同棲編
第1話『よろしくお願いします』
≪前書き≫
前触れもなく始まりました同棲編。イメージ的には短期連載みたいな形で更新していこうと思っています。
なんでいきなり始まったのか、新作の方はどないしたんといったことに関しては長くなりそうなのでここでは割愛。詳しく(というほど大した内容ではありませんが)近況ノートで触れておきますので、興味のある方はそちらをご覧ください。
「――必ず幸せにする。だから、俺と結婚してください」
言った。
言った。
とうとう言った。
門出を祝ってくれるかのように桜が舞うその日に、学校の敷地内にある一本の桜の木の下で、優人はたった今自分が告げた言葉の重みを今さらのように実感していた。
彼女を丸ごと貰うと、直接本人に伝えたのが去年の優人の卒業式でのこと。
あの時はあくまで冗談めかした言い方で、優人が内心に秘めた決意までもを明らかにしたわけではなかった。
そしてそれから丸一年。秘めた決意は月日を経て確固たる覚悟へと進化し、こうして今
愛に浮ついていると言われたらそれは否定できないかもしれない。
覚悟ならあるといくら声高に訴えようとも、それは決して、これから先の未来の保証になど到底なりえない。
それでも、優人なりに最善の準備はしてきたつもりだ。
最後に二人で校舎を見て回りたいという彼女のお願いに付き合いながらあらかじめ目星を付けていたこの場所にそれとなく誘導したし、とても給料三ヶ月分なんて豪語できるわけではないが、今も続けているアルバイトの給料から費用を捻出して指輪だって用意した。何よりプロポーズのその瞬間は何度も頭の中でシミュレートした。
なのに、なのに実際にその時が来ると、こうも思い通りにはいかないものなのか。
(心臓が……うるさい……)
彼女に婚約の意を伝える前からすでに、心臓の鼓動が痛いくらいに優人を内側から
胸の内ポケットに忍ばせたせっかくの婚約指輪の存在など土壇場で頭から抜け落ちてしまって、優人は勢いよく頭を下げたまま、握手でも求めるかのように右手を差し出した体勢で硬直してしまった。
プロポーズの言葉を噛まなかったことがせめてもの救いではあるが、誰からどう見られても、今の自分はガチガチ以外のなにものでもなかった。
穴があったら入りそうになる。
時間を巻き戻せるならもう一度頭からやり直したい。
何より彼女の反応が気になって、逆に顔を見るのが怖い。
心の中で行ったり来たりを繰り返すばかりで、いつまで経っても顔を上げることができそうになかった。
――そんな優人を救ってくれたのは、差し出した右手にもたらされた優しい感触だった。
まず指先にそっと触れてきた温もりは、次第に優人の五指に沿ってその範囲を広げていき、右手の甲を覆っていく。かと思えば手のひら側にも同様の感触が与えられて、いつしか右手はすっぽり包み込まれていた。
なめらかで、柔らかくて、寄り添ってくれるような落ち着きのある温かさ。
その感触に一度ぎゅっと強く手を握られると、今までが嘘みたいに優人の顔は自然と前を向いた。
「はい」
持ち上げた視線の先に待っていてくれたのは、優人の期待通りの、でもそれ以上に幸せに満ちた笑顔。
たった二文字の返答でも、抑え切れないほどの歓喜が込められているのが伝わってきて、今にも
微かに震える唇が、とても大切なものを噛み締めるようにきゅっと結ばれた後、柔らかな動きで開かれる。
「これからも、末永くよろしくお願いします。
初めて身体を重ねた夜と同じだ。
あの時だって彼女は優人に『愛し合いましょうね』と、自分の気持ちも同じなのだと言ってくれた。
今この瞬間、交わし合った言葉は誓いとなった。
優人と彼女――
――そんな、そろそろ一年と半年ほどが経とうしている時のことを優人が不意に思い出したのも、自宅での荷物整理の最中に手に取ったこれのせいだろう。
ピアス辺りを入れるのにちょうどいいサイズの小物入れ。蓋を開けると、中には緩衝材と共に白いボタンが一つ収められていた。
雛が高校時代に着ていた制服のブラウス、それの第二ボタンである。あれから結局半ば気分が舞い上がって雛から奪い、せっかくだからとわざわざケースまで買って保管していたのだった。
まったく我ながら浮かれていたものだと優人は一人苦笑し、蓋を閉じた小物入れを手元の段ボール箱の隅に収めていく。段ボール箱自体にもガムテープの封を施すと、優人は立ち上がって伸びをした。
自分の周囲を見回すと、すっかり物が無くなってさっぱりとしたワンルームの室内が目に映る。そのことについ物寂しさを感じてしまうのは、それだけこの場所には思い出や愛着がある故のことだろう。
五年以上も住み続けた場所に心の中で別れを告げていると、開けたままにしておいた玄関の戸がコンコンと叩かれた。
「優人さん、そろそろですけど準備できましたか?」
軽やかな声の主は恋人――もとい、今となっては婚約者となった雛。
歳月を重ね、大人の女性として一段と美貌に磨きのかかった雛は、けれど愛らしさも内包した微笑みを浮かべて優人を呼んだ。
今行く、と優人は返事をし、最後の荷物だった段ボール箱を抱えてアパートの外廊下へと出る。
雛と一緒に一階への階段を下りて入口まで向かえば、午前中の明るい日差しの中、大家の
「確認お疲れ様。二人とも忘れ物はない?」
「はい。しっかり準備はしたんで問題なしです」
「私もですね。木山さん、これまで本当に色々とお世話になりました」
雛が深々と頭を下げると、芽依は腰に手を当てて得意げな笑みを浮かべた。
「ふふふ。まあ、雛ちゃんがここに住むことができたのも私の
「はいはい、その節はこうして感謝しておりますとも」
「うむ、その心を忘れるなかれ青年よ」
優人が苦笑混じりに両手を合わせれば、芽依は
実際、芽依の自慢は的を射ている。家出した雛をこのアパートに連れてきたあの日に彼女が便宜を図ってくれなければ、雛が優人の隣に住むという今の関係を思えば紛れもない
雛と二人で芽依を拝むという、はたから見れば珍妙な光景をひとしきり続けた後、今度は優人が深く頭を下げた。
「お世話になりました。芽依さんもお元気で」
「こちらこそ。まあこれで今生の別れってわけでもないしさ、また何か困ったことがあったら声をかけてね。私で良ければ力になるよ」
「はい。芽依さんこそ何かあったら連絡してください」
「そう? じゃあ将来自分の店を持つ予定の菓子職人の卵さんには、私の結婚式でのウェディングケーキでもお願いしようかな?」
「え、ってことは良い人見つかったんですか?」
「ウウン、見ツカッテナイヨ」
「ならなんでお願いしたんすか……」
「うるさいよ。夢ぐらい見させてよ」
そこで夢と言い切ってしまうことがまず如何なものか――……いや、もはや何も言うまい。というか言えない。将来を約束した相手がいる優人が何を言ってもたぶん焼け石に水だ。
目が笑ってない笑顔を張り付けた芽依から視線を逸らしていると、芽依がパンと勢いよく手を叩いた。
冗談も、別れの挨拶もこれにてお開き。行動でそう示した芽依に対し、優人と雛は背筋を伸ばす。
「それじゃあ二人とも、いってらっしゃい」
『いってきます』
八月上旬、夏。
天見優人、二十歳、大学三年生。
空森雛、同じく二十歳、大学二年生。
今日は記念すべき、二人の『同棲』が始まる日だ。
≪後書き≫
今作は本日より開始した『カクヨムコンテスト10』に応募しております。
まずは読者選考となりますので、よろしければ☆評価より応援して頂けると幸いですm(_ _)m
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