第207話『ありふれてるけど、きっと大切なこと』

≪前書き≫

 更新がいつもより遅れて申し訳ありません。

 どうにかコロナからも快復したので、次回から更新ペースは戻ります。





 ピークが落ち着きを見せたのは、それから一時間ほど過ぎた辺りだった。

 その頃には後に控えていたシフトの組も到着して調理に加わっており、担当する時間が過ぎても残ってくれた初賀たちのおかげもあって、ひっきりなしの注文を捌けるようになっていた。


 一方、雛たち接客側の様子はどうかと心配になったが、出来上がったフードメニューを届けに行った生徒曰く、あちらもあちらで目立った不平不満の声は上がらず上手く立ち回れているらしい。


 時間を稼ぐと意気込んでくれた雛を始め、メイドたちが頑張ってくれているのだろう。

 目を閉じれば簡単に思い描けそうな最愛の彼女の仕事ぶりに、自分のことではないのに誇らしさを抱きつつ、優人はまた新たにパンケーキを焼き上げた。


 出し尽くしてしまった作り置きの補充を含め、これでおおよその目処はついたはずだ。もう少し様子見で残ればいいかと考えていると、一足先に小休憩に入っていた初賀が近付いてくる。


「お疲れっす天見先輩。こんなもんしかないですけど、よかったらどうぞ」

「ああ、ありがとう」


 家庭科室の窓に背中を預けつつ、初賀の手からお茶のペットボトルを受け取った。

 自分で思っていたよりも集中していたらしい。優人はペットボトルの中身を半分ほど一気にあおると、一度大きく肩で息をした。


「おかげで助かりましたよ。後のシフトの奴らも来て頭数は揃いましたから、先輩はもう上がっても大丈夫っすよ」

「もう少し残るよ。あれほど混むことはないと思うけど、念のためな」

「パンケーキは自分が提案したから、でしたっけ? はー、先輩ってマジ責任感の塊っすねー」

「あー、まあ、それもあるけど……」

「え?」


 初賀がこちらを見るのを視界の端で捉えた。どうにも気恥ずかしいものがあって彼の方を向くことができず、優人は首に手を当てながら言葉を探す。


「単純にさ、こういうのが楽しかったんだよ。こういう、店みたいな感じのが。俺にとっての菓子作りってのは、今まで個人の趣味の範疇でしかなかったから」

「バイトとかでやったことはなかったんですか?」

「そもそもバイトの経験自体がないって」


 小さい頃は、安奈の職業であるパティシエのように製菓を将来の職業とすることに憧れた。けれど例の一件で気持ちは折れて、ほんの一ヶ月ぐらい前までは前向きに考えることなどしなかった。


 あくまで個人の趣味で、不特定多数を相手にすることなんてなくて、自分の手の届く範囲で美味しいと言ってもらえれば、それで十分だと思っていた。


 でも、今は違う。他の誰でもない雛のおかげで、ずっと覚束なかった未来予想図が少しずつ確かな形として考えられるようになっていた。こうして喫茶店といったものに関わることができたのは、言うなればリハビリとして、またとない機会だったと思える。


「んー……なんかよく分かりませんけど、先輩が楽しいんならいいんじゃないすかね。祭りなんだから楽しんでこそでしょ」

「だな。というか、そういう初賀も上がっていいんじゃないか? 時間的にお前だってシフト終わってるだろ」

「そこはほら、俺も楽しいんで」

「そうかよ」


 明らかにこちらを真似た初賀の言葉に優人は軽く笑って、お互いの肘をぶつけるように彼を小突いた。








 今年の文化祭も、残すところあと小一時間。

 ステージ企画や校内の各種出し物が終了に向けて少しずつ動き出し、それに伴って一般客も続々と退校していく中、優人は無事メイド喫茶の仕事を完遂した雛と合流して明たちを見送るために校門付近に来ていた。


 行きと同様にタクシーを手配しているらしく、それの到着を待つまでの空き時間。タクシーが停車する際になるべく人の往来の邪魔にならないようにと、校門からは少し離れた位置で優人たちは向かい合っている。


「お義父さん、お義母さん、今日は来てくれてありがとうございました」


 雛が腰を折って頭を下げる。

 義理とはいえ両親へ向けるには些か堅苦しい挨拶だと横で聞いていて思うが、これについてはまだ距離があるというより、単純に雛の性分によるものが大きいのだろう。


 実際、親子三人を取り巻く雰囲気そのものには堅苦しいものもなく、顔を上げた雛と明たちは仲良く笑みを交わしている。

 本当に、良かった。素直にそう思える光景だ。


「こちらも楽しいひとときが過ごせたよ。なんだか久しぶりに学生時代に返れたような気がしたものだ」

「ええ、そのせいでつい色々と長居しちゃったわね。雛の可愛いメイド姿を写真に残せなかったのが唯一残念だけれど」

「その分おもてなしには注ぎましたから、それで我慢してください」


 たしなめるような言葉使いのくせに、当の雛は満更でもなさそうだ。


 結局明たちがメイド喫茶に来店している間、優人は家庭科室の方につきっきりだったので状況は分からずじまいだったが、この口振りだと雛の接客を受けることはできたらしい。

 写真については、そういえば安奈も同じように口惜しさを言葉にしていたものだ。女性というものはいつになっても可愛いものが好きなのだろう。


 ところで、優人のスマホの画像フォルダには優人の誕生日に雛が披露してくれた例のメイド姿がちゃっかり保存されているのだが(本人承諾の下で撮影)、他の人に配布するつもりはない。残念がるところを見るとちょっぴり申し訳なくなるけれど、こればっかりは秘蔵の品だ。


「天見くんも今日は世話になったね。雛に聞いたけど、私たちが食べたパンケーキは君が作ってくれた品だったそうじゃないか」

「あ、はい、レシピの提供だけのつもりだったんですけど、忙しそうだったからつい手伝いに入ったんで。でも他にも作ってる奴はいますから、本当に俺のだったかどうかまでは……」

「お義父さんたちに出した分は優人さんので間違いないですよ。こう言ってしまうのは悪いかもですけど、やっぱり他の人のとは出来映えが違いましたから」


 生地の焼きムラなどでそう判断したのか、雛は自信満々に頷いた。

 これまで何度も振る舞ってきた相手であり、配膳した張本人である雛が断言するのならそれで合っているのだろう。


 味に至らない部分はなかったか。恐らく普通の人たちよりは生活水準が高いであろう明たちのお眼鏡に叶うことはできたのか。


 急に不安が沸いてきて、知らず知らずの内に優人の背筋が伸びて硬直してしまう中、明たちはふわりと上向いた口元を動かした。


「美味しかったよ」

「美味しかったわ」


 ――告げられたのは、ごく単純な賞賛の一言だった。

 シンプルで、これといって飾り気もない。ありふれた数文字の褒め言葉。

 でも、だからこそ率直に伝わってきた言葉の意味が、優人の胸をじんと熱くうずかせる。


「……ありがとう、ございます」


 優人は二人に対して軽く頭を下げる。礼儀としてというのもあるけれど、それ以上に、どこか震えてしまいそうな唇を隠したかったから。


「あ、ひょっとしてあのタクシーじゃないですか?」


 雛の声を聞いてどうにか持ち直してから顔を上げると、一台のタクシーがこちらへ近付いてくるのが見て取れた。明が手を挙げればスムーズな減速とハンドリングでそばに停まり、後部座席のドアが自動で開く。


「それでは私たちはこれでおいとまさせてもらうよ」

「またね雛、天見くんも」


 揃って緩く手を振る明たちに優人と雛も合わせて「はい」と返す。

 そうして発車したタクシーが曲がり角で見えなくなる瞬間まで見送ると、優人の背筋からもようやく力が抜けた。


 視界の端がうっすらと、ほんの少しだけ滲み始めてのは自分でも分かった。


「なあ雛」


 優人を見上げた金糸雀色の瞳が驚きで丸く見開かれる。

 呼びかける前にやっておけばよかったな、と今さら思いながら親指の腹で目尻を拭いつつ、優人は澄んだ青空にも似た晴れやかな気持ちと顔で口を開いた。


「やっぱりいいもんだよな、自分が作ったものを、美味しいって言ってもらえるのは」

「――ええ、そうですね」


 ふふ、と優しい吐息と柔らかな返事。かと思えばそっと腕を引かれ、雛の方へと傾いた優人の頭に彼女の手が触れた。優人のより小さいくせにどこか安心感のある雛の手の平は、それこそ安らぎと慈しむを与えようとするような力加減で優人の頭を滑る。


「……なんで頭を撫でられてるんだ、俺は」

「なんとなくですかねえ。今の優人さんには必要かなと思いまして。不要なら言ってください」

「…………」

「ならもう少し続行です」


 殊更ことさら笑みを深くし、雛の手は優人の頭をゆっくりと撫で続ける。

 内心をあっさりと見透かされて、何も言えなくなってしまった自分がちょっと悔しい。

 優人の方が年上なのに、まるで子供扱いするようにしやがって。


 だが、黙ってそれを享受している自分がいるのは紛れもない真実であり、優人は充足感が多分に含まれたため息を静かにこぼした。

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