第4話 季火国

 長い夜だった。


「康岳はどこへ行った。探せ」


 松明を掲げた族長の怒号が響く。その声を受けて、剣の柄に手をかけた男達が、皮をつなぎ合わせた天幕を一つ一つ乱暴に捲り、中を改めていく。

 一人か二人で住む移動式の小さな住居なので、中は狭く、隠れる場所はほとんどない。しかし、二十張ほどの天幕を全て確認しても、探している男は見つからなかった。


 突然始まったこの捜索の行方を、若い女達が一ヶ所に集まって不安げに見守っていた。


 そのうち最も年若い一人のお下げ髪の娘、荷夏は、族長の娘の一人である。荷夏は顔を真っ青にして、小柄な身体を小刻みに震わせていた。

 不安を堪えるようにその両手で強く握っているのは、彼女の姉が愛用していた短弓で、姉が手ずから削り出したこの弓は、荷夏が成人して狩りに加わるようになった時にお下がりとして貰ったものだった。


「どこに行ったの、義兄さん。姉さんが里で待っているのに」


 そう呟いて目を瞑ると、姉の幸せそうな笑顔がまぶたの裏に浮かび上がる。辛いつわりも治まり、最近やっとお腹が大きくなってきたという姉。


 つい半年前までは一緒に狩り場を駆けていた男勝りな姉も、今は里で自分達を待つ立場になり、帰る度に少しずつ大きくなるお腹を自慢げに見せてくれる。

 大柄な体のわりに静かで理知的な義兄と、小柄だがいつも賑やかで明るい姉は、対照的な組み合わせだ。二人はいつも仲睦まじく、まだ添い遂げる相手の決まっていない荷夏には羨ましいほど似合いの夫婦だった。


「族長、天幕には荷物や剣はそのまま残っていましたが、弓矢はありませんでした」


 康岳の天幕の様子を確認してきた男が、族長に向かって報告した。それはさっき荷夏自身が自分の眼で確かめたことであった。


 生真面目な性格の通り、そこにはきちんと整えられた義兄の荷物が残っていた。畳まれた布に一本の黒い羽根が載っていて、それが不気味でいやに目を引いたが、それ以上特に変わった様子もなかった。


 さらにもう一人の男が続ける。


「全ての天幕を改めましたが、康岳の姿はありません」

「では、森に入って探せ。康岳は弓を持っている。注意しろ」


 父親の号令に、二十人以上の男達が、松明を手に一斉に森に向かって散っていった。


「裏切り者はその場で斬り捨てろ」


 父親は怒り狂って吠えている。


 義兄は本当に見つかり次第殺されてしまうだろう。

 里で待つ姉のためにも、怯えているばかりでは駄目だと思い直し、荷夏も弓を担いで松明を握り、青い顔のまま駆け出した。


 季火国の民は台火という名の里を拠点に暮らしていた。

 女や老人は台火にある茅葺きの住居に残って、田畑を守り子供を育てる。一方、男やいまだ子供を持たない女は、血縁による小集団を作り、台火と狩り場を数日かけて行き来しながら、狩猟を行う。

 それぞれ狩り場が重ならないように連携しながら、季節ごとにその場所を変えていた。


 獲物を追いかけて移動するその小集団には、また、隊商としての機能もあった。移動の傍らに近隣の国と交易を行い、獣皮や絹織物と引き換えに塩や香料を手に入れる。品物を狙った襲撃に備え、特に男達は、普段から狩猟の腕だけではなく戦うことについても厳しい訓練を積んでいる。


 今回、荷夏達は帝国との国境の街である棚井で交易を行い、里に戻る途中だった。長い行程を約半分終えて、あと五日ほどで台火に着くという所まで来ていた。やっと今日の夜営地を定め、各々が天幕の前の焚き火で食事をとって寛ぎ始めたとき、族長がその異変に気づいた。


 荷に不自然に掛けられていた筵を捲ると、中にあったはずの、季火王に献上する大きな宝玉が納められた箱が消えていたのだ。その上、玉とともに帝国から派遣された使者の姿も天幕から忽然と消えていた。

 族長はすぐに康岳を呼んで帝国の使者と玉を探させようとしたが、その康岳は、荷運び用の馬に水を飲ませに行くと言って、近くの川へ向かったまま、一刻以上経っても戻っていなかった。


 あっという間に、康岳と使者が手を組んで玉を盗んで逃げたのでは、と大騒ぎになった。


 男達は武器を持って集められ、捜索が始まった。しかしこの段階ではまだ、康岳が裏切ったかもしれないということは、族長を始め皆が半信半疑だった。

 その疑いが決定的となったのは、康岳が向かったという川へ探しに行った若者二人が、使者が遺体で見つかったという恐ろしい知らせを持ち帰った時だ。


 自分の天幕の前で報告を待っていた族長は、ほとんど掴みかかる勢いで二人を問い質した。


「一体、どういうことだ」

「私が見つけた時には使者殿は川辺にうつ伏せに倒れていて、すでに息はありませんでした。背中から弓で数ヵ所射られていたのが死因と見られますが、指が一本切り取られていました」

「その矢は調べたのか?」


 二人の若者たちは合図するように互いに目配せをして、頷いた。


「はい。矢の篦には二本の黒い線が入っていました」


 その答えに、族長の瞳が大きく開かれる。


「二本の線、それは本当か?」

「はい」

「族長、私も一緒に確認しました。間違いありません」


 このやり取りを族長の隣で聞いていた荷夏は、膝ががくがくと震えるのを感じた。

 季火人の使う矢は獲物を仕留めた時に所有者が判別出来るように、それぞれ篦に特徴的な印をつけてある。二本線は、使われた矢の所有者がこの一族で二番目の地位にあることを示しているのだ。


 この事実に、皆の目の色が変わった。


「康岳め、何ということをしでかしたのだ」


 族長は青筋を立ててわなわなと震えていた。


 康岳は荷夏たちの一族の中では族長に次ぐ地位にあった。それは族長の娘の夫というだけでなく、字の読み書きに加えて帝国式の算術を扱える季火国でも珍しい人材だったためである。

 男女問わず楽観的で大胆な性格が多い季火国において、ともすれば不利に進められがちな帝国人との交渉を、慎重かつ緻密に行えるという面で康岳は非常に重用されていた。

 さらには、近いうちに季火王の側近として仕える予定まであった。


 族長はそんな娘婿の能力を高く買っていただけに、裏切られたという思いが強く、完全に逆上している。


 献上品の宝玉は、棚井の街で同盟の証として国境を守る帝国の五堂将軍から預かったものであり、紫水晶の美しい玉だった。

 しかし、玉そのものの価値より、二つの国の関係を強める意味で大事な品だった。使者の命と紛失した玉、たとえ族長一人の首を差し出したとしても、それで許されるものではないだろう。

 一族を守るためにも、族長は玉と康岳の捜索に必死にならざるを得ない。


 一方、父親と違い、荷夏には義兄が盗みやまして殺人など行わないという確信があった。

 絵に描いたように生真面目で、野心の欠片も持ち合わせていない義兄に、盗みほどそぐわないものはない。ましてや、初めての子の誕生を、義兄がどれだけ心待ちにしていたのかを、荷夏はよく知っていた。


 一体何の間違いでこんな騒ぎが起こっているのか。

 荷夏は、悪夢の世界にでも迷い込んだような、目眩のするような気持ちの悪さを感じながら、あてもなく夜の森を進んでいた。


「義兄さん、康岳義兄さーん」


 呼び掛ける声も、鬱蒼とした森の闇に吸い込まれていく。何度も呼び掛け続けたせいで、もう声が掠れていた。我慢できず、立ち止まってこんこんと咳をした。


「荷夏」


 気を抜いた瞬間に突然後ろから声をかけられ、荷夏は飛び上がるように素早く振り返った。松明をそちらにかざすと、暗闇に見知った顔が浮かび上がる。康岳だった。


「義兄さん、一体何があったの。どうしてこんなに遅くまで戻って来なかったの?」


 駆け寄ろうとして、しかし躊躇した荷夏に、義兄は微笑んで近づいてくる。


「心配をかけてすまなかった。わざわざ探しに来てくれたのか。明かりを持ってこなかったから、難儀していたんだ。ありがとう」


 普段通りの義兄の様子に、荷夏は肩の力が抜けていくのを感じる。


「荷運びの馬が逃げ出してしまってね。追いかけていたんだが、結局見失ってしまった」

「馬?」


 確かに康岳は今、馬を連れていない。水を飲ませる短い間に逃げられるとは、なんと間抜けなのだろう。しっかり者の兄らしくない失態である。


「馬がいなくなったのも大変だけどね。もっと大変なことが起きてるのよ。義兄さんがいない間に、玉が失くなったの」

「玉?何のことだ」


 怪訝な康岳の表情は、とても演技しているようには見えない。やはり康岳は玉が消えたことには無関係だったのだと、荷夏は安堵した。


「献上品の玉が消えて、使者殿が殺されているのが見つかったわ。皆は義兄さんが盗んだって言ってる」


 事態の深刻さが伝わったのか、一瞬で康岳の顔つきが険しくなった。しかし、無言で腕を組んで思案する姿は、ひどく動揺している訳でも無さそうだった。


「父さんも、義兄さんが使者殿を巻き込んで玉を盗んだって思い込んでる。見つけ次第殺せって息巻いてるわ。早く戻って説明しなきゃ。私も一緒に行くから」


 荷夏は考え込む康岳の袖を掴み、急いで皆の所へ戻ろうと引っ張った。しかし、康岳はそこから動かず、代わりに荷夏の手をゆっくり外した。


「荷夏、私は戻らない」

「なぜ。父さんも私が一緒なら、いきなり斬りつけたりはしないわ」

「そうかもしれないが、どうやら私は嵌められたようだ。私が今皆のところに戻っても、相手の思う壺になる」

「玉を盗んだ者が、義兄さんに罪を着せようとしてるのね」

「そうだ。私が玉を盗んだように見せるため、わざと私がいない時間を狙って、玉が盗まれた。馬を繋いでいた綱にも、まるで刃物で切ったような跡があったし、馬も妙に興奮していて、おかしいと思っていたんだ」

「そいつが使者殿も殺したのね」

「おそらく」

「でも、使われた矢は義兄さんのものだったの」

「私は自分の天幕に弓と矢を置いて来たんだ。それを上手く利用されたんだろう」

「そんなこと、一体誰が」


 荷夏はごくりと苦い唾を飲み込んだ。義兄は周到に準備された罠に嵌められたのだ。


 ここは周囲が森に囲まれ、近くに人里もない場所だ。玉を盗み出したのは、たまたま通りがかった賊か、旅の仲間の誰かということになる。しかし、賊には手の込んだ罠を準備する必要などないだろう。


「心当たりはあるが、お前たちを危険に晒すことになる。聞かないほうがいい」


 康岳は首を振る。そう言われても、このまま何も聞かないで済ませられるわけがない。本当に使者を殺して玉を盗んだ人間が、まだ近くにいるかもしれないというのに。


「そう言っても、このまま玉が見つからなかったら、父さんが責任を取らされることになるのよ」

「私が盗んで逃げたことにすればいい。この辺りを探しても玉は見つからないだろうが、捜索を続けることで時間は稼げるだろう」


 康岳の意思は変わらない。荷夏にこれ以上の情報を与えるつもりはないらしい。


「何か考えがあるのね」


 康岳は荷夏と目を合わせて頷いた。


「玉が行き着く場所は予想がついている。上手く取り戻せるかは分からないが、やってみるしかない」


 突然こんな事件に巻き込まれたというのに、康岳はとても落ち着いて見える。まるで予め想定していた事態だという態度に、荷夏の気持ちも落ち着いて来た。混乱の大きな波が去れば、ふと里で待つ大事な人のことが再び頭を掠めた。


「姉さんには何て言えばいいの」


 知らず声に出してしまった呟きに、康岳は荷夏の肩を抱いて強く引き寄せた。


「この後何が起こっても、私を信じろと伝えてくれ」

「うん。でも、姉さんは義兄さんを疑ったりはしないわ」

「そうだな。あとは、お腹の子をよろしく頼む、と。さあ、今すぐ夜営地まで戻るんだ。私にここで会ったことは誰にも言うな」


 康岳は荷夏を押し出すように引き離すと、自分は一歩後ろに下がった。


「分かった」


 荷夏は背を向けて、勢いよく走り出した。

 その、つもりだった。


 一歩踏み出した瞬間、荷夏は背中に殴られたような強い衝撃を感じ、そのまま土の上に倒れ込んだ。それと同時に、荷夏が握りしめていた松明の火がじゅっと音を立てて消え、周囲が闇に包まれた。

 あまりにも突然の出来事に、一体自分の身に何が起こったのか分からない。遅れてやって来た強烈な違和感と痛みで、背中に何か刺さったと気づいた。

 手探りで背中を触ると、指先が篦に触れたが、それでも自分が射られたということが信じられなかった。


「なに、これ」


 反射的に矢を自分で引き抜こうとするが、痛みは激しくなるばかりで、そんなことは不可能だった。


「荷夏」


 義兄の声が自分を呼ぶ声が聞こえる。両手をついて顔を上げ、義兄さん、と声を上げようとしたところに、今度は肩と首に衝撃がきた。

 喉に熱いものが満たされて、そのまま口から溢れてくる。息が苦しくて咳き込むと、余計にたくさんのものが流れ出る。

 痛みも苦しみもそう長くは続かなかった。

 瞼の裏に浮かぶ姉の笑顔が泥のように流れて泣き顔に変わっていき、やがて何も見えなくなった。

 

 暗闇の中で、今、自分は誰かに殺された、ということが荷夏にははっきりと分かった。



「ねえ。あの男の方は本当に殺さなくていいの?」


 まだ子供のような甘さの残る少年の声が、樹上で囁く。夜が明けて、追いかけっこにも飽きてきたのか、気だるい声だ。

 そもそも、明かりも持たず闇雲に森の中を逃げ回る男を、こちらの姿を見せずに追跡あるいは誘導するという地味な役は、待望の初仕事に張り切っていた彼にとっては退屈なものだった。


「殺してしまってはこの後の辻褄が合わなくなってしまうからな。むしろ、あの男の遺体が見つからないほうが都合がいいから、ここまで後をつけてきたんだろう」


 答えたのは、少年よりも少し年上に見える女だ。少年の寝そべる枝より高い枝の上に立って、眼下の森を見下ろす。その細い腰に巻き付けた帯には、丸い形に膨らんだ巾着が下がっている。


「そんなこと分かってる。でも、すっきりしないな」


 少年はまだ不満そうだ。大儀そうに太い枝の上に肘をついて顎を載せる姿は、大きな猫のようだ。


「何でも殺せばいいって訳じゃない。本来羽根無しの……規定外の殺しは無い方が良い。あの娘には気の毒なことをしたな」

「思ってもないくせに」


 少年が皮肉を挟むのを、女は苦々しく笑う。

 対象を気の毒だと思いながら、目的達成のためには仕方ないと割りきることは、女にとって難しいことではない。

 一方、未だ見習い以上一人前以下の少年は、こんな生き方を受け入れきれていないのだろう、時折思い出したように噛みついて来る。しかし、長い目で見れば、それも可愛いものだ。

 経験を積み重ねるうち、そういう感性を自然に失っていくことを、女はよく知っていた。


「あの男は思っていたよりも勘が良かった。こちらの思惑に気づいていた節もあったし、あの娘と連携されるとややこしいことになりそうだったからな」


 今回思わぬ犠牲になったのは、お下げの髪がよく似合う、瑞々しく可憐な少女だった。これからその若々しい体で、存分に青春を謳歌するはずだっただろう。それは確かに気の毒なことだが、仕方ない。 

 たとえ罪のないあの娘が運悪く義兄の弓で射ぬかれたとしても、巡り合わせが悪かっただけだ。


「夜営地からは随分離れたし、そろそろ私たちの役目も終わりだな。あの毒はあと数日で命を奪うだろう。しかも、あの方角に逃げたところで」


 傷を負った康岳が逃げていった西の方向を女が指差す。鬱蒼とした森が続き、その先には薄い山々の影が重なる。


「あるのは四鳥国くらいだね」

「その通り。さあ、私たちも一度戻って報告だ」

「もう眠たいよ。ちぇ、雨まで降ってきやがった」

「なに言っている。恵みの雨だぞ。犬を使って追跡されるのは厄介だからな」


 女は片手を伸ばし落ちてくる雨粒に触れると、満足そうに天を仰いだ。もちろん、この天気も彼女の計画通りである。


「ちゃんと後始末したから平気だって」

「常に最悪の事態を想定しろって教えてるだろう」


 女は少年の頭を軽く小突くと、獣のようにしなやかな動きで枝から飛び降りる。寝ぼけ眼の少年も、慌ててその後を追った。


 数日後、紛失した玉は使者の指とともに帝国の宮城の広場で見つかった。

 帝国皇帝はこれを近々季火王の側近になる康岳という男の仕業であり、季火国としての同盟破棄の意思表明であると見なした。

 国境を守る五堂将軍は迅速に季火の中心である台火へ進軍を開始し、戦の準備のなかった台火はあっという間に帝国軍に占拠された。ほどなくして、季火王の首も落とされた。


 それから季火という国が無くなるまで、月が一巡りするほどの時間も掛からなかった。

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