第5話 蛇の娘
集落にある春日の家に連れてこられ、薬師による傷の手当てを受けても、男の意識は戻らなかった。
今、赤子は、部屋の隅に置かれた蔦の籠の中ですやすやと寝ている。
この子を拾ったのが、同じくらいの子供を持つ自分で良かった。五ヶ月ほど前に生まれた娘の小夜は、ちょうど乳離れを始める時期で、春日は拾った赤子に充分な乳を与えることができた。
小夜はしっかり首が座っているので、今日は春日の母がおんぶして畑仕事をしながら面倒を見てくれている。
春日の夫の当麻も、夜明けから狩りに出ており、残った春日と小雪は炉の前に並び、干し草で敷物を編んでいた。
昨日、興味津々で男に張り付いていた小雪は、炉の向こうに眠る男の様子を時折気にしながら作業している。
見知らぬ男と赤子の存在は、物置にしている玄関の間と炉を囲んだ居間の二部屋しかない小さな家を、息苦しく感じさせた。
「お母さん、お母さん」
手元に集中していた春日の肩を小雪が横から揺すった。見ると、寝ていた男の瞼が薄く開いている。
まだはっきりと覚醒していない様子の男に、春日は近づいて穏やかに声を掛けた。
「目が覚めたのね。水が飲めるかしら」
男が頷くのを見ると、春日が男の背中に手を添えて起こすのを手伝った。湯冷ましが注がれた椀を小雪から受け取ると、男は音を立ててそれを飲み干した。
「ありがとう」
椀を小雪の手に返して、男は礼を言う。初めて聞くその声は、少し変わった抑揚が耳についた。
「どういたしまして」
小雪は嬉しそうに笑顔で答えた。男が再び横になると、春日はその体に毛皮をかけ直した。
「私は春日、この娘は小雪よ。昨日、森で倒れていたあなたを私たちが見つけたの」
あら、見つけたのは私よ。小雪が口を挟んだ。大人の話に割り込んではいけない、と目で叱ると、小雪は拗ねて、玄関の方へ行ってしまった。
「私は康岳だ。季火国から来た」
小雪が消えてから、男は再び口を開いて自らの名を明かした。
季火国は四鳥国の東にある国だ。季火国は女や子供、老人などは一つの場所に定住し、男や独身の女は季節ごとに移住する暮らしをしていると聞いたことがあった。
さらに季火国を越えた東には巨大な帝国があると聞くが、ほとんど閉ざされた暮らしをしている四鳥国の民にとって、帝国はおろか季火国ですら身近には感じられない存在だった。
男が次の言葉を告げる前に、春日は男の口許を遮った。
「それ以上の事情は教えないで。あなたは怪我を治すまでここにいていい。けれど、その後は出ていってもらうわ」
冷たいようだが、春日も家族を守らなければならない。刃物で斬り合うようないざこざに、余計な首を突っ込んで危険を招きたくはなかった。
「もとよりそのつもりだ。心配しないでくれ」
拒絶の意図が伝わったのか、男はそれきり言葉を発しない。またすぐに眠ってしまうのかもしれないと思い、春日は男も気になっているであろうことを伝えた。
「赤ちゃんは無事よ。あの籠の中にいるわ。だから、安心して」
「赤ん坊……そうか。夢ではなかったのか」
そう呟き、男は再び目を閉じた。
その後も男の具合は芳しくなく、翌日も、その翌日も、意識のある時間は長くなかった。
その日家に残っているのは、春日と男、それに赤子の三人だけだった。
途中、鶯の族長の翡翠が様子を見に来たが、男がまったく目を覚まさないので、一言も話すことも出来ずに帰っていった。集落に他の国の者が訪れるのは非常に稀なので、族長として次の議会で説明が求められるのだろう。
「春日どの」
春日が呼びかけに振り向くと、横たわったまま男がこちらに目を向けていた。その瞳は熱で赤く充血していたが、意識ははっきりとしているようだった。
「申し訳ないが、私が死んだらあの子を引き取って貰えないだろうか」
唐突な言葉に春日は面食らった。
「心配しないで。きっと良くなるわ」
春日は努めて明るい声で答えた。実際、傷は膿んでいるわけでもなく、むしろ塞がりつつある。しかし、高熱が続いて全身状態は悪くなる一方だった。
「この体がいつまでもつか分からない。あの子の身の上について話しておきたいのだが」
春日は何も答えず俯いた。最初言葉を交わしたとき、そちらの事情は知りたくないと伝えてあった。だからといって、最期を覚悟して語ろうとする男を前に耳を塞ぐことは、さすがに胸が痛んだ。
「頼む。聞いてほしい」
仕方なく、春日は頷いた。家族の誰もいないこの時ならば、聞いたことの全ては自分の胸のうちにしまっておけばいい。
渋々春日が了承したのを見て、男は安堵して語り始めた。
「実は、あの子は、私の子供ではないのだ」
「そう」
それは春日も薄々気が付いていた。男が赤子を見つめている時、その目に憐れみのようなものは浮かんでも、父親らしい温かみは感じられなかった。
「あの子は拾い子だ。季火を出てから、森の中で拾った」
「あの子の母親も一緒だったの?」
「いや」
では、生まれたばかりの赤子が森に置き去りにされていたのだろうか。
「母親の姿はそこにはなかった」
男は一旦言葉を切ると、次に、信じがたいことを口にした。
「そこにあったのは、卵だ。蛇の卵からあの子は生まれたんだ」
「どういうこと」
春日は思わず土気色に浮腫んだ男の顔をじっと見つめたが、ふざけている様子はない。
「本当なんだ。私も夢かと思ったが、あの子は確かにここにいる。奇妙な話だと自分でも分かっているが、どうか黙って聞いてくれ」
男の必死な様子に、春日はとりあえず話の続きを聞くことにした。
「私はある争いに巻き込まれ、傷を負った。それでも何とか森の中に隠れて、やり過ごすことができた。そのまま森を進み続けたが、疲れて大きな檜の木にもたれて休もうとした。
そのとき、靴の裏で何か土以外のものを踏む感触があった。足元を見ると、割れた白い卵の殻とその中から覗く細長い生き物の姿で、それが蛇の卵だと気づいた。
檜の根元におかれた卵はいくつかあったが、その内の一つは異様に大きく、私は思わず引き込まれて一歩近づいた」
そこで男は暫く咳き込み、春日は慌てて椀に白湯を注いで飲ませた。
「それは他のよりも青白く、人の頭ほどの大きさがあった。見ていると、ふと、卵が小さく揺れた気がした。そして、微かな音と共に殻に大きな亀裂が入った。次にそのひびを押し広げて、小さな人の手のようなものが出てきた。
私は驚いて声をあげることもできなかった。小さな手がもがくように動くと、全体に細かなヒビが入って卵の殻が崩れ、中から小さな赤ん坊が現れた。全身が透明な液で濡れていて、まるで鳥の雛が孵った時のようだった」
男の静かな語りはかえって生々しく、春日は背中に冷たい汗をかきながら聞き入っていた。
「その子はすぐに声をあげて泣き始めた。泣き声は普通の赤ん坊だったが、とにかく気味が悪かった。一度は忘れて歩きだそうとしたのだが、ふと里に捨ててきた家族の姿が頭によぎった。気づくと、私は再びその檜の下に戻っていた。あの子はまだ泣いていた。それで結局、ここまで連れてきたのだ。
あの子を養うことで、血縁に関わる面倒は何もないだろう。ただ、人の理の外にあるものについては、何とも言えぬ。春日どのが、森に返すべきだと思う時が来たら、迷わずそうしてくれ」
話し終えた男は、すぐにまた眠りに落ちていった。その苦しそうな寝顔を見ているうちに、春日は次第に落ち着きを取り戻した。きっと、怪我をして森の中をさ迷う間に、恐ろしい幻覚を見たのだろう。
聞いた話は、誰にも話さないほうがいい。
赤子がむずがりだしたので、春日は赤子の入った籠を手元に寄せ、おくるみごと抱き上げた。
そろそろお腹が減ったのかもしれない。近くでじっくり顔を眺めても、先ほどの怪談めいた話が目の前の赤子と関係しているようには見えなかった。
日に透ける茶色の髪を持ち、見上げる薄茶の瞳が円らな、愛らしい顔だちの子だ。この子が、まさか蛇の卵から出てきたなどとは到底ありえない。
この話をしてから数日の後、男は全身を痙攣させ、あっけなく亡くなった。
議会の決定で、骸は集落から離れた場所に埋められ、墓標も立てられなかった。赤子につけられた檜岳という名前だけが、男がここに残したものだった。
檜岳が家族に加わってから、あっという間に季節がひとつ過ぎようとしていた。
その日、昼前に狩りから戻って来た夫を出迎えた春日は、小夜をおんぶしながら、玄関の間で狩りの道具を片付けていた。すると、それまで静かに寝ていた檜岳が、籠の中からふにゃふにゃと声をあげて泣きだした。
「檜岳ちゃん、どうしたのお」
小雪が中を覗き込むと、大人の手の平に乗るほどの小さな黒い蛇が、檜岳の太ももの横を音もなく這っていた。
小雪はきゃあ、と大きな悲鳴を上げて尻餅をついた。当麻が駆けよって、素早く蛇の首を掴み、すかさず窓の外に放り投げた。
「ふう。幸い、檜岳は噛まれたりしていないようだな。それにしても、肝が冷えた」
当麻に抱き上げられ背中をさすられると、檜岳はすぐに泣き止み、嬉しそうに微笑んだ。頭が大きくずんぐりとした体型のこの夫は人が好く、檜岳のこともあっさりと受け入れてすでに実の娘のように接している。
「びっくりしたあ。蛇が家の中にいるの、珍しいねえ」
座り込んでいた小雪も、立ち上がると、父親と顔を見合わせて首を傾げた。
森の中や畑の周りでは頻繁に蛇を見かけるが、家の中まで入り込むことはめったになかった。
玄関から一部始終を見ていた春日は、嫌な予感に胸を締め付けられ、立ち竦んでいた。
この予感を裏づけるように、それから檜岳の周りには度々蛇が現れるようになった。
時も場所も選ばず、大小も種類も様々な蛇が檜岳の側に近づいてきた。
不思議なことに、蛇たちは絶対に檜岳を傷つけることはなく、ただしばらくの間近くに寄り添って、いつの間にか消えていた。
議会にも何度か蛇に関する苦情が出され、やがて、そのことは鶯の集落だけではなく国中に知られるようになってしまった。
死ぬ前に男から聞いた話を春日は誰にも漏らさなかったが、檜岳は『蛇の娘』と陰で呼ばれるようになっていた。
檜岳は集落内で孤立し、春日たち家族も肩身を狭くして暮らすようになった。
「そっちに行ったぞ」
「おい、待て。逃げるな」
集落の端の広場に集まって、八人の子供たちは獲物を追いたてる声をあげた。
追われているのは、細長い布で目隠しをされた檜岳である。肩の長さで揃えた癖のある茶色の髪と、頭の後ろで結ばれた布の端がふわりと風に靡く。
時々四方から飛んでくる小石を器用に避けながら、檜岳は広場の中をぐるぐると走り続けた。
赤子の檜岳がこの集落に連れて来られてから、すでに十一年の月日が過ぎていた。
拾われ子という変わった境遇にありながらも、家族、特に母親となった春日に可愛がられたおかげで、檜岳は頭も身体も人並みに健やかに成長した。
しかし、本人にとってはこの十一年間は決して楽しいばかりの日々ではなかった。
そして悲しいことに、この日もそうだった。檜岳は肩で息をしながら、この遊びがいつ終わるのか、そればかりを考えていた。
「よおし、当たれ!」
斜め後ろから声がする。檜岳は立ち止まりすっと頭を下げた。頭上を小石が通り過ぎると、すぐに向きを変えて走り出す。
これは、小夜と二人で始めた遊びだった。
檜岳は元々、周囲の動くものの気配を感じるのが得意だった。
目で見るのではなく、耳で聞くのでもなく、空気や地面の震えを肌で感じるのだ。そう説明しても、誰にも理解してはもらえなかったが。
そのお陰で、見えない場所から投げられた小石も、上手く避けることができた。目隠しをしても小石が避けられるのを見ると、小夜は喜んで褒めてくれた。
そうやって始まった遊びが、最近は少しずつ変わってきていた。
子供たちは、目隠しをした檜岳を獲物に見立てて、狩りを始めたのだ。
各々の手に小石を握りしめ、檜岳に向かって投げつけながら、追いかけ回す。皆が飽きるか、見かねた大人が注意したりするまでそれが続く。
小夜はこの遊びを大変気に入っていて、参加しなければご機嫌を損ねる。
檜岳は多少の痛い思いは覚悟の上で、獲物の役を引き受けるしかなかった。
「いたぞ!こっちだ」
「よし、囲め」
ひとつの倉の裏に逃げこんだ檜岳は、両側から挟まれる形になった。目隠しの布越しに漏れる子供たちから発せられる赤い光と、動くものの気配を頼りに、檜岳は逃げまどった。
直接は追いかけて来ない子供達も、遠巻きにこの様子を見て、口々に歌い、囃し立てる。
かーらす、からす
蛇など離せ
かーらす、からす
わからにゃ喰うぞ
かーらす、からす
残りは何羽
にーげろ、にげろ
尾羽をつつけ
それは鬼ごっこなどをするときに、よく使われる歌だった。歌の中の烏のように、檜岳は徐々に追い詰められていく。
一人の子が、戯れに小石とは言えない大きさの石を拾い、檜岳の後頭部に向かって勢いよく投げつけた。
大きく重量のあるものが後から近づく気配に、檜岳は咄嗟に横へ避けた。
その石が、運悪く他の少年の額に当たった。
鈍い音と共に石は地面に落ちて転がり、少年は両手で額を押さえながら呻いた。それを聞いた檜岳は決定的な失敗を悟った。
「痛い!何するんだ、このやろう」
頭に血がのぼった少年は、腕を振り上げて檜岳に殴りかかってくる。手首を掴まれ正面から拳で顔を殴られた檜岳は、そのまま仰向けに倒れこんだ。
目隠しが外れ、他の子供たちも自分を取り囲むのが見えた。
「生意気だ」
「ここから出ていけ、蛇女」
子供たちの容赦ない蹴りが次々と頭上から降ってくる。檜岳はなんとか身を守ろうと、腕で顔を覆い、身をよじって体を丸めた。
「助けて!助けて!小夜!」
檜岳は必死に同い年の姉の名を叫んだ。交差させた腕の隙間から、その顔が一瞬垣間見えた。
黒い前髪の下の黒い瞳は、昏く楽しげに揺れていた。
「小夜!」
頭に強い衝撃を何度か感じた後、檜岳は気を失っていた。
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