第16話:職場公認の婚約者
翌日。
アンナは早くから出ていって、俺は上半期の締め作業に寝不足の頭を悩ませる。
ザフラの方がこういうのは圧倒的に得意だが、彼女は部長会議に出ていき俺一人。
ひたすらカリカリパチパチポンポンと、万年筆と算盤と印鑑を三角跳びさせながら、部下から来る夏の休暇届だの何だのをザフラの
「アンナァァァ! 毎月出せって言ってんだろうがぁぁぁ!」
数カ月分まとまって出てきた、今はここに居ない領収書の束の主に怒鳴り散らしていた。
周りの部下たちは苦笑いで、最近生き生きとしている我が部の
でも、そこのお前も報告書まだだぞ。ザフラに吠えられる前にさっさと出せよ。
「ただいまですぅ。タルヴォさんは帰りましたよぉ。あのジェフさんと仲良しになるとか、すっごい変人なんですねぇって、顔怖いですよぉ?」
そんな風に部員に圧を掛けながらチマチマ仕事をしていると、脳天気なお嬢様がお帰りになった。
「後で説教があるが……まぁいい……ジェフもほんと丸くなったんだなぁ」
タルヴォさん、結構人格者だったもんな。ジェフと仲良くできるのは相当だけど。
率直にそう思って、一息入れるかとすっかり冷めたコーヒーを啜ると、アンナはふと呟いた。
「あたしに言ってましたよぉ。嫁のためなら頑張れるって。係長のお陰だって」
結婚式の時、信じられないほど笑顔だったし。愛妻家なのは聞いているけれど。
たまたま俺が紹介した奥さんが、彼の心の支えになって。生きる理由になって。人生の意義になっていることが嬉しい。
「あいつ……」
我ながら照れてる。
子供の頃勉強を教えてもらった恩を、最高の形で返せたんだと。
照れくささと嬉しさで熱くなった顔を、アンナはよく見ていた。
「んふふ~、係長、結構みんなに好かれてるんでぇ。自信持ってくださいねぇ」
自信持て、か。ちょっと周り、なんかニヤニヤしてんじゃねぇよ。
「偉そうに……そんなことより領収……」
遥かに年下の部下に対して、良い部下を持って幸せなどと。俺に自信をくれたザフラみたいには素直になれなくて、思わず憎まれ口を叩いた。
「ぶちょ~! パワハラされてますぅ~」
「……ふふっ」
その部長が帰ってきて、アンナが抱きつく。
ぽふぽふと彼女の頭を撫でる肉球の主は、穏やかに笑っていた。
「なんか楽しそうだな」
「いや、あんたやっぱりいい男だなって」
扉越しに聞いていたという彼女は、部員たちも今日は結構いるというのに。
急に皆の前で惚気けだした。
「誠実で真面目で相手のことをよく見てるし、ちゃんと隙も見せてくる」
「ちょっと、なんだよいきなり。恥ずかしいぞ?」
「あたしらは公務員だから、
誰かが口笛を吹いた。
口々に、ついにとかやっととか、あのヘタレ係長がとか余計なお世話の小声が飛んできて。
気付いた時には、なんとなく皆の注目が集まっていた。
「褒め過ぎだって。周りに恵まれてたって感謝してる。特にこの部署は」
ありがとうな。祝ってくれて。
皆に向けて軽く会釈をすると、拍手で返ってきた。
「周りに恵まれてるのは、あんたが引き寄せたからよ。お節介な部員ども、いい加減結婚するわよあたしたち」
ザフラが俺に向かって笑顔で返答して、続けて皆を見回して低く吠えた。
彼女の方が事務所にずっといるんだし、恋愛話なんかそりゃあ聞こえてたよな。
拍手が一層大きくなって、おめでとうございますの怒鳴り声が響く。
……嬉しいな、これ。
「あたしも、係長みたいな人が良いですねぇ」
「あげないっての」
何いってんだか。とは思うけど、満更でもないな。
俺の妻になる上司と、妹みたいな部下が楽しそうでなにより。
ただ、そんなアットホームな職場でも、締めるところは締める必要がある。
祝ってくる部員たちにきちんと礼を言いながら。仕事に戻れと散らしてから。
「ところでアンナ。さっき言ってた件なんだが」
我ながら、かなり怖い顔を作れたと思う。
彼女は少し考えて、引き攣った頬を苦笑いに作り変えようと頑張っていた。
「領収書……ですかぁ……?」
「分かってんなら自分で経理部行って謝って来い!!」
「はいぃぃぃ!!」
言っとくけど。期末の経理部はジェフ並みに怖いからな。
そう言うと、アンナは泣きそうな顔で領収書の束を握りしめて走っていった。
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