。かといって川魚は毎日獲れる訳ではなかった。鳥や兎など、獲物は小さくても、狩りが出来るかどうかがこれからの生死の分かれ目になると思えた。


 檜岳は藁を編んで投石具を作り、それで狩りをする訓練を始めた。

 投石具とは細長い紐の真ん中が石を包むために太くなったもので、その名の通り石を投げるために使う。


「こんなものかな」


 出来上がった投石具をひっくり返して弱い箇所がないかよく確かめながら、檜岳は呟いた。

 投石具は子供の遊びによく使われていたので、作るのは慣れたものだった。

 すぐに立ち上がって手頃な石を拾い、試し打ちをしてみる。


 手首に紐の輪を引っかけて、真ん中の幅広に編んだ部分に石を挟み込み、反対側の紐の端を手に握りこむ。

 振り回して勢いをつけてから手を離すと、石はある程度狙った方向に飛んでいった。飛距離も中々で、思ったよりも手応えを感じた。

 しかし、集落では的当ての遊びとしてやっていたことで、動くものを狙ったことなどない。

 いきなり本番というわけにはいかず、木の幹に刻んだ印を的にして距離や角度を変えながら、何度も練習を繰り返した。


 死にもの狂いで練習した結果、投石具は何度も壊れて作り直す羽目になった。

 しかし、その甲斐あって、四日目にして川辺にいた水鳥を仕留めることが出来た。

 久しぶりの動物の肉の味は思わず呻き声が出るほど美味しく、確かに自分の血肉となる実感があった。


 来年の覆の儀までは絶対に生き残ってみせる、という意地だけが檜岳を支えた。知恵と体力を振り絞り、何とか一日一日を生き抜いた。

 そうやって目の前のするべきことだけに意識を集中させるほど、哀しみは薄く、遠くなっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る