第2話『新居でのご挨拶』
新居となるのはとあるマンションの、間取りが2LDKの一部屋だ。
築年数はやや古めで、最寄り駅からの距離も少し遠い。しかしながら内装自体は全体的に綺麗で、近くに遅くまで開いているスーパーやコンビニもあるので総合的な利便性は良し。お互いの大学やバイト先にも問題なく通える。
その他、月々の家賃なども考慮して色々と不動産屋を回った結果、最終的に二人の希望がここに一致した。
引っ越しの時期を夏にしたのも雛と話し合った上でだ。
繁忙期である春に比べて費用が比較的安く済むし、大学の方は夏休み期間に入っているのでまとまった時間の確保がしやすい。
課題やバイトなどはあるので暇を持て余すわけではないが、しばらくは新居でゆっくりできることだろう。
「ありがとうございました」
新居への移動後、仕事を終えて去っていく引っ越し業者にお礼を伝え、優人は玄関の戸を閉めた。
リビングへ向かうと感慨深そうに室内を見回していた雛が振り返り、優人に淑やかな微笑みを送る。
「今日からここが、私たちの新しい家なんですね」
「そうだな。良いところ見つかって良かったよ」
改めてその事実を口にされると胸に迫るものがあり、雛の呟きに頷いた優人はそっと隣の彼女を盗み見た。
今やすっかり伸び、背中にまで届くほどになった群青色の髪。元々同年代に比べれば落ち着きのある印象の雛ではあったが、髪の長さのおかげで外見自体もぐっと大人っぽくなったと感じる。
引っ越し作業の関係で服装はサマーニットにデニムという比較的ラフな格好だが、それでも綺麗に思えるのは彼氏の贔屓目だけが要因ではないだろう。
これで優人に対しては今でも可愛らしい反応を数多く見せてくれるのだから、つくづく雛の魅力には隙が無い。
「……なんで急に頭を撫でてくるんです?」
「気分」
無性に愛おしさがこみ上げて行動に現すと、優人の手の下で雛が目を丸くして見上げた。
さらさらで指通りなめらかな髪。空気を含ませながら優しく撫でると、雛は気持ちよさそうに
さて、時に引っ越し作業はまだ途中なのだから、戯れるのもほどほどに。
冷蔵庫や洗濯機などの大型の家電や家具類は引っ越し業者が設置してくれたが、片付けなければならない段ボール箱はまだまだ残っているのだ。
ここで暮らすためにもまずは生活環境をしっかり整えないといけない。
「まずはキッチンとか洗面所とか、共同スペース回りから片付けていくか?」
「ですね。寝室は最低限ベッドさえ整えられれば後回しでも大丈夫ですから。でも、その前に――」
「ん?」
はて、荷物を
優人の疑問をよそに段ボール箱の中から一組のクッションを取り出した雛は、その二つを向かい合わせの状態でフローリングの床に置く。
片方に正座で腰を落ち着けると、優人を手招き。
「優人さんはそちらにお座りを。できれば正座でお願いします」
「え、あ、はい」
まさかの説教?
いきなり正座で向かい合うことを要求されるとなるとそんな考えが浮かんでしまう。しかし、その割には雛の纏う雰囲気に特別怒りの色は感じないので、ますます優人は首を捻りながら言われた通りに正座を腰を下ろす。
目の前には、ピンと背筋を伸ばして惚れ惚れするほど美しい正座を披露する雛。
そして、膝に置かれていた彼女の両手が動いたかと思うと、優人に対しての丁寧なお辞儀と共にすっと伸びた指が床に触れた。
五指全てではない。人差し指・中指・薬指の、両手でそれぞれ三本ずつ――つまり
「ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いします」
「こ、こちらこそよろしくお願いします」
見事な所作に呆気にとられ、すぐに我に返って優人もお辞儀をする。
雛に比べれば不格好になってしまったことだろう。それでも雛は柔らかく微笑むと、「はいっ」と明るく弾んだ声を返してくれた。
キリのいい所まで進んだところで遅めの昼食を摂り終えた後、優人はコンビニ弁当のゴミを片付けつつキッチンから雛に声をかけた。
「何か飲むか? コーヒーとか」
「なら、いつものアレをお願いできますか? 牛乳は買ってありますので」
「はいよ」
昼食の買い出し時に牛乳もカゴを入れていたのはそういうことらしい。
その他必要な材料については前の家から持ってきた残りがあるので、雛の要望に頷いた優人はガスコンロの上に片手鍋を置いた。
いつものアレとは、雛が大好きな優人お手製のホットミルクだ。鍋に牛乳と砂糖、はちみつ、それから少量のシナモンパウダーを入れ、焦げないように注意しつつ弱火でゆっくりと温めていく。
温度の上昇に伴いふつふつと気泡が立ち始める中、キッチンのカウンターに腕を置いた雛は嬉しそうに優人の手元を覗き込んでいた。
「ふふ、記念すべき新居での初料理ですね」
「料理っていうほどのもんでもないけどなぁ」
優人は鍋の中身を丁寧にかき混ぜながら肩を竦めた。
雛が気に入ってくれているのは嬉しいことだが、手順としては混ぜて温めるだけの代物だ。料理と呼ぶには簡単なものだし、何よりほぼ毎日美味しい手料理を振る舞ってくれる張本人様の前では自慢げになるのも恐れ多いというものだ。
「またそんな謙遜を。私はいつもその一杯に助けられてますよ。それに将来、私たちのお店を開く時はそれもメニューに入れるつもりですよね?」
「まあ、現状案の一つではあるな」
二人で喫茶店を開く――それこそが高校の文化祭での経験を経て、今の優人と雛が持つことになった夢だ。
それに向け、優人はプロのパティシエである母親の
「是非入れましょう。そしたら私、お客さんにたくさんおすすめしますよ? 当店自慢、マスターが作る愛情たっぷりのホットミルクって」
「愛情たっぷりって」
雛が自信満々に胸を張るものだから、つい優人の口元には笑みがこぼれてしまった。
またなんて大げさな……いや、雛の場合は本当に心の底からそう思ってくれているのだろう。それが伝わってきてしまうものだから気恥ずかしくなって、優人は誤魔化すように頬をかきながら、雛に向けて意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
「でもいいのか? そうやって推してくれるのは嬉しいけど、雛以外の人に愛情たっぷりのもんを振る舞っても」
「え」
結構独占欲が強めな雛を煽るような発言をすると、笑顔が急変。途端に雛の眉はハの字に寄せられ、腕を組んだ彼女は「うー……」と小さな唸り声を上げながら俯いてしまう。
(うわー、めっちゃ悩んでるなー……)
ゆらゆらと身体が左右に揺れている様子から、雛の中で相当な葛藤が渦巻いていることが見て取れた。
しばらく人間メトロノームと化した雛は、やがて動きを止めて決断を下したらしい。
「……仕方ありません。優人さんの作るホットミルクは本当に美味しいですから、多くの人に知ってもらうためにもやむを得ないでしょう」
「苦渋の決断みたいだな」
「当然です。……でも」
「ん?」
キッチンのカウンターの向こうから、優人のすぐそばへ。近寄ってきた雛は優人の服の裾をきゅっと摘むと、可愛らしく唇を尖らせる。
「まだしばらくは、私が独り占めするんですからね?」
――言われなくてもそのつもりだ。
こういうことを考えるのは未来のお客さん相手に失礼かもしれないけれど、優人がいつまでもたっぷりの愛情を注ぎたいと思える相手は、他ならぬ目の前の彼女だけなのだから。
それを証明するために、そして嫉妬深い恋人を安心させるためにも、優人は笑って彼女の唇を奪い、その尖りを優しく溶かしてあげた。
≪後書き≫
つい昨日、当作品の総合☆評価が1,000を超えました!
数々の応援、皆様ありがとうございますm(_ _)m
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