第202話『頑張り屋さんのおまじない』
「極楽、ですー……」
その日の、もうあとは寝るだけだとなった時間帯の雛の部屋。ベッドでうつ伏せになったパジャマ姿の彼女の緩みきった声に、優人はひっそりと口の端を上向けた。
帰り道でしたマッサージの約束は咄嗟のものだったが、雛はしっかり覚えて楽しみにしていたらしい。男に二言はないのはもちろんのこと、ああも期待のこもった眼差しを向けられては断るわけにもいかなかった。
お風呂上がりの玉の肌、ほのかに香るボディーソープの良い匂い。
優人への全幅の信頼がそのまま形となった無防備な背中を前に、優人は丁寧な手付きで雛へのマッサージを続ける。
今日は立ち仕事だったからと、負担のかかる腰や足回りを重点に、大きく広げた手での揉みほぐしと親指での指圧だ。
生憎と人体のツボなんてものは心得ていないのだが、優人が思っている以上には効果が出ているらしく、柔らかな肌に指が沈むたびに雛は気持ちよさそうな吐息をこぼしていた。
前に回り込んで顔を覗き込めば、さぞ可愛らしくだらけた表情が見れることだろう。恥ずかしがる雛から枕をぶつけられかねないし、好評のマッサージを中断するわけにもいかないからやらないけど。
「やっぱり優人さんの手って大きいですよね」
「そりゃ雛に比べたらな」
顔だけを少し振り向けた雛の言葉に、何を当たり前のことをと思いながら答える。
単純な性別の差もあれば、優人と雛では身長だって違うのだ。手の大きさだって相応に開きがあって当然だろう。
「たまに自分でマッサージする時ありますけど、なんというかこう、一度に触れることのできる面積? が違います。あと安心感。こればかりは自分だと得られないですもの」
「安心感ねえ」
マッサージを受けているということは、見方を変えれば雛は男の手に全身を委ねているわけで、それを安心できると言ってしまうのは如何なものだろうか。
もちろん自分と彼女はマッサージどころでは済まない触れ合いを経験しているわけで、だから男として見られてないなんて思いはしないが、ちょっとだけ複雑なのも本音だった。
パジャマのショートパンツから伸びる、白くなめらかな二本の素足。重点的にマッサージしているだけについ視線を注いでしまうその箇所は、雛が日頃からタイツを着込むことも多いので、こういう時でもなければじっくり見ることはできない。
一見するとすらりと細いのに、触れてみるとその内に女性らしいしなやかさを備えている美脚。母性を感じさせるふくよかさとはまた違う、健康的な美として培われた柔らかさ。自分の恋人は頭の
綺麗な足は、それだけでも十分過ぎるほど優人の意識を吸い寄せてしかたなかった。
「なんだかちょっと、いやらしい視線を感じるのですけど」
雛の指摘が飛ぶ。口調こそ平坦ではあるが、それだけに言葉の意味がフラットに優人に突き刺さった。
「……すまん」
「あ、そこ素直に認めちゃうんですね」
「事実だし。雛はそういうの
「まあ、他ならぬ優人さんの視線ですから。好きな人からどんな風に見られてるかというのはいつでも気になります」
「……重ね重ねすまん」
雛のそういった気持ちは努力家で、普段から自分磨きを怠らないからこそ生まれるものだろう。その立派な自己
「そ、そんな謝られるほどのことじゃありませんよ。まったくそういう風に意識されないのだって、それはそれで複雑ですし……第一、私とは優人さんはもう、その……え、えっちなことだってしてるんですから、それを考えたら……」
「だからって所構わず求めていいもんじゃないだろ。一線を越えたとしても節度は大事だし、相手を思い遣ることも同じだ」
優人がはっきりそう言い切ると、なぜか、深い沈黙が降りた。
「……雛?」
「私の恋人さんが紳士的過ぎます……。……というかこれ、普通に受け入れちゃってる私の方がよっぽどいやらしいのでは……」
「? 雛の身持ちは固いだろ」
優人の前では色々と無防備な面や刺激的な姿を見せることもあるが、それは恋人相手だからさておくとして。
雛の呟きは枕に口元を埋めながらでぽそぽそとしていたのに、ばっちり聞こえた優人が発言を拾い上げれば、いよいよ雛は顔面丸ごとを枕で押し付け隠してしまった。
「そのつもりですけどっ、そういうことではなくて……っ、もう~っ!」
「おわっ、急に足を振り回すな」
バタ足でも始めたかのように暴れる雛の両足を掴んで抑える。あっさりとベッドに押し付けて動きを封じてしまうと、雛はしばし腰やら肩やらをくねらせていたが、やがて観念して身体の力を抜いた。
「なんかごめん」
「だから優人さんが謝ることじゃ――……いえ、優人さんが悪いです。私をドキドキさせるのが悪いです。なので甘やかしを要求します」
「はいはい」
足の拘束を解くと、雛は寝返りを打って自身の横に作ったスペースをぼふぼふと叩いてみせた。そこに来いということなのだろう。
罰の割にはただの役得でしかないのでためらいなく寝転がって腕を広げると、優人の腕の中に雛の華奢な身体がすっぽりと収まった。
甘やかせと言われた以上、ただ寄り添うだけでは終われない。指通りのいい群青色の髪を梳くようにしながら頭を撫で、背中に回した手で雛を抱き寄せ、優人が持ちうる全てで彼女を包み込む。
「……ん」
弛緩した息遣いが優人の首筋を、ほんのり甘い香りが鼻をくすぐる。さらに同時進行で沁みこんでくるような雛の温もりは心地良く、甘やかすという立場を忘れて溺れてしまいそうだった。
「雛」
口を突いて出る恋情が名前となって相手を呼び、持ち上げられ金糸雀色の瞳が優人を見上げる。
透き通るような輝きの奥、そこにあるのはきっと鏡写しのように同質の想い。
これ以上の確認はいらないと言いたげに瞼のカーテンが下りるので、優人も目を閉じてお互いの唇の隙間を埋める。
視界を閉ざしただけに、いやそうでなくともいっそ陶酔してしまう、重なった場所から伝わる熱と柔らかさ。二つの唇はひとたび繋がれば、最初から一つであったかのように離れることがない。これ以上は先なんてないのに前へ前へと進み合って、押し付け合って、どちらからともなくもっと深い繋がりを求めて自らの内をさらけ出す。
まるで、一つの飴玉を二人で溶かすかのよう。
粘度と湿り気を孕んだ音と、行き交う熱っぽい吐息が、どうしようもなく意識を沸騰させていく。
熱い、心地良い、気持ちいい、柔らかい、甘い、甘い、甘い――。
架空のはずの飴玉はいつしか完全に溶けて、秘めた
呼吸が荒れて息苦しくなりさえしなければ、いつまでも続けていたいのに。
そんな限界に口惜しさを抱えながら唇を離すと、しばらく胸を大きく上下させていた雛は熱で火照った表情のまま、少し不思議そうに微笑んだ。
「気のせいかもしれませんけど、今日の優人さんのキスはいつもよりねちっこいですね」
「ねちっこいってひどい言い草だな。……まあ、気のせいじゃないだろうけど」
「おや、私が甘やかしてって言ったからですか?」
「それもあるけど……明日も、明日はもっと雛が人気になるんだろうなあって思うとさ」
「あはは、優人さんの独占欲は衰え知らずなんですから」
「言ってろ。雛だって似たようなもんだろ」
「ええ、もちろんですよ」
文句は容易く受け流され、雛の人差し指がつんつんと優人の頬を押してくる。
そうしてクスリと笑った彼女は指をずらすと、優人の唇の端から端をつーっと横になぞった。
「では優人さん、一つおまじないでもしてみませんか?」
「おまじない?」
「はい。何でもとてもよく効くおまじないみたいですよ」
具体的にどんな、と尋ねる前に雛の指は優人から離れ、自身のパジャマの襟に添えられる。
一つ、二つ。ぷち、ぷちとボタンという
白く艶めかしい素肌と、わずかに顔を出す可愛らしい色使いの布地。突然の大胆な行動に優人の心臓がドキリとするのも束の間、艶やかに微笑む雛は鎖骨と胸の中間辺りを指で指し示した。張りのある柔肌が押されてわずかに歪む。
「私が優人さんのものだって
「……いいのか? 着替えの時に困るぞ」
「分かっていれば気を付けようはありますよ」
それともやめておきますか、とどこか挑発的な笑みで雛は優人を見つめる。
そう言うのならおまじないとやらを断る必要はない。
優人はどくどくと早鐘を打つ心臓をどうにか
「んっ……ぁっ、はぅ……」
ぴくんと敏感に震える身体を抱きながら、優人は自分の証を雛に刻みつける。
彼女は自分のものだとこの世の全員に訴えるように。
そしてこれから先も彼女を離さず、誰にも渡さないと誓うように。
やがて雛の肌という白いキャンバスには、赤い椿の花が咲いた。
「えへへ……結構分かりやすく残るものなんですね。誰かに見られたら大変です」
言葉の割にはちっとも困ってなさそうな素振りで、自分に刻まれた証を確認した雛は愛おしそうにそれを指先でくすぐる。
確かに改めて見てみると、雛の肌が綺麗な白色だけに優人の証は色濃く映えていた。
「おまじない、効果あるといいな」
「大丈夫ですよ。ちなみに証は交換し合う方がより効き目があるらしいので」
「お願いします」
「ふふ、はーい」
優人の寝間着はジャージとTシャツで、だから雛はTシャツの襟を引っ張って優人に吸いつく。はむはむと
「よし、これでばっちりですね」
「ありがとな。ところで雛」
「はい?」
「こんなおまじない、いったいどこで仕入れてきたんだ?」
「それは――乙女の秘密です」
人差し指を口に当て、ぱちりとウインク。
そう隠されると暴きたくなるのが人の
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