第4話『いつもと違った呼び方』

 プチ騒動のあった雛の部屋の片付けタイムも一段落し、時刻は夕飯時にほど近い頃。それ故に多くの人で賑わっている近所のスーパーに、優人と雛は二人で訪れていた。

 引っ越し初日ということで家に食材はほとんど無いから、買わなければならないものはたくさんだ。

 優人が入口に置いてある買い物カートを一台取り出すと、阿吽の呼吸と言わんばかりに雛がカゴを設置してくれた。


 まずは主食となる米から。売場は二階のようなので、カートを押す関係上エレベーターへ向かった。


「雛の手料理、なんか久しぶりな感じがするな」


 エレベーターを待つ間、思い出したように優人が呟くと、雛は「ああ」と得心がいった様子で頷いた。


「最近は引っ越しの準備で忙しかったせいでほとんど外食とかお弁当でしたからね」

「そうそう。だから楽しみだ」

「そう言ってもらえると作る側としては嬉しいですね。でも久しぶりとは言いますけど、実際は一週間も経ってないですよね?」

「それでも恋しくなるぐらい雛に胃袋を掴まれてるんだよ」

「あらあら、困った旦那様ですこと」


 エレベーターが到着したので乗り込む。その際、雛がからかうように口にした呼び名に優人は一瞬うめかざるをえなかった。

 エレベーター内には優人たちだけ。一時的に人目が無くなる中、優人はあくまで優しい力加減で隣の雛を肘で小突いた。


「旦那様ってコラ」

「ふふ、婚約段階なので正確には『未来の』ですけど、何も間違ってませんよね?」

「正しい正しくないじゃなくて、不意打ちはやめろって話だよ」

「不意打ちについては優人さんに言われたくないですねえ。私がこれまで何度ドキリとさせられたかと」

「……手強くなったなあ」

「日々精進しておりますとも。まあ、その分期待されているご飯は腕によりをかけて作りますので大目に見てください――」


 優人の視界の端で、ふわりと群青色の糸が踊る。

 少し背伸びをした雛は優人の耳元に口を寄せると、あたたかな吐息混じりの声でそっと囁いた。


「あ な た」


 ぞくり。甘い響きが優人の耳から背筋を一気に駆け下りた。

 身震いを起こした優人の反応に雛はご満悦らしく、二階に到着したエレベーターが開くと同時にまなじりを下げた彼女はくすくすと軽やかな笑い声を残して降りていく。


 後手に回ってしまったことがなんとなく悔しい。ここがスーパーでなければ絶対にやり返してやるのに。

 負け惜しみという名の嬉しい悲鳴をため息として吐き出しつつ、優人は先を行く雛の背中を追った。


「さて、今夜は何にしましょうか」


 米を確保し、足りていない調味料類も一通り調達。続いて肉や魚などメインのおかずになる食材コーナーの前で雛は思案げな顔で顎に指を添える。

 すると雛は優人に振り返り、大きな瞳を少し丸くさせた。


「そういえばちゃんと訊いたことありませんでしたけど、優人さんって私の料理だと何が一番好きですか? せっかくですからそれを作ろうかと」

「え? あー……そうだな……」


 いきなり振り返ってくるから何事かと思えば、今度は優人が考えを巡らせる番になる。

 雛の手料理の中で、一番好きなもの。いざ尋ねられるとなかなか難しい質問だった。


 なにせ雛が作るものはどれもこれも美味しい。強いて言えば肉系が好きといった好みこそあるが、逆に雛の幅広いレパートリーの中で好きじゃなかったものなんてさっぱり思い付かない。


 よって正直に答えると、ぶっちゃけ『なんでも』だ。

 しかしこの『なんでも』という答えは、適当な感じであまりよろしくない答え方だと小耳に挟んだことがある。

 だったらやはり何か特定の料理を……でもどれもこれも甲乙つけがたいのは紛れもない本心だし……。


 優人が首を捻ってうんうんと考え込んでしまうと、雛はまたくすりと笑みをこぼした。


「そんなに悩むことでもないでしょうに」

「だって雛の料理はどれも美味しいからさ……。けどなんでもって答えるのは作ってくれる人に悪いかもだし」

「まあ、確かにそういう話はありますね。でも少なくとも、今の優人さんがそう答える分にはまったく気にしませんよ? すごく悩んでるのが伝わってきましたから」

「じゃあ、あれだ、今夜はシェフにお任せってことでお願いします」

「いきなり責任重大になりましたね。うーん……まあ、優人さんの好みは一通り把握してるつもりですし……」


 再び思考モードに入った雛が精肉コーナーを眺める。


「――あ、挽き肉安いですね。ハンバーグなんてどうですか?」


 そこから先、言葉は必要なかった。

 口の代わりに優人の腹の音が威勢のいい返事をし、それを聞いて笑みを深めた雛が合い挽き肉のパックを手に取る。

 今夜は、いや今夜、料理上手な婚約者は大いにその腕を振るってくれることだろう。

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