気の向くままの番外編
EX1『あの日の頑張り屋さん(クリスマスイブ編)』
「ただいま」
クリスマスイブの夜、用事を無事に終えた雛は自宅の玄関を開け、帰宅の言葉を口にした。
習慣故にいつも自然と発してしまう一言に、けれど返ってくる声は無い。雛を迎えるのは一人暮らしの、だから今の今まで真っ暗だったアパートの一室。
冬特有の冷え込みは深夜へ近付くほどに一段と厳しくなり、外から部屋の中へと場所を移しても大して変わったようには思えなかった。
まず照明を点けてから玄関で靴を脱ぎ、それからエアコンのリモコンを操作して暖房モードでの運転を開始。心なしか最近動き出すのが遅くなったように感じるエアコンからようやく温風が吹き出たところで、雛は着ていたコートを脱いでハンガーにかけた。
「ふぅ……」
ベッドに座って人心地つく。室内に温風が行き渡るまでには少し時間がかかるので肌寒さそのものはまだ感じるのだが、雛の胸の内は、不思議と穏やかな温かい感情で満たされていた。
帰ってきた直後からしてそうだ。
「ただいま」と言って「おかえり」と返ってくることのない日常は、やっぱりちょっと寂しくて、普段ならばほんの微かな棘が雛を刺してくる。
でも今夜は違った。さっきも、今も、人の温もりにも似た充足感のおかげで些細な棘の痛みなんてちっとも感じない。それどころかまだふわふわして、良い意味で落ち着かないと言えなくもないぐらいだ。
――今夜の
ベッドに倒れた雛はほんのり熱くなった頬を隠すように布団を引き寄せ、ごろんと寝返りを打つ。そうして顔の向いた先がベッドのすぐ横の壁――正確にはその向こう側の、先ほど別れたばかりの
なぜかしばらく壁とのにらめっこをしてしまった後、「あ」と思い立った雛は身体を起こしてベッドから降りた。
手に取ったのはテーブルの上に置いてあった、ファンシーショップのロゴが入った紙袋。その中からリボンで簡易的にラッピングされた品物を取り出して抱くと、雛の頬からふにゃりと力が抜けた。
今夜、優人から貰ったクリスマスプレゼントだ。
うつ伏せの犬をモチーフにしたもふもふのぬいぐるみで、まるまる太った寸胴ボディにちょこんと生えたような手足と尻尾がとても可愛らしい。ただ、その身体つきの割には表情にどこかふてぶさしさがあり、片目のすぐ下には一本の古傷の刺繍がある。灰色の体色も合わせれば、場合によっては犬というより孤高の一匹狼に見えなくもない。
そして、何より雛の琴線に触れた部分は――
「……やっぱりこの目がいいなあ」
一人でにそう呟いてしまって、誰に聞かれているわけでもないのに慌てて口を
なぜだろう、トクントクンと胸がほのかに熱を持っていた。
深呼吸をして熱を逃がし、直前になぞっていたぬいぐるみの目元を改めてそっと指先で撫でる。
お店の店頭に並んでいた時のことを思い返してみても、この子の目つきは他の種類に比べて些か鋭さがあった。
たぶん少しワルそうな感じというのがコンセプトなのだろう。他のが愛嬌たっぷりなだけあっていっそう際立って見えて、ほぼ即決でこの子に決めてしまった。
優人は他のも勧めてもくれたけど、やっぱりこの子が一番だ。
だって、こう、この目つきの悪さが結構凛々しく思えるし、どことなく
「って、そういうつもりで選んだわけじゃないから……っ!」
だから聞かれているわけじゃないのに、誰に対しての言い訳なの?
自分の中の冷静な部分がそう口を挟んできたから余計に恥ずかしくなって、雛はまたしてもベッドに倒れ込んだ。
スプリングの反動で身体を上下に揺らしながら、抱いたままのぬいぐるみに視線を落とす。
別に、優人に似ているから選んだわけではないはずだ。単に目つきが気に入ったからであって、それがたまたま優人と似通っていたというだけ。それだけの話。
……それだけの話なのに、そうは言い切れない自分が雛の中には確かにいる。トクントクンと今も続いている、くすぐったいような胸の疼きもそこから生まれていた。
こんなの知らない。今まで経験したことのない初めての感覚だ。
ただ少なくとも――嫌なものとは思えなかった。
「……早く寝よう」
ひとりごちて頭を切り替える。
夜も
入浴し、肌や髪の手入れを済ませ、一通りの寝支度を整えた雛はベッドに潜る。
エアコンの電源は一度切り、朝の起きる時間に合わせて起動タイマーを設定。次いで照明を常夜灯に切り替えれば、室内は微かなオレンジの光に照らされるだけの薄暗い空間となった。
「……ん」
眠りに落ちるまでの合間の時間、ふと気になって閉じた目を開けてみると、薄闇の中でひとまずテーブルに置き直したぬいぐるみと目が合う。それどころかしばらく見つめ合ってしまう。
ぬいぐるみ。そう、ぬいぐるみだ。身も蓋もない言い方をすれば所詮は布と綿の固まりで、それ自体が意志を持っているわけではない。だから何かを訴えられているわけでもない。
しかし、ややあって雛はぐーっと手を伸ばすと、ぬいぐるみを掛け布団の中へと招き入れた。
ただの気まぐれだ。暖房を止めた室内はじきに寒くなるわけで、家にやって来た初日から肌寒い一夜を過ごすことになるのは、なんとなくかわいそうだなと思っただけのことなのだ。
そんな再三にわたる言い訳がましい言葉を舌の上で転がしつつ、雛は両腕を広げてそっとぬいぐるみを抱き締めた。
(あ、これいいかも……)
抱き心地がもふもふとして気持ちいいのは分かっていたけど、ベッドの中という完全リラックス状態で抱いてみると心地良さも
途端に穏やかな眠気が雛を包み、彼女は意識を静かな海の底へと沈めていく。
いつしか幼子のように、ぬいぐるみをぎゅっと抱き締めていたことに雛は気付かない。それを知っているのは、彼女の腕の中でちょっぴり窮屈そうに首を曲げたぬいぐるみだけだ。
その夜、雛は夢を見た。
とても温かで、幸せな夢を。
≪後書き≫
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